死神の施しと鉄の義手
「そこまでだ、薄汚い毒使い。その不気味な薬を子供たちから遠ざけろ」
スラムの共同救護所に、テツの低く地響きのような声が猛々しく響き渡った。天井の隙間から漏れる雨垂れの音さえも、その威圧感にかき消されていく。
アキト・サカグチの細い首筋には、無骨な「古代魔動鉄腕」の硬質な指先が容赦なく押し当てられていた。魔力を燃料とするピストンが不気味な駆動音を立て、排気孔から噴き出す熱風がアキトの頬をじりじりと灼く。一歩でも動けば、その強大な圧力で喉笛を容易に噛み砕くという、明確な殺意の表明だった。
「死神の施しなど、このスラムには必要ねえ。これ以上子供たちを弄ぶなら、その首ごと叩き潰すぞ」
テツの怒りに血走った目が、アキトを射抜くように睨みつけていた。かつて帝国軍の重装歩兵として戦場を駆けたその肉体は、退役した今なお、平民たちにとって絶対的な暴力の象徴だった。テツ率いるスラム自警団の男たちも、アキトを取り囲むようにして、錆びた鉄パイプや大鎌を構えている。
しかし、首を絞められた当事者であるアキトの琥珀色の瞳には、恐怖の破片すら浮かんでいなかった。彼はただ、目の前でののたうち回る結晶化寸前の少女を静かに見つめ、淡々と口を開いた。
「……あと百八十秒だ」
「何だと?」
テツが怪訝そうに眉をひそめ、義手の圧力をさらに強める。金属の摩擦音がアキトの気管を圧迫したが、アキトは眉一つ動かさずに言葉を続けた。
「結晶化が胸鎖乳突筋を伝い、上大静脈を締め上げている。心臓の弁が完全にガラスに変わるまで、あと三分もない。お前がその鉄の玩具で私の首をへし折るのが先か、この子が物言わぬ硝子の彫像になるのが先か、賭けるか?」
「貴様……!」
「止めなさい、テツ!」
たまらず声を上げたのは、床にへたり込んでいた治癒術士のエルマだった。彼女のすり切れたシスター服は、泥と子供たちの血で汚れ、魔力を使い果たしたその顔は死人のように蒼白だった。
「もう私の治癒魔法(ヒール)では、この子の結晶化を抑えられない……。光をあてるたびに、結晶が、胸を引き裂くようにして増殖していくのよ!」
エルマは自身の震える両手を見つめ、絶望に唇を噛んだ。彼女の信じる「神聖なる奇跡」は、この酸鼻極まる現実の前で、完全に無力化されていた。
「当たり前だ」
アキトはテツの鉄指の隙間から、冷徹な視線をエルマへと向けた。
「大気と水源に混ざっているのは、宮廷製薬院が投棄した不純な廃棄魔薬だ。マナの結晶化規則をハッキングされた汚染物質に対し、お前が安易な『神聖マナ』を注ぎ込めばどうなる? 魔法の光が触媒となり、不純結合の成長速度を倍加させる。お前の祈りが、その子の寿命を秒単位で削り取っていたのだ」
「そんな……私の魔法が、この子を殺しかけていたなんて……」
エルマが頭を抱えてすすり泣く。教会の教条主義が、いかに現場の薬理を無視したものであるかを、アキトは一片の同情もなく暴き立てた。
「嘘を言うな!」
テツが吼えた。彼は自身の左手――血の通った生身の手を、激しく喘ぐ少女の胸元へと押し当てた。
「俺の魔力で、結晶を押し戻してやる! こんな不気味な毒使いの言葉など信じられるか!」
テツの体内から、重厚な魔力が奔流となって放たれ、少女の肉体へと流れ込む。だが、その瞬間、少女の胸元に浮かび上がっていた青いガラスの血管が、眩い光を放ちながら一気に肥大化した。パキパキと、肉が凍りつくようなおぞましい音が救護所に響き渡る。
「がはっ……、あ、あああああ!」
少女が背中を反らせ、肺を潰されたような悲鳴を上げた。結晶のトゲが皮膚を突き破り、新たな血がシーツを赤く染める。
「な……っ!?」
テツが驚愕して手を離した。注ぎ込んだ魔力が、汚染マナを活性化させ、結晶化を強制的に進行させてしまったのだ。
「言ったはずだ、力任せの魔力は最悪の燃料だと」
アキトは冷ややかに言い放ち、テツの義手の関節部分を、自身の右手の指先で軽く叩いた。その瞬間、アキトの「微細嗅覚分析」が、テツの義手の駆動部から漏れる微かな熱風の周波数を捉えていた。義手の魔力信号を一時的に狂わせる、目に見えないハッキング。ピストンの圧力が一瞬だけ緩んだ隙に、アキトは滑るようにしてテツの拘束から身を引いた。
「あと九十秒。テツ、お前の無知がこの子を殺す。それとも、私の『毒』に賭けるか?」
アキトは手にした硝子瓶を掲げた。中には、暗闇で微かに青白く発光する液体――「毒素中和指数:10%(基礎中和)」の薬液が揺れている。それは、アキトが自身の黒化した左腕を切り裂き、その「呪血」を触媒にして、毒沼のヘドロから精製した禁忌の魔薬だった。
「待って……アキト」
エルマが這いつくばるようにしてアキトの足元にすがりついた。
「その薬から、禍々しいマナを感じるわ……。まさか、魔獣の呪詛や、お前のその不気味な左腕の血を混ぜているの!? そんなの、ただの劇薬よ! 子供の体に投与していいはずがない!」
「お前たちの言う『神聖な薬』が、平民を病に陥れるための罠なら、禁忌の毒こそが彼らを解放する」
アキトはエルマの制止を冷酷に振り払った。
「毒と薬は表裏一体だ。適切な中和式さえ構築できれば、いかなる呪いも分解できる。テツ、決定権はお前にある。このままお前のプライドとともに子供を殺すか、それとも死神の施しを受け入れるか」
救護所の中に、張り詰めた静寂が落ちる。少女の呼吸はすでに弱々しく、喉の奥からヒューヒューと悲痛な風鳴りが漏れるのみだった。結晶のひび割れは、すでに鎖骨を越え、喉元へと達しようとしている。本当に、時間がない。
テツは巨大な鉄の義手を握り締め、その金属の指先を激しく震わせた。スラムの子供たちは、彼にとって命に代えても守るべき家族だった。その家族が、目の前でガラスの塊に変わろうとしている。
テツの目から、一本の涙がこぼれ落ち、錆びた鉄の義手の上で弾けた。
「……やれ」
絞り出すようなテツの声だった。
「テツ!?」
エルマが悲鳴のような声を上げるが、テツはそれを手で制した。
「もし、その子が死んだら……アキト、お前を地の果てまで追い詰めて、この手で八つ裂きにする。だが……もし救えるなら、俺の命をどう使おうと構わん」
「取引成立だ」
アキトは一切の感情を交えず、ただ合理的判断のみに従って一歩踏み出した。彼は少女の枕元に跪き、中和薬の瓶のコルク栓を歯で引き抜いた。
「ルイ、頭を固定しろ」
「うん、お兄ちゃん!」
控えていたルイが素早く前に出、少女の細い顎を優しく、だが確実に固定した。アキトは少女の乾いた唇を押し開き、青白く発光する液体を、その喉奥へと一気に流し込んだ。
一秒、二秒、三秒。
救護所の中の全員が、呼吸を忘れてその光景を注視していた。テツの鉄の義手が、緊張のあまり金属の悲鳴を上げる。
四秒。突如として、少女の胸元からジュワリ、と激しい泡立ちの音が聞こえ始めた。酸が石灰を溶かすような、不気味な沸騰音。少女の皮膚の下を蠢いていた青いガラスの脈が、突如としてその輝きを失い、濁った灰色へと変色していく。
「あ、ああ……」
エルマが息を呑んだ。
皮膚を突き破っていた鋭利な結晶の針が、先端からみるみるうちに崩壊し始めたのだ。ガラスのトゲは、光を失った砂の塊へと変わり、シーツの上へボロボロと崩れ落ちていく。少女の喉元を覆いかけていた青いひび割れが、水に溶けるインクのように薄まり、消え去っていく。
やがて、少女の胸が大きく上下した。深く、遮るもののない、正常な呼吸。
「……息を、してる……。結晶が、消えていくわ……」
エルマが信じられないものを見る目で、少女の胸元を見つめた。そこには、赤みを帯びた、温かい生身の皮膚が戻っていた。熱病の結晶化が、分子レベルで完全に「中和」されたのだ。
「溶けた……本当に、溶けちまった……」
自警団の男たちが、呆然と呟きながら武器を落とした。救護所のあちこちから、安堵の泣き声が漏れ始める。テツは自身の生身の左手で少女の額に触れた。熱は下がり、皮膚は柔らかい。ガラスの冷たさは、どこにもなかった。
テツはゆっくりと立ち上がり、アキトに向き直った。その顔には、先ほどまでの凶暴な敵意は微塵も残っていなかった。あるのは、己の無力さへの悔恨と、目の前の「毒薬師」に対する、底知れない畏怖と敬意だった。
「……俺たちの負けだ、アキト。いや……アキト『先生』」
テツは身の丈二メートルの巨体を、アキトの前に深く折り曲げた。鉄の義手が床に触れ、鈍い音を立てる。
「スラムの子供たちを救ってくれた。この恩は、何があっても忘れない。俺たち自警団の総力を挙げて、お前の調合室と、お前の身を守る盾になることを誓おう。お前を狙う奴がいれば、それが帝国兵だろうが密猟者だろうが、この鉄腕で叩き潰してやる」
アキトは無言でそれを受け止めた。感情的な感謝など彼には不要だった。だが、今後の「毒沼での素材採取」において、自警団という強力な物理的防護(盾)を確保できたことは、極めて合理的な収穫だった。
アキトはローブの内側から、調合室の廃材を溶かして作った小さな銀製のピンバッジを取り出した。独特の薬草の紋様が刻まれた、「サカグチの銀ピン」だ。
「これを身につけておけ。自警団のメンバー全員に配れ。これが、私の『味方』である証だ。これを持つ者には、今後も必要な薬を優先して供給する」
「……ありがたく、頂戴する」
テツは大きな手で銀ピンを受け取り、自身の胸元に深く突き刺した。救護所の中の平民たちが、アキトを「死神」ではなく、真の「救世主」として見つめ始める。その光景を、ルイは誇らしげな目で見つめていた。
しかし、救護所が温かい安堵の光に包まれるその裏で、スラムの暗い路地裏には、すでに邪悪な影が忍び寄っていた。
冷たい雨が降り続く廃墟の影。小太りで品のない衣服を纏った中年の男――アキトの叔父、サカグチ・トウマが、周囲を怯えるように見回しながら、漆黒の外套を着た男と密会していた。外套の胸元には、辺境徴税官バルト一味の紋章が刻まれている。
「本当に、あの『死神薬師』の隠れ家の場所がわかるんだろうな、トウマ」
外套の男が、冷酷な声で囁いた。
「わ、わかるとも! あいつの地下調合室は、あの廃鉱山の最下層、崩落した壁の奥にあるんだ。あいつはそこで、魔獣の呪いを使った禁忌の薬を作っている……! だから、約束の金と、製薬院の『本物の薬』をよこせ! 俺の娘ユリカのためにも、あの大逆罪人の甥を捕まえて、手柄にしてくれ!」
トウマは強欲な笑みを浮かべ、汚職兵の手元にあるマナ結晶硬貨の袋を凝視した。身内の命を売り渡し、自らの保身と富を得るための、醜悪な取引。
雨音にかき消されながら、スラムを揺るがす裏切りの鎖が、静かにアキトの地下調合室へと伸び始めていた。
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