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血族の裏切りと遅効性の罠

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冷たい雨が、廃鉱山の錆びついたトタン屋根を激しく叩いていた。スラムの湿った夜気は、帝国の排気魔力と毒沼のヘドロが混ざり合い、肺の奥をじりじりと灼くような不快な重さを含んでいる。


「逃げて、アキト……。お願い、今すぐここから逃げて……!」


 隠れ家の歪んだ木扉を押し開けて滑り込んできたのは、ずぶ濡れになった少女だった。アキトの従姉であり、強欲な叔父トウマの娘であるサカグチ・ユリカ。地味な平民の服を泥で汚し、寒さと恐怖で小刻みに震えながら、彼女はアキトのボロボロの薬師ローブを掴んだ。


「ユリカか。声を落とせ、ミオが奥で眠っている」


 アキトは濁った琥珀色の瞳を向け、冷淡な声で言った。包帯で厳重に巻かれた彼の左腕は、皮膚の下で呪詛が脈打つたびに、微かに蛍光緑色の光を漏らしている。その冷徹な佇まいに、ユリカは一瞬息を呑んだ。かつて帝国薬学アカデミーで優秀な成績を収めていた頃の、穏やかで知的な従弟の面影は、そこには微塵も残っていなかった。


「お父様が……お父様があなたを裏切ったの!」


 ユリカは涙を浮かべ、喉を詰まらせながら囁いた。


「お父様、徴税官のバルト一味と密猟団のゴズに、あなたの調合室の場所を教えたわ。あいつらから大金と、宮廷製薬院の『本物の薬』を貰う約束をして……今夜にも、警備兵を連れてここを包囲するつもりよ。あなたの『呪詛共生調合』のことも全部話してしまった……。大逆罪で、捕まれば即座に火刑にされる!」


 必死に危険を告げるユリカを見つめながら、アキトは感情の起伏を完全に排した脳細胞で、ただ論理的な計算だけを走らせていた。叔父トウマが自分たちを売ることは、すでに想定の範疇だった。強欲で臆病なあの男が、スラムで「死神薬師」が羽振りを良くしているのを見て、指をくわえているはずがない。


「……そうか。知らせてくれて感謝する、ユリカ」


「アキト、お願いだからお父様を……お父様を恨まないで。あの人はただ、お金が欲しくて狂っているだけなの。だから、早く逃げて!」


「恨む? そんな無駄な感情に割くリソースは、私にはない」


 アキトは冷ややかに言い放ち、ユリカの肩をそっと押して外へ促した。彼女の警告によって、バルト一味が動く正確なタイミングが確定した。それだけで十分だった。


 ユリカが闇の中へ去っていった数分後、アキトの「微細嗅覚分析」が、雨の匂いに混ざる「別の悪臭」を捉えた。脂ぎった安物の香水、そして、汚職兵から受け取ったばかりの「マナ結晶硬貨」の、あの血塗られた冷たい金属の魔力臭。


(来たか、害虫め)


 アキトは口元を歪め、地下調合室から持ってきた木箱から、安物の毒沼蒸留酒を満たした二つの木杯を取り出した。そして、片方の杯の底に、無色無臭の微細な粉末を静かに滑り込ませた。それは彼が自身の「呪血」を蒸留し、特定の魔力波形にのみ反応して活性化するよう分子構造を調整した、禁忌の「遅延毒素」だった。


 トントン、と遠慮がちな、だが卑屈なノックの音が響く。


「アキト! アキト、無事か! 叔父のトウマだ!」


 扉を開けると、小太りの体躯をだらしなく揺らしたトウマが、わざとらしい「心配顔」を張り付けて立っていた。その目はアキトの安否を気遣うふりをしながら、隠れ家の奥にある調合器具や、地下へ続く隠し扉の存在を血眼になって探っている。


「トウマ叔父さん。こんな深夜にどうしたんだ」


「おお、心配でな! スラムで兵隊どもが『禁忌の薬師』を捜索していると聞いて、お前たちが捕まりやしないかと夜も眠れんかったのだ。ほら、冷えただろう。温かいものでも飲んで、落ち着きなさい」


 トウマは懐から、自分が持ってきた安物の酒瓶を取り出そうとした。だが、アキトはそれを手で制し、あらかじめ用意していた木杯をトウマの前に差し出した。


「お気遣いなく。すでに温めておいたスラムの地酒があります。せっかく来てくれたんだ、叔父さんも一杯どうですか」


「おお、そうか! それなら遠慮なく頂こう」


 トウマは疑いもせず、アキトから差し出された木杯をひったくるようにして受け取った。あわよくばアキトを油断させ、バルト一味が到着するまでこの場に留め置く算段なのだろう。トウマは喉を鳴らして、一気に酒を飲み干した。


「ふぅ、美味い。やはりお前の酒は五臓六腑に染みるな」


 トウマは下卑た笑みを浮かべ、満足そうに唇を拭った。その手のひらが、無意識のうちに衣服の懐を叩く。そこには、かつてアキトの父から騙し取った「薬草園の権利書」が隠されているのを、アキトの鋭い目は見逃さなかった。


「それで、叔父さん。バルトの警備兵は、いつここへ到着する予定なんだ?」


 アキトが極めて平然と、事務的なトーンで問いかけた。


「はは、何を言っているんだアキト。兵隊のことなど、私が知るはずが――」


 トウマの言葉が、唐突に途切れた。彼の丸い目が、驚愕と混乱に見開かれる。


「……あ、あれ? 喉が……熱い……」


 トウマは木杯を床に落とした。カラン、と虚しい音が響く。彼は自身の首元を両手で掻きむしり、激しく喘ぎ始めた。皮膚の下から、ドクドクと脈打つ血管が、不気味な蛍光緑色に浮かび上がってくる。それは、アキトの包帯の奥で光る呪詛の光と、全く同じ色だった。


「ひ、ひぃっ!? なんだ、これは……私の、私の体が……!」


 トウマは懐から、バルトから貰った簡易護身用魔石を取り出し、その魔力を起動しようとした。だが、魔石は冷たい石ころのまま、何の発光も示さない。アキトが地下調合室から意図的に漏出させていた「負のマナ」が、この部屋の空気を満たし、安物の魔石の起動マナを完全に吸い尽くして無効化していたのだ。


「無駄だ、トウマ叔父さん」


 アキトは立ち上がり、膝から崩れ落ちるトウマを、虫ケラを見るような冷たい目で見下ろした。


「お前が今飲んだのは、私の呪血を触媒にした遅延毒素だ。お前の体内に入った毒素は、私の『負の魔力』の周波数に共鳴して、一瞬でお前の運動神経をハッキングする。今、お前の横隔膜と呼吸筋は、私の意志一つで完全に麻痺させられている」


「が、はっ……あ、あ、あ……!」


 トウマは床をのたうち回り、酸素を求めて口をパクパクと動かした。全身の血管が緑色に膨れ上がり、皮膚がガラスのように硬化していく錯覚に、彼は死の恐怖を骨の髄まで味わっていた。


「お、お助け……アキ、ト……お前は、身内、だろう……!」


「身内だからこそ、生かして使う価値がある。死体は偽の情報を喋ってくれないからな」


 アキトは懐から、極微量の「中和剤」が入った小さな硝子瓶をトウマの鼻先にちらつかせた。


「これを飲めば、呼吸は楽になる。だが、毒素は完全には消えない。お前が私を裏切るか、あるいはバルト一味に余計なことを喋った瞬間、お前の心臓は完全に麻痺して停止する。理解できたら、頷け」


「う、うぐっ……! わ、分かった! 何でもする! 助けてくれええ!」


 トウマはプライドも何もかも投げ捨て、アキトの足元にすがりついて泣き叫んだ。アキトは冷酷に中和薬を一滴だけトウマの口に落とした。その瞬間、トウマの喉の痙攣が劇的に治まり、彼は泥のように床にへたり込んで激しく咳き込んだ。


 アキトは躊躇なくトウマの懐に手を入れ、そこから煤けた羊皮紙――「薬草園の権利書」を奪い取った。トウマはそれを奪い返す気力すら失い、ただアキトの「死神」のような瞳に怯えて震えていた。


「これでよし。トウマ、お前は今すぐバルトの警備兵の元へ戻れ。そして、私の調合室は廃鉱山ではなく、逆方向の『ゲヘナの奈落』の崖下にあると報告しろ。兵たちをそちらへ誘導するんだ」


「わ、分かった……。やる、やるから、その毒を、早く消してくれ……」


「お前の働き次第だ。行け」


 アキトの冷徹な命令に、トウマは這いずるようにして隠れ家から逃げ出していった。その背中を見送りながら、アキトは手に入れた権利書をローブの内ポケットに収めた。バルト一味の包囲網を未然に防ぎ、逆に自滅させるためのダブルスパイ(囮)は完成した。合理的かつ、完璧な勝利のはずだった。


 だが、安息の時間は一瞬で破られた。


 バン! と、隠れ家の扉が再び乱暴に押し開けられた。現れたのは、肩から血を流し、息を切らせたスラム自警団の若い男だった。彼の胸元には、アキトが授けた「サカグチの銀ピン」が、雨に濡れて鈍く光っている。


「ア、アキト先生……大変だ! 屯所が……自警団の屯所が!」


 男はアキトの足元に崩れ落ちながら、絶望に満ちた声を絞り出した。


「密猟団の首領ゴズの右腕……『鉄槌のヴァル』だ! あいつが、Poacher(密猟者)どもの大部隊を率いて、俺たちの屯所を急襲した! テツ団長が必死に食い止めてるが、ヴァルの奴、魔力強化された巨大な鉄槌を振り回して、屯所を丸ごと叩き潰そうとしてる! このままじゃ、自警団は全滅だ……先生、助けてくれ!」


 アキトの琥珀色の瞳が、冷酷な光を帯びて細められた。せっかく手に入れた「物理的な盾」である自警団が、自らの調合室を守る前に破壊されようとしている。それは、アキトの生存戦略における、致命的な損失を意味していた。


「ルイ、ミオの部屋の結界を維持しろ。私は屯所へ行く」


 アキトは灰色のローブを翻し、雨が降りしきる暗黒のスラム街へと、静かに走り出した。

HẾT CHƯƠNG

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