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虚無に溶ける足、奈落への決意

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豪雨が廃鉱山の錆びついたトタン屋根を激しく叩き、不気味な低音を響かせていた。オズワルドのスラム区のさらに外れ、放置された金鉱山の最下層に位置するアキトの隠れ家は、湿った土と古い機械油の臭いに満ちている。


「ミオ……!」


 アキトは灰色のローブを濡らしたまま、寝室の扉を乱暴に押し開けた。背後では、息を切らせた見習い少年のルイが、泥だらけの顔で立ち尽くしている。寝台の上には、色素の薄い銀髪を乱したアキトの妹、ミオが横たわっていた。その顔は苦痛に歪み、浅い呼吸を繰り返している。


 だが、何よりも異常だったのは、彼女の右足だった。


 布団から露出したミオの右足は、膝から下にかけて、まるで熱を帯びた硝子が溶け落ちるかのように半透明の泥水と化していた。肉の境界線が曖昧になり、輪郭が崩れ、ベッドの端から床へとドロドロとした透明な液体が滴り落ちている。それは床に触れた瞬間、煙も立てずに虚無へと消えていく。


「そんな……、さっきまでは、ただ少し透き通っているだけだったのに!」


 ルイが悲痛な声を上げ、自身の頭を抱え込んだ。アキトは無言のまま、ミオの傍らに膝をついた。彼の目は濁った琥珀色の光を湛え、極限の焦燥を冷徹な理性の奥へと押し込もうとしていた。急激な大気マナの乱れが、ミオの体内に潜む「液化虚無の呪い」を活性化させ、その結合を内側から食い荒らしているのだ。


「ルイ、私の薬箱から『結合維持薬』の第三ボトルを出せ。急げ」


「は、はい!」


 ルイが震える手で棚から青い薬瓶を取り出し、アキトに手渡す。アキトはコルクを抜き、その無色の薬液をミオの溶けゆく皮膚へと滴らせた。通常であれば、この薬液に含まれる変異薬草の成分が、肉体のマナ結合を一時的に補強するはずだった。


 しかし、薬液が半透明の肉に触れた瞬間、ジュワリと不気味な泡が立ち上った。薬効成分が、呪いの活性化エネルギーに一瞬にして中和され、ただの無害な水へと変質して霧散していく。液化の進行は止まらない。崩壊の波は、すでに膝の境界を越えようとしていた。


「無駄か……。大気の汚染マナが、薬理の計算式を上回っている」


 アキトの奥歯がギリ、と鳴った。このままでは、あと半日もしないうちにミオの全身が虚無の泥水と化し、この世界から完全に消失する。等価交換の薬理原則に従うならば、この巨大な活性化エネルギーを抑え込むには、それと同等以上の「負の代償」をその場で支払うしかない。


 アキトは躊躇なく、右手に硝子のメスを握りしめた。そして、漆黒に変色した自身の左腕へと刃を向けた。


「痛覚遮断、最大展開。経絡の信号を完全に固定しろ」


 脳内で独自の精神術式を起動する。左腕の黒化した皮膚にメスを突き立て、深く切り裂いた。傷口から溢れ出たのは、鮮血ではない。蛍光緑の不気味な魔力を帯びた、ドロドロとした濁った黒い血――アキトが自らの肉体に移植し、共生させてきた魔獣の「呪血」だった。


「う……、ぐああああっ!」


 痛覚を遮断しているはずだった。しかし、体内の「負の魔力回路」から呪血が直接引きずり出される感覚は、魂を直接削り取られるようなおぞましい激痛となってアキトの全身を震わせた。彼の左半身は一瞬にして氷を押し当てられたように冷たく麻痺し、感覚が完全に消失していく。アキトは血の気の引いた顔で、その滴る呪血をミオの崩れゆく右足へと直接塗り広げた。


「負の共生マナ、接続……。虚無を喰らい、肉の鎖を再構築しろ……!」


 アキトの呪血がミオの半透明の肉に触れた瞬間、蛍光緑の微光がミオの足全体を包み込んだ。呪血に含まれる強力な「負のエネルギー」が、ミオの肉体を溶かそうとする虚無の呪いと激しく反発し、互いの存在を相殺し始める。半透明だった皮膚が、徐々に元の pale な肉色へと再構築され、滴り落ちていた液化がピタリと停止した。


「止まった……? お兄ちゃん、ミオ姉ちゃんの足が元に……!」


 ルイが歓声を上げた。だが、アキトは荒い呼吸を繰り返しながら、自身の包帯から滲み出る血を凝視していた。黒化の境界線が、左肩を越えて鎖骨のすぐ近くまで這い上がっている。余命が確実に削られた証拠だった。


「……一時しのぎに過ぎない」


 暗闇の中から、掠れた、だが重みのある声が響いた。寝室の入り口に立っていたのは、右袖を虚しく揺らした隻腕の老薬師、ゲンゾウだった。彼は古びたパイプを咥え、濁った目でミオの足を見つめている。


「ゲンゾウ先生……」


「お前が自らの呪血を分け与えたことで、呪いの進行は一時的に固定された。だが、それは飢えた獣に己の肉を食わせて引き留めているようなものだ。お前の呪血の効力が切れる数日後、ミオの肉体は反動で一気に溶け落ちるぞ、アキト」


 ゲンゾウは歩み寄り、煤けた真鍮の乳鉢を机に置いた。彼の言葉は冷酷だったが、そこに嘘はないことをアキトは誰よりも知っていた。


「現在の私の調合技術では、これ以上の延命薬は作れません。等価交換の素材が足りない」


「そうだ。この『液化虚無の呪い』の本質は、マナの結合を拒絶し、物質を虚無へ還す人為的なエラーだ。これを根本から中和し、ミオの肉体を完全に繋ぎ止めるには、通常の薬草では話にならん。必要なのは、原初の強力な『結合マナ』だ」


 ゲンゾウはパイプの煙を静かに吐き出し、毒沼の方向を指し示した。


「マギ・ゲヘナ毒沼の最深部、火山灰に覆われた『死灰の洞窟』。そこに君臨する幻獣『黒死大蛇』の胆嚢――それだけが、ミオの肉体をこの世界に永久に固定できる唯一の最上位素材だ」


「黒死大蛇……」


 ルイがその名を聞いた瞬間、恐怖で顔を青ざめさせた。毒沼の生態系の頂点に君臨する神話級の魔獣。その呼吸だけで周囲の大気を即死級の黒死毒に変えるという化け物だ。生身の人間が立ち入れば、数秒と持たずに肺が腐り、結晶化して死に至る。


「行くしかない」


 アキトは冷徹な声で言った。彼の琥珀色の瞳には、一切の躊躇も、死への恐怖も存在しなかった。ただ、ベッドで眠るミオの、母親の形見である「星屑の錆びた髪留め」が微かに放つ清らかな光だけを見つめていた。


「アキト、あそこはただの毒沼ではない。帝国の廃棄魔薬が数百年かけてヘドロと化した、地獄の底だ。お前の左腕が完全に結晶化する方が先かもしれんぞ」


「ミオが消えるのを見届けるくらいなら、奈落の底で大蛇の臓物を引きずり出した方が合理的です、ゲンゾウ先生」


 アキトは立ち上がり、ボロボロの薬師ローブを羽織り直した。左半身の冷たい麻痺感は消えていない。右腕だけで調合器具をまとめ、旅立ちの準備を始める。ゲンゾウはそれ以上アキトを止めようとはせず、静かに真鍮の乳鉢をアキトの前に押し出した。


「ならば、これを持っていけ。お前の父親が遺し、私が預かっていたものだ。魔石を壊さずに粉砕する。大蛇の猛毒を扱うには、これが必要になるだろう」


「……感謝します」


 アキトは煤けた乳鉢をしっかりと抱え、地下調合室の出口へと向かった。ルイが「僕も行く!」と叫んだが、アキトは冷たくそれを遮った。「お前はここでミオの容態を監視しろ。呪血の光が弱まったら、すぐにアガサの礼拝堂へ連絡するんだ」


 アキトは隠れ家の重い木製の扉を開け、豪雨の夜へと足を踏み出そうとした。


 その瞬間、アキトの「微細嗅覚分析」が、激しい雨の匂いの裏に隠された、極微量の「異質な臭気」を捉えた。


 風下から流れてくる、焦げた火薬の匂い。そして、魔獣の骨に塗布された、冷酷な「毒矢の防腐油」の鋭い金属臭。


(……この匂い、密猟団の暗殺者か)


 アキトは足を止め、暗闇の奥、雨に煙る廃鉱山の瓦礫の影を見つめた。気配は完全に消されている。だが、アキトの研ぎ澄まされた嗅覚は、すでに敵の接近をミリ単位で捉えていた。風下からアキトの隠れ家を執拗に捜索している影――「ゲヘナの牙」の冷酷な女性狙撃手、レイラ。彼女の魔導弓が、暗闇の中で静かにアキトの胸元を狙っていた。


 ミオを救うための奈落への旅立ち。その最初の一歩を踏み出す前に、アキトは最悪の追跡者との死闘を強いられようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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