屯所の死闘、溶けゆく筋力
豪雨が、スラムのぬかるんだ路地を容赦なく叩きつけていた。帝国の排気魔力と毒沼のヘドロが混ざり合った雨水は、鼻を突く硫黄の臭いと、皮膚をじりじりと刺激する微弱な酸性を含んでいる。
アキトは灰色のボロボロの薬師ローブを雨に濡らしながら、暗闇の中を疾走していた。包帯を厳重に巻き直した左腕は、走るたびに骨の奥を抉るような激痛を訴えていたが、アキトは「痛覚遮断」の術式を脳内で冷徹に維持し、その苦痛を意識の彼方へと追いやっていた。今、彼を突き動かしているのは、自らの「物理的な盾」である自警団を失うわけにはいかないという、極めて合理的で執念深い計算だけだった。
袖口に仕込まれた「特注ニードルガン」の真鍮のバネが、手首の動きに合わせて冷たく鳴る。針の先端には、地下調合室で精製したばかりの「筋弛緩毒」が、アキト独自の「負のマナ」とともにコーティングされていた。
前方から、落雷のような凄まじい衝撃音と、平民たちの悲痛な叫び声が雨音を突き破って聞こえてきた。自警団の屯所であり、かつては古い酒場だった「黒鉄亭」が見えてくる。その頑丈な木造の壁は、すでに半分から無残にへし折れ、内部の明かりが雨の中に虚しく漏れ出ていた。
「がはっ……、おのれ……ッ!」
崩れかけた瓦礫の隙間から、血を吐きながら吹き飛ばされる男の姿が見えた。スラム自警団長、鉄腕のテツだった。彼の自慢の「古代魔動鉄腕」――右腕の無骨な鉄義手からは、激しい火花と黒煙が噴き出している。
テツの前に立ち塞がっているのは、スキンヘッドに無数の傷跡を刻んだ巨大な男、鉄槌のヴァルだった。密猟団「ゲヘナの牙」の突撃隊長。その手には、魔獣の骨を埋め込んだ巨大な魔導重鉄槌「地鳴り」が握られており、ヴァル自身の肉体は、不気味な黄色の強化魔力によって二回りも巨大化していた。
「おいおい、スラムのゴミ屑どもが、この『地鳴り』の前にいつまで保つと思ってやがる!」
ヴァルが狂暴な笑みを浮かべ、重鉄槌を軽々と肩に担ぎ直した。その足元には、骨を折られ、泥の中に転がっている自警団の若者たちが無数に横たわっている。テツは左手で右の鉄義手を必死に押さえ、膝を震わせながら立ち上がろうとしていたが、その全身はヴァルの圧倒的な魔力圧に圧迫され、呼吸すらままならない状態だった。
アキトは崩落した外壁の影に身を潜め、呼吸を極限まで潜めた。「微細嗅覚分析」を起動し、周囲の大気マナの揺らぎを感知する。ヴァルを包む黄色のオーラから漂うのは、心臓の鼓動を強制的に跳ね上げ、筋肉の電気信号を爆発的に増幅させる、粗悪な「魔獣狂化薬」の臭いだ。
(……やはりな。魔力を燃料にして、運動神経の伝達速度を無理やり引き上げている。物理的な装甲と魔力の障壁は極めて強固。だが、薬理的には隙だらけだ)
アキトは冷徹に状況を分析した。テツがどれほど強靭な肉体を持っていようとも、あの質量と魔力強化された重鉄槌の直撃をまともに受ければ、生身の人間など一瞬で肉塊と化す。現に、テツの鉄義手は駆動マナの結合を破壊され、ピストンが完全に焼き付いていた。
「死ねや、スラムの番犬が!」
ヴァルが大喝すると同時に、重鉄槌「地鳴り」を地表に向けて振り下ろした。テツは避けることもできず、ただ残された左腕を前に突き出して死を覚悟した。
アキトは動いた。影から滑り出るようにして、右手をヴァルの死角へと向ける。手首を特定の角度に鋭くひねり、袖口のトリガーワイヤーを引いた。
――カツン。
雨音に紛れるほどの、極めて微小なバネの作動音。特注ニードルガンの銃口から、無音かつ視認困難な速度で、極細の鉄針が射出された。
ヴァルは野生的な本能でその殺気を察知した。重鉄槌を振り下ろす軌道をコンマ数秒でずらし、自身の周囲に強固な「黄色の魔力障壁」を展開して針を防ごうとした。
「無駄だ、そんな細針が俺の障壁を――」
ヴァルが嘲笑しようとした。だが、その言葉は喉の奥で凍りついた。
アキトの放った針の先端には、ただの毒ではない。障壁を構成する魔力分子の結合を分子レベルで切断する「負のマナ」――「魔法障壁の分子解体」の術式がコーティングされていたのだ。針が黄色の障壁に触れた瞬間、ガラスが割れるような乾いた音が響き、強固な魔力壁は一瞬にしてただの光の霧へと霧散した。
「なっ……障壁が、消え……!?」
驚愕に目を見開くヴァルの首筋、甲冑のわずかな継ぎ目の隙間に、極細の針が吸い込まれるようにして突き刺さった。
針の先端から、アキトが調合した「筋弛緩毒」が、ヴァルの頸椎経絡へと直接注入される。それは、運動神経の末端において、筋肉を動かすための伝達物質(アセチルコリン)の放出を、魔力的に完全に遮断する極めて即効性の高い神経毒だった。
「あ……、が……?」
ヴァルの口から、声にならない掠れた息が漏れた。彼の脳は「テツを叩き潰せ」と筋肉に命令を送り続けていた。だが、その信号は首元で完全にハッキングされ、遮断されていた。巨体を支えていた強靭な脚の筋肉が、一瞬にして張力を失い、まるで溶けた泥のようにぐにゃりと折れ曲がる。
重鉄槌「地鳴り」がヴァルの手から滑り落ち、ぬかるんだ泥の中に重い音を立てて沈んだ。ヴァルは全身の力を奪われ、泥水の中に四つん這いになりながら、必死に呼吸をしようと口をパクパクと動かした。呼吸を司る横隔膜の筋肉すらも、アキトの毒によって完全に弛緩させられていた。
「ば、か……な……俺の、身体強化、が……溶け……」
ヴァルは濁った目でアキトを睨みつけようとしたが、首を動かすことすらできなかった。ただの肉の塊と化した大男が、泥の中で無様に震えている。
「テツ、今だ」
アキトは冷酷な声を響かせた。
その声に、テツの瞳に再び闘志の火が灯った。彼は破損し、火花を散らす鉄義手を強引に起動させた。アキトが事前にテツの義手の駆動マナ波形をハッキングし、一時的に出力を限界突破させるように調整しておいた魔力が、義手のピストンを赤く加熱させる。
「おおおおおっ! 死ね、ヴァルッ!」
テツは残された全身の力を乗せ、赤熱した魔動鉄腕を、動けないヴァルの脳天へと叩きつけた。金属が肉と骨を粉砕する、鈍く重い音が屯所の中に響き渡り、密猟団の突撃隊長は、悲鳴を上げることも許されずに泥の底へと沈んだ。
静寂が、雨の音とともに屯所を満たした。生き残った自警団員たちが、信じられないものを見る目で、アキトとヴァルの死体を見つめていた。
だが、アキトには勝利の余韻に浸る時間など一秒もなかった。突如、彼の胸元に、激しい不快感と「負のマナ」の共鳴が走った。
「アキト、兄ちゃん……っ!」
崩れかけた屯所の入り口に、息を切らせて駆け込んできたのは、見習いの少年ルイだった。彼の小さな体は豪雨でずぶ濡れになり、その瞳は見たこともない絶望と恐怖に染まっていた。
「ルイ、どうした。隠れ家を守れと言ったはずだ」
「ミ、ミオ姉ちゃんが……! さっきの戦いの、凄い魔力の震えが隠れ家まで届いて……ミオ姉ちゃんの呪いが、急に……!」
ルイは涙を流しながら、アキトの灰色のローブを必死に引っ張った。
「右足が……ミオ姉ちゃんの右足が、膝の上まで……完全に、透明な水みたいに溶け始めてるんだ! 薬が、いつもの延命薬が、全然効かないんだよ!」
アキトの琥珀色の瞳が、かつてないほどの狂気と焦燥を帯びて激しく揺れた。戦闘による大気マナの急激な乱れと汚染が、ミオの体内の「液化虚無の呪い」を最悪の形で活性化させてしまったのだ。
タイムリミットが、今、完全に始まった。
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