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泥の底に消える足跡

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「青い、ガラス……」


 廃鉱山の最下層に築かれた地下調合室で、アキトは自警団の若者がもたらした報せを反芻していた。包帯に包まれた左腕が、怒りに呼応するかのようにドクドクと熱い脈動を刻む。


 スラムの子供たちが一斉に高熱を出し、皮膚が結晶化し始めている。それは、帝国宮廷製薬院がこの辺境に不法投棄した魔薬廃棄物――「腐死ヘドロ」が地底を伝い、平民たちの井戸水を汚染したことによる、人為的な公害病に違いなかった。


「エルマさんの救護所じゃ、もう手が付けられないんだ! 先生、頼む、来てくれ!」


 懇願する若者に対し、アキトは濁った琥珀色の瞳を冷酷に細めた。


「……今行っても無駄だ。私にはまだ、その結晶化を中和するための『塩基』がない」


「そんな……!」


「ルイ、準備をしろ。毒沼の深部へ入る」


 アキトが調合台の影を振り返ると、そこには大きな薬草袋を背負った十歳の少年、ルイが立っていた。鼻の頭に煤をつけたその瞳には、恐怖と、それ以上の強い決意が宿っている。


「うん、アキトお兄ちゃん! 僕、ヘドロの吹き溜まりの場所、知ってる。案内できるよ!」


「待て、ルイ。お前を連れていくのは、お前の鼻が『負のマナ』の偏りを嗅ぎ分けられるからだ。だが、一歩間違えれば肺が溶けて死ぬ。私の指示には絶対に従え」


「わかってる。ミオお姉ちゃんを、スラムのみんなを救うためだもん。僕、絶対に足手まといにはならない!」


 ルイはアキトから最初に与えられた「サカグチの古い乳棒」を小さな手で強く握りしめた。アキトはその健気な姿に、かつて純粋に医術を信じていた頃の己の影を重ね、小さく息を吐いた。


 二人は深夜の「泥の門」を潜り、大陸最悪の公害地帯「マギ・ゲヘナ毒沼」へと足を踏み入れた。


 大気そのものが酸性の呪詛ガスで満ちた、緑色に発光する湿地帯。アキトは特製の「吸魔の防毒マスク」の革紐を締め直し、ルイには特殊な薬草液で浸した濡れ布巾を幾重にも口元に巻かせた。足元を踏みしめるたび、グズリと不気味な音が響き、泡立つ泥から有害な排気マナの臭気が立ち上る。


「お兄ちゃん、あっち……。あの骨がたくさん転がってるところから、すごく冷たくて嫌な匂いがする」


 ルイが指し示したのは、毒沼のさらに奥に位置する「白骨の泥濘」だった。かつて毒沼の有害水に耐えかねて命を落とした巨大な魔獣たちの骨が、墓標のように白く晒されている底なし沼。その泥の底にこそ、帝国が投棄した魔薬廃棄物が凝縮された「腐死ヘドロ」が沈殿している。


 アキトは「ろ過機能付き蒸留器」を取り出し、粘り気のある黒緑色のヘドロを慎重に採取し始めた。このヘドロに含まれる負の触媒が、子供たちの結晶化を分解する「中和薬」の基礎となる。


 だが、採取が半分ほど進んだその時、アキトの「微細嗅覚分析」が、風上に混ざる「異質な臭気」を捉えた。


(……脂ぎった、ネズミのような体臭。それと、錆びた鉄の匂い)


 アキトの表情が、防毒マスクの奥で凍りついた。間違いない。密猟団「ゲヘナの牙」の斥候、ジャックだ。奴はアキトがミオを匿っている「廃鉱山の隠れ家」の場所を特定するため、執拗に尾行してきていたのだ。


「ルイ、伏せろ。骨の陰に隠れるんだ」


 アキトはルイの首元を掴み、巨大な魔獣の肋骨の影へと引きずり込んだ。ルイは息を呑み、アキトのボロボロの灰色の薬師ローブにしがみつく。少年の体が、恐怖で小刻みに震えていた。


「誰かそこにいるのかぁ?」


 霧の向こうから、不気味なニヤケ顔を浮かべたジャックの声が響いた。奴の手には、魔獣の骨で作られた弓と、先端に不気味な毒液が塗られた鉄針が握られている。


 ジャックは地面に残されたアキトたちの足跡を睨みつけ、確実に距離を詰めてくる。このままでは、隠れ家の位置だけでなく、今ここで殺される。


「お兄ちゃん、僕が……!」


 ルイが焦燥に駆られ、気を逸らそうと近くの石を拾って投げようとした。しかし、その動きはあまりにも無謀だった。


「馬鹿、やめろ!」


 アキトは強引にルイの腕を掴んで制したが、小石が泥に落ちた「ポチャン」という微かな音が、静寂な沼地に響いてしまった。ジャックの耳がピクリと動く。


「そこかァ!」


 ジャックが躊躇なく右手を払い、袖口から奇襲用の毒針を放った。シュッという短い風切り音とともに、細い針がアキトのすぐ脇の骨に突き刺さり、緑色の毒液がジュワリと泡を立てて骨を腐食させる。


 アキトは「痛覚遮断・毒素制御」を起動し、恐怖の感情を脳内で物理的にシャットダウンした。心拍数を極限まで落とし、冷徹な演算回路を立ち上げる。


(正面から戦えば、肉体的な運動能力の低い私に勝ち目はない。ならば、この『白骨の泥濘』そのものを兵器にする)


「ゲイル、繋ぐぞ」


 アキトは左腕の包帯の下で、漆黒の幼蛇ゲイルの頭を指先でなぞった。自身の呪血をゲイルに吸わせ、禁忌の「精神同調」を起動する。


 視界が、一瞬にして暗転した。


 アキトの右目が濁った琥珀色から、ゲイルの瞳と同じ怪しい緑色へと明滅する。脳内に直接流れ込んできたのは、冷たく、湿り気を帯びた、蛇としての異常な五感だった。大気の温度変化が熱源として視覚化され、泥の微細な振動が皮膚を通じて直接脳へと伝わる。人間ではない獣の感覚を共有する不気味さと、呪詛の逆流による強烈な脳震盪がアキトを襲い、左腕に焼き付くような冷たい激痛が走った。


 だが、アキトはのたうち回りたい衝動を冷徹にねじ伏せ、ゲイルの体を泥の中へと走らせた。泥と同化し、液化するように泳ぐゲイル。その視界の先には、崩れやすい泥濘の crust(表皮)の上に立つジャックの足元があった。


「どこに隠れてやがる……!」


 ジャックが懐から魔力探知の巻物を取り出し、アキトの位置を特定するための魔力パルスを放とうとした。その瞬間、アキトは手元にあった「腐死ヘドロ」の未精製ボトルを開け、周囲の大気に向けて中身をぶちまけた。


 ボトルの負のマナが霧散し、ジャックの放った探知魔術と激しく衝突する。魔力の波形が乱反射を起こし、ジャックの巻物は不気味な黒煙を上げて燃え尽きた。


「なっ、魔力探知がバグった!? クソ、何をしやがった!」


 視覚と魔力感覚を一時的に奪われ、ジャックが激しく動揺した。その足が一歩、さらに奥の、最も地盤の緩いエリアへと踏み込まれる。


「今だ、ゲイル」


 アキトの冷徹な思考が、同調したゲイルの肉体を動かした。


 泥の中から、漆黒の蛇体が矢のように飛び出した。ゲイルはジャックの足首に強靭な力で巻き付き、鋭い牙をその肉に突き立てる。大蛇の幼体としての強力な麻痺毒が、ジャックの神経を瞬時に侵食した。


「ぎゃあああっ!? 蛇、ヘビが――!」


 ジャックが悲鳴を上げ、もがこうと暴れる。しかし、暴れれば暴れるほど、彼の体は「白骨の泥濘」の底なしの泥の中へと深く沈んでいく。さらに、彼の傷口から流れ出た血と、激しい splashing(泥跳ね)が、この墓場に淀んでいた「泥の亡者」の呪いマナを活性化させてしまった。


 ズブズブと、泥の中から無数の灰色の「手の形をした泥」が這い上がり、ジャックの衣服や髪を掴んで下へと引きずり込んでいく。それは、この沼で死んでいった平民たちの無念の怨念だった。


「助け、てくれ! 頼む、悪かった! 金ならやる、だから――!」


 ジャックが泥にまみれた顔を歪め、アキトに向かって必死に手を伸ばす。


 アキトは肋骨の影から静かに姿を現した。防毒マスクの奥の琥珀色の瞳には、同情の光など一滴も存在しなかった。ただ、実験装置の数値を眺めるかのような、絶対的な冷たさでジャックが沈んでいく様子を見つめている。


「お前を助ければ、ミオの居場所が割れる。等価交換だ、お前の命で、彼女の安全を買わせてもらう」


 アキトの冷酷な言葉が響く中、ジャックの頭部が完全に泥の底へと沈み、不気味な泡がいくつか浮かんで消えた。沼地には、再び静寂だけが戻ってきた。


 ルイはアキトの傍らで、恐怖に目を見開いたまま立ち尽くしていた。人が目の前で、これほど無残に、そして効率的に処理されたのだ。アキトに対する根深い恐怖が、ルイの小さな胸を支配する。しかし、同時に、その冷徹な知性と圧倒的な薬理的支配力に対する、抗いがたい憧れが、少年の心に深く刻み込まれていた。


「……お兄ちゃん、ジャックは、もう……」


「ああ。泥の亡者のマナに飲まれた。二度と這い上がっては来られない」


 アキトは同調を解除し、強烈な脳の疲労感に耐えながら、ゲイルを自身の左腕へと呼び戻した。ゲイルの口には、ジャックが沈む直前に落とした、泥だらけの革のバッグが咥えられていた。


「よくやった、ゲイル」


 アキトはバッグを受け取り、中の泥を払って中身を改めた。密猟用の毒針や、盗まれた薬草の束に混ざって、一つの「重い物体」が転がり出た。


 それは、鈍い金色を放つ、金属製の頑丈な印章だった。そして、その印章の表面には、帝国の公式な紋様とともに、一つの名前が刻まれていた。


『帝国辺境徴税官・バルト』


 さらに、バッグの底から出てきたのは、防水の羊皮紙に記された極秘の取引書だった。そこには、徴税官バルトが密猟団の首領ゴズから巨額の賄賂を受け取り、製薬院の不純な魔薬廃棄物をスラムの水源近くに「意図的に投棄すること」を黙認、いや、推奨していたという、おぞましい契約の文言が並んでいた。


「――これは」


 アキトの瞳が、怒りと衝撃で激しく見開かれた。


 スラムを襲う結晶化の熱病は、単なる公害事故ではない。平民たちを意図的に病気にし、製薬院の高価な「神聖魔薬」に依存させ、帝国への絶対的な服従を強いるための、冷酷な支配システムの一部だったのだ。


 そして、その魔薬廃棄物の毒素構造こそが、妹ミオの肉体を侵食している「液化虚無の呪い」の成分と、不気味なほど酷似しているという事実に、アキトは気づいてしまった。


 暗黒の毒沼の風が、アキトの薬師ローブを激しく揺らす。手にした印章を握りしめ、アキトは暗闇の向こうにそびえ立つ、白亜の貴族街を見据えた。彼の戦いは、目の前の病を癒やすだけでは終わらない。この世界の支配構造そのものを、自身の毒で溶かし尽くすまで。

HẾT CHƯƠNG

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