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三生堂の重みと、鋳鉄のプレス機

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「それを、どうするつもりだ」


 張り詰めた空気の中、一ノ瀬蓮の声が、刃物のように冷たく図書室分室に響いた。


 旧校舎二階の片隅。夕暮れの西日が差し込む部屋で、蓮は肩を激しく上下させ、額に薄い汗を浮かべて立ち尽くしていた。その瞳は、いつもの冷静な優等生の仮面を完全に失い、剥き出しの焦燥と怯えに満ちている。彼の視線は、航の作業台の上、卓上ランプのオレンジ色の光の下に並べられた、あの引き裂かれたルーズリーフの破片に釘付けになっていた。


 航は静かに右手のピンセットを作業台に置いた。白い綿手袋をはめた手をゆっくりと下ろし、深く、長い呼吸を一つ。肺の奥に染み込んでいる白檀の香りが、彼の荒れそうになる心拍を静かに整えていく。航は感情を一切表に出さず、ただまっすぐに蓮の瞳を見つめ返した。これが、彼が身につけた「静かなる対峙」だった。


「直すつもりだ」


 航の声は、驚くほど平坦で、静かだった。


「直す……? 僕がそれを、どんな気持ちで破り捨てたかも知らないくせに、勝手なことをするな!」


 蓮が激高し、一歩前に踏み出す。その手は、作業台の上の紙片をすべて奪い去り、今度こそ完全に破滅させてしまおうとするかのように震えていた。横でブラシを持ったまま固まっていた小春が、恐怖で息を呑む。受付のテーブルにいた秋穂も、静かに腰を浮かせかけた。


 だが、航は一歩も引かなかった。ただ、蓮と作業台の間にそっと自分の身体を置くようにして、穏やかに、しかし断固とした口調で告げた。


「僕たちは『守秘の掟』に従っている。ここに持ち込まれた本、ここで修復する紙片に書かれた内容を、僕たちが第三者に口外することは絶対にない。吉野さんも、小野寺さんも、これが誰のもので、何が書かれていたかを知らない。……そして、これからも知ることはない」


 蓮の身体が、ピきりと凍りついたように止まった。


「僕は、これが誰の日記であるかを詮索するために集めたんじゃない。ただ、この紙が、これ以上引き裂かれたままでいるのが耐えられなかっただけだ。本を直すことは、その持ち主の尊厳を直すことだと信じているから」


 航の言葉には、一片の嘘も、憐れみもなかった。ただ、目の前の壊れた「本」に対する、圧倒的な誠実さだけが存在していた。蓮は、航の澄んだ瞳の奥を見つめようとしたが、そこに自分を嘲笑する光が一切ないことを知り、逆に息を詰まらせた。


「……勝手な、偽善だ」


 蓮は絞り出すようにそう呟くと、それ以上言葉を続けることができず、弾かれたように図書室を飛び出していった。バタン、と古い木製の扉が大きな音を立てて閉まり、後には再び、静寂だけが残された。


「遠野先輩……今の、一ノ瀬先輩、ですよね……?」


 小春が不安そうに声をかけてくる。航はゆっくりと首を振った。


「誰のものであっても関係ない。僕たちは、この紙を直すだけだ。……ただ、この日記を完璧にフラットに接合し、強固に綴じ直すには、今の僕たちの道具では足りない」


 航は、作業台の端にある小さな木製の簡易クランプを見つめた。これでは、何十枚もの引き裂かれたルーズリーフを接合した後に、均一な圧力をかけて完全に一体化させる「丸み出し」や「背固め」の作業に耐えられない。紙の繊維が糊の水分で膨張した際、ミリ単位の狂いもなくプレスしなければ、乾いた後に歪みが生じてしまうのだ。


「小野寺さん、放課後の留守を頼めるか。僕は少し、資材と道具の調達に行ってくる」


「はい! 任せてください、師匠!」


 小春が元気よく返事をするのを見届け、航は制服のボタンを留め直し、旧校舎を後にした。


 海からの湿った風が吹き抜ける、葉川町の古い坂道。その途中に、木造二階建ての古びた佇まいを見せる古書店「三生堂」があった。軒先に吊るされた古い木製看板は潮風でかすれ、ガラス戸の向こうには、床から天井まで、まるで巨大な本棚の迷宮のように古い書物が埋め尽くしている。


 カランカラン、とひなびた鈴の音を響かせて中に入ると、古い紙とインク、そして微かなカビの匂いが混ざり合った、独特の重厚な空気が航を包み込んだ。店の奥、薄暗い帳場に、白髪を短く刈り込んだ老人が、偏屈そうな顔で座っていた。三生堂の店主、黒岩惣治だ。


「何の用だ、小僧。冷やかしなら帰れ」


 黒岩は本から目を上げず、ぶっきらぼうに言った。その手は、長年古い本を扱い、木や鉄を削ってきた職人のもので、ゴツゴツと大きく、無数の細かい傷が刻まれている。


「黒岩さん。……これを見ていただきたくて」


 航は、カバンから一冊の本を取り出し、帳場の上に静かに置いた。それは、彼が先日、新校舎の図書室から廃棄されかけていたボロボロの実用書を、でんぷん糊と極薄和紙を使って修復したサンプルだった。


 黒岩は鼻でフンと笑い、ようやく顔を上げた。その鋭い眼光が、机の上の本に注がれる。彼は大きな手で本を取り上げると、引き出しから真鍮製のルーペを取り出し、背表紙の境界やページの綴じ目を無言で凝視し始めた。


 図書室の掛け時計がチクタクと刻む音だけが、沈黙の中に響く。航は、自分の心臓の音が聞こえそうなほどの緊張感の中で、黒岩の指先を見つめていた。


「……お前、でんぷん糊の水分量を間違えたな」


 しばらくして、黒岩がルーペを机に置き、冷酷な声を放った。


「え……?」


「ここだ。背表紙の布クロスの裏、糊の厚みにコンマ数ミリのムラがある。乾いた時に紙が引っ張られ、わずかに波打っているのが分からんか。道具の平らな部分を過信して、手の感覚をサボらせた証拠だ。こんな生温かい仕事で、本を直したなどと抜かすな」


 厳しい言葉が、航の胸を容赦なく突き刺した。独学で必死に磨いてきた自分の技術が、プロの目の前で一瞬にして論破されたのだ。航は拳を握り締め、うつむいた。


「道具に頼るな、手の感覚を磨け」


 黒岩はそう言うと、立ち上がり、エプロンの紐を締め直した。


「だが……」


 老人は、航の持っている柘植の骨ベラに視線を落とした。飴色に輝く、使い込まれた道具。


「その骨ベラの扱い方、そして紙の繊維を傷つけまいとする指先の引き加減……。お前、遠野晴臣の孫だな」


 航は驚いて目を見開いた。「祖父を、知っているんですか?」


「知っているも何も、あの頑固ジジイの製本技術は、この葉川町で右に出る者はいなかった。俺が若い頃、ボロボロの古典籍の扱い方に悩んでいた時、命を救ってくれたのがあの男の手仕事だ。お前の中には、あのジジイの血と、美咲の優しい手が、確かに流れている」


 黒岩の言葉の端々に、かつての製本職人だった航の祖父、そして母への深い敬意と意外な因縁が垣間見えた。航の胸の奥で、冷えていたものがじんわりと温かくなっていく。


「ついてこい」


 黒岩は、店の奥にある薄暗い物置の扉を開けた。埃が舞う暗闇の中、重厚な黒い影が鎮座していた。高さ約五十センチ、重さ約五十キロ。鋳鉄で作られた、一九世紀英国製の重厚なハンドル式プレス機――「プレス機1号」だった。


「店を縮小してからは、こいつを動かす気力も失せてな。だが、本を本当にフラットに仕上げ、美しい背の丸みを出すには、こいつの均一な物理的圧力が必要だ。お前のその未熟な指先を補うために、こいつをくれてやる。無償だ。その代わり、二度と俺の前で、糊のムラを作るような不細工な仕事は見せるな」


 航は、その重厚な鉄の肌にそっと触れた。ひんやりとした冷たさの奥に、何世代もの職人たちが本を押し固めてきた、圧倒的な重みと歴史が宿っている。それは、同好会にとって、これ以上ない「本物の道具」の継承だった。


「ありがとうございます……。大切に使います」


「これを持っていけ。本を傷つけないためのフェルト板だ。あと、これはそのポニーテールの小娘に渡しておけ。プラスチックのヘラなど使わせるな」


 黒岩は、プレス機とともに、厚手のウールフェルト板、そして新しく削り出された、青さの残る「竹製骨ベラ」を航に手渡した。それは、小春の不器用な手によく馴染むよう、角が丸く優しく削られた、職人の手仕事によるものだった。


 放課後の旧校舎。航は、サッカー部の友人である翔太の力を借り、台車を使ってなんとかプレス機を図書室分室へと運び込んだ。木造の床板が、ズシリと重い音を立ててその重量を受け止める。


「す、凄いです、遠野先輩! これ、本物のプレス機ですか!?」


 小春が、目を輝かせて鋳鉄のハンドルに触れ、航から渡された竹製の骨ベラを愛おしそうに胸に抱きしめた。秋穂もまた、その重厚な機械が部屋の中央に置かれたことで、図書室が「本物の修復工房」へと生まれ変わっていく様子を、静かな喜びの笑みを浮かべて見つめていた。


 だが、その温かい空気は、唐突に引き裂かれた。


 図書室の扉が、何の予告もなく開け放たれた。入り口に立っていたのは、腕章をきっちりと巻いた生徒会副会長、新藤誠だった。新藤の冷徹なグレーの瞳が、図書室の中央に置かれたばかりの、巨大な黒い鉄塊を鋭く捉える。


「……これは、何ですか」


 新藤の声は、冷たく、容赦のない規律の響きを湛えていた。


「登録されていない、重量五十キロを超える大型の金属機材。旧校舎の床耐荷重を無視した、極めて危険な不法投棄物と見なします。直ちに撤去してください。従わない場合は、安全管理義務違反として、同好会の活動スペースを即刻閉鎖します」


 夕暮れの光が遮られ、図書室全体に、新たな組織的プレッシャーの暗い影が落とされた。

HẾT CHƯƠNG

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