風下の追跡者と蛍光の罠
「シュウ、シュウ……」
漆黒の防毒マスクのフィルター缶が、大気中に充満する酸性の呪詛マナを吸い込み、限界に近い不気味な吸気音を立てていた。フィルターの内部に敷き詰められた結晶魔石の粉末が、汚染物質をろ過するたびに熱を帯び、アキトの顔面に生温かい不快感を伝えてくる。
周囲は、荒れ狂う「マナ結晶嵐」によって視界が完全に奪われていた。風哭の丘から吹き下ろす突風が、空気中の汚染マナを圧縮し、ガラスの針と化した結晶の微粒子を弾丸のように降らせている。岩肌に当たって砕ける結晶の鋭い音が、絶え間ない地鳴りのように谷に響き渡っていた。触れれば、生身の皮膚など一瞬でガラス化し、崩れ落ちる死の嵐。アキトは結晶の谷の巨大な玄武岩の影に身を潜め、荒い呼吸を繰り返していた。
体調は最悪だった。
先ほどのアルラウネとの戦闘で、右腕には高圧射出した腐食液の反動による化学火傷が赤黒くただれ、熱い痛みを主張している。さらに、幻覚を打ち破るために「痛覚遮断・毒素制御」の魔力経絡を脳の精神領域まで強引に引き上げた代償として、彼の左半身は氷を直接押し当てられているかのように冷たく冷え切り、完全に感覚を失っていた。指一本動かせない左腕が、ボロボロの灰色の薬師ローブの中で死体のように重く垂れ下がっている。
だが、休んでいる暇はなかった。アキトの「微細嗅覚分析」が、嵐の吹き荒れる大気の中から、極めて微小な「異物」を嗅ぎ分けたからだ。
(……硫黄の匂い、結晶の摩擦臭、そして――わずかに混ざる、獣骨の防腐油と、冷たい鉄の匂い)
アキトの濁った琥珀色の瞳が、マスクの奥で鋭く細められた。間違いない。密猟団「ゲヘナの牙」の冷酷な女性狙撃手、レイラだ。奴はアキトの命を奪うため、この視界ゼロの嵐に乗じて接近している。
しかも、奴は「風下」に陣取っていた。アキトが優れた嗅覚分析能力を持つことを見越して、自身の体臭や魔力の匂いが風に乗ってアキトに届かないよう、徹底的に計算された位置取りだった。嵐の轟音がレイラの気配を完全に消し去り、大気中のマナ結晶が彼女の影同調魔法をさらに強固に隠蔽している。
普通の人間であれば、この暗闇と嵐の中で、いつ首を刎ねられたかも気づかずに絶命していただろう。だが、アキトの嗅覚は、すでに西洋魔術の常識を超えた薬理的ハッキングの領域に達していた。彼は深く息を吸い込み、鼻腔の奥にある魔力感知神経を極限まで活性化させた。風下から流れるわずかな空気の「澱み」、レイラが愛用する変異魔獣の骨で作られた魔導弓に塗られた、油の分子構造を脳内で立体的に再構成していく。
(距離、約二十メートル。岩陰を伝い、私の背後へ回り込もうとしている。奴の『影化』は物理攻撃を完全に無効化する。生半可な反撃では、影に溶け込まれて逃げられるだけだ)
アキトの「特注ニードルガン」は、先ほどの連戦による過負荷でバネが摩耗し、現在は使用不能。動かない左半身を抱えた状態での近接戦闘は、自殺行為に等しかった。アキトは右手に、先ほど採取したばかりの、まだ加工されていない「結晶魔石」を握りしめた。素手で触れれば結晶化が始まる危険な鉱石。その冷たい感触が、彼の皮膚を微かに侵食していく。
アキトはわざとらしく、激しい咳き込みの声を上げた。そして、岩陰から少しだけ体を露出させ、足元がおぼつかない様子を演じながら、右腕で泥を払うふりをした。その瞬間、彼の指先が、腰のベルトに仕込んでいた小さな硝子瓶を地面のぬかるみへと静かに埋め込んだ。
それは、アキトが隠れ家の周囲に設置している「蛍光毒トラップ」の即席版だった。瓶の内部には、毒沼の暗闇に自生する蛍光発光胞子が、腐死ヘドロの強酸成分とともに高圧で封入されている。
シュッ――!
嵐の轟音を切り裂き、鋭い風切り音が響いた。アキトは本能的に頭部を右へ傾けたが、反応がコンマ数秒遅れた。風下から無音で放たれたレイラの毒矢が、アキトの右肩の皮膚を浅くかすめ、背後の岩に突き刺さって激しい火花を散らした。
「くっ……!」
右肩に、焼けるような激痛が走る。矢の先端に塗られていたのは、黒死大蛇の腐毒を希釈した即効性の神経毒だった。傷口から蛍光緑の毒素が侵入し、アキトの右腕の神経を麻痺させようと急速に血管を駆け巡る。
(痛覚遮断、起動。傷口周辺の経絡を固定しろ。毒素の進行速度をミリ単位で制御する)
アキトは脳内で冷徹に中和式を唱え、右肩の血液循環を魔力で強制的に停止させた。毒素の拡散を傷口から半径三ミリメートルの範囲内で完全にロックする。右肩から先が冷たく痺れていくが、アキトはそれを無視し、さらに深く岩陰へと倒れ込んだ。あたかも、狙撃の毒が全身に回り、力尽きたかのように。
静寂が、一瞬だけ嵐の合間に訪れた。
レイラはアキトが完全に無力化されたと確信したのだろう。彼女は影同調魔法を維持したまま、実体を持たない黒い輪郭となって、アキトの背後の岩影から音もなく滑り出てきた。彼女の手には、次の毒矢が番えられた魔導弓が握られている。その距離、わずか三メートル。
レイラがアキトの息の根を止めるべく、最後の一歩を踏み出した。その足が、泥の中に埋め込まれた硝子瓶の極細の起動ワイヤーに触れた。
――ポンッ!
鈍い破裂音とともに、泥の中から不気味に明滅する蛍光緑色の粘り気のある液体が、噴水のように勢いよく吹き上がった。液体はレイラの隠密服と、影化された彼女の肉体へと容赦なく降り注いだ。
「な……っ!?」
レイラの冷酷な表情が、初めて驚愕に歪んだ。
付着した蛍光発光胞子が、嵐の暗闇の中で遮るもののない強烈な緑色の光を放ち始める。レイラの「影化」魔法は、自身のマナを周囲の闇の周波数と同調させることで物理無効と隠密を成立させている。しかし、全身が自ら光を放ち続ける状態になってしまえば、影の結合式は物理的に維持できない。光の粒子が影の魔力結合を次々と強制解体し、彼女の肉体は実体を持った生身の人間として、暗闇の中に鮮烈に晒し出された。
「ゲイル、墜とせ」
アキトの冷徹な命令が響いた。
泥の中に潜み、主の指示を待ち続けていた従属魔獣ゲイルが、弾け飛ぶ泥水とともに跳躍した。漆黒の鱗を嵐の残光に光らせ、体長二メートルに達した大蛇の肉体が、光り輝くレイラの右腕へと襲いかかる。
「がっ……ああっ!」
ゲイルの強靭な牙が、レイラの右腕の骨を砕くような音を立てて深く突き刺さった。ゲイルの体内から注入される強力な麻痺毒が、彼女の腕の経絡を一瞬で駆け巡り、魔導弓が泥の中に力なく落ちた。ゲイルはその巨体でレイラの全身を締め上げ、彼女を冷たい泥濘の上へと完全に組み伏せた。
アキトは動かない左脚を引きずりながら、ゆっくりと岩陰から這い出てきた。右肩の毒を制御しているため、彼の顔色は死人のように青白く、額からは冷たい汗が流れていた。だが、その濁った琥珀色の瞳には、一切の揺らぎも、容赦もなかった。
彼はレイラの前に跪き、懐から一本の極細の鉄針を取り出した。その針の先端には、先ほどアルラウネの討伐時に抽出した、強力な「幻覚毒」の残渣が塗布されている。アキトは針を、レイラの白い首筋の頸動脈のすぐ上に、静かに押し当てた。
「動くな。針をわずかに進めるだけで、お前の脳の魔力回路は一瞬で結晶化し、精神は永遠の悪夢の中に閉じ込められる。等価交換だ。お前の命と、私が求める情報を取引しよう」
レイラは激しい苦痛とゲイルの締め付けに喘ぎながらも、表情を消そうと必死に抵抗していた。しかし、首筋に触れる針の冷たさと、そこから微かに伝わってくる「負のマナ」のおぞましい波動に、彼女の身体は本能的な恐怖で小刻みに震え始めた。目の前にいる男は、ただの「ゴミ薬師」などではない。毒を完全に支配し、自らの肉体すら実験台にする本物の怪物だということを、彼女は理解した。
「……何が、望みだ」
レイラの掠れた声が、防毒マスクの排気音に混ざって響いた。
「幻獣『黒死大蛇』が眠る、死灰の洞窟の正確な位置。そして、奴の防衛網の弱点だ。密猟団がお抱えの調合師ボリスから、何らかの対策薬を受け取っているはずだ。それを吐け。ミオの生存限界まで、もう時間がない」
アキトの指先が、微かに針を押し込む。皮膚が一ミリ裂け、黒い毒血が彼女の首筋に触れた。レイラの瞳に絶望の色が走り、彼女はついに、密猟団がひた隠しにしてきた禁忌の情報を語り始めた。大蛇の巣食う洞窟の入り口、そして、その毒ガスを一時的に中和するための、特定の硫黄化合物の配合比率。
情報をすべて脳内の薬理ノートに書き留めたアキトは、レイラの首筋から静かに針を引いた。彼女をゲイルの力で完全に拘束したまま放置し、アキトは吹き荒れる結晶嵐の向こう、暗黒の深淵を開けて待つ「死灰の洞窟」の方向へと、静かに視線を向けた。
マスクの吸気音が、さらに激しく「シュウ、シュウ」と鳴り響く。アキトは動かない左半身をハッキングするように強引に駆動させ、嵐の奥へと一歩を踏み出した。
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