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氷の優等生が隠す悲鳴

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夜の静寂が、遠野家の古い家屋を包み込んでいた。一階のリビングからは何の音も聞こえない。父・宗一が仕事の設計図に向き合っているか、あるいはすでに寝静まっているのだろう。母が亡くなって以来、この家に流れる沈黙は、冷たく硬いコンクリートのようだった。航にとって、二階にある己の自室だけが、その息苦しい気配から逃れられる唯一の呼吸の場所だった。


 学習机を改造した小さな作業台の上で、卓上ランプのオレンジ色の光が丸く落ちている。航は制服の袖をまくり、白い綿手袋をはめた手で、机の上に一枚の黒いフェルトシートを広げた。その上に慎重に並べられたのは、放課後に図書室分室の棚の隙間、そして旧校舎近くのゴミ箱の底から回収した、無数の白い紙切れだった。


 新校舎の生徒たちが使う、上質なルーズリーフの破片。それらはハサミではなく、むしり取るような強い力で、ズタズタに引き裂かれていた。断面からは、千切れた紙の繊維が毛羽立って突き出ている。それはまるで、誰かの引き裂かれた皮膚のようにも見えた。


「……吉野さんの本を直した時とは、何かが違う」


 航は静かに呟き、ピンセットを握った。秋穂の童話集は、長い時間の中で愛され、傷ついた末の落丁だった。しかし、この紙切れに宿っているのは、明確な「悪意」と「拒絶」、そして自分自身を掻きむしるような自暴自棄の衝動だ。他者の心の領域に土足で踏み込むことは、同好会の絶対のルールに反する。だが、小春が見つけたあの「死にたい」という文字が、航の脳裏に冷たくこびりついて離れなかった。


 航は、母の遺品である柘植の骨ベラを左手に軽く握り、精神を統一した。深く長い呼吸を一度。肺の奥に白檀の香りが微かに残っているような錯覚を覚えながら、彼は卓上ランプの角度を極限まで寝かせた。光が作業台に対してほぼ水平に差し込む。紙の表面のわずかな凹凸を、影として浮かび上がらせるためだ。


 これが、航の持つ特殊な観察眼――「筆圧読解」だった。


 ピンセットの先で、最も大きな紙片を光の下へ運ぶ。鉛筆の黒鉛は消しゴムで綺麗に消されていた。おそらく、書いた本人が途中で我に返り、慌てて消した後に引き裂いたのだろう。しかし、消しゴムでは紙に刻まれた「圧力の溝」までは消せない。斜めからの鋭い光が、白紙に見えた紙面に深い影を落とした。


 ――完璧であれ。


 鋭く、硬い筆跡だった。定規で引いたようにまっすぐなストローク。だが、文字の終わりが紙を突き破るほど深く沈み込んでいる。強い怒りと、それ以上に激しい怯えが、その一本の線に凝縮されていた。


 航は別の破片を隣に並べた。千切れた断面の繊維を、肉眼で観察しながらパズルのように噛み合わせていく。〇・一ミリの狂いもなく、破れ目の凹凸がぴたりと合致した。次の文字が浮かび上がる。


 ――失敗は許されない。消えたい。消えたい。消えたい。


 同じ言葉が、狂気じみた筆圧で何度も書き殴られていた。消しゴムで何度も擦られたせいで、紙の表面は薄く毛羽立ち、一部は破れかけている。航の指先が、その凹凸をそっとなぞった。紙質の直感「紙の目」が、書き手の指先の震えと、凍りつくような焦燥を、手のひらを通じて航の脳裏に伝えてくる。


「これは、ただの愚痴じゃない……」


 書き手は、自分を完璧な檻の中に閉じ込め、その重圧に押しつぶされながら悲鳴を上げている。航は、この端正で息の詰まるような筆跡に、奇妙な既視感を覚えた。どこかで見たことがある。これほどまでに統制され、しかし崩壊寸前の歪みを持った文字を。


 航は立ち上がり、本棚の奥から、以前新校舎の図書委員会から回ってきた除籍本の貸出カードの束を取り出した。そこには、新校舎の図書室を利用した生徒たちの署名が残されている。彼は「一」のインクの引き方、そして「瀬」の細い角の曲がり方に焦点を当て、カードを一枚ずつめくっていった。


 そして、ある一枚のカードの前で、航の指先が完全に静止した。


 貸出日、三週間前。書名『現代高等数学の展開』。


 署名欄に、インクの滲み一つない、完璧な美しさで書かれた名前があった。


 ――一ノ瀬 蓮。


 学年トップの優等生。カーストの頂点に立ち、常にアイロンの効いた清潔な制服をまとい、冷淡な笑みを浮かべている美男子。あの、氷のように完璧な少年が、この引き裂かれた悲鳴の主なのか。


 航は、ルーズリーフの破片と、貸出カードの署名を見比べた。筆圧の強さ、文字の傾き、そして「完璧であれ」という呪いのような言葉。すべてが、一ノ瀬蓮という少年の仮面の裏にある、崩壊寸前の内面と一致していた。航の胸の奥で、冷たい胃の痛みが広がっていく。知ってはいけない秘密の重みが、彼の両肩にずっしりとのしかかった。


 翌日の放課後。旧校舎二階の図書室分室には、いつも通りの静かな時間が流れていた。窓の外からは相模湾の湿った潮風が吹き込み、桜の木の葉を揺らしている。受付のテーブルでは、秋穂が静かに貸出日誌を広げ、小春は隅の書棚で古い本の埃を払っていた。ノリは、重厚なブックプレス機の上で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


 だが、航の心は、作業台の上の白い紙片に囚われていた。彼は「守秘の掟」に従い、秋穂や小春にこの破片の主が誰であるかを明かしてはいなかった。ただ無言で、ちぎれたルーズリーフの繊維を整え、でんぷん糊を使って再び一つの「日記」として繋ぎ合わせる作業を進めていた。本を直すことは、その持ち主の尊厳を直すこと。それが、航の信じる修復の倫理だった。


 その時、図書室の古い木製の扉が、大きな音を立てて乱暴に開け放たれた。


 静かな空気が一瞬で引き裂かれる。秋穂が肩をすくめて息を呑み、小春がブラシを持ったまま固まった。


 入り口に立っていたのは、一ノ瀬蓮だった。いつも整っているはずの黒髪が乱れ、制服の第一ボタンが外れている。彼の白い額には薄い汗が浮かび、息は激しく荒れていた。その瞳は、いつもの冷淡な氷の輝きを失い、剥き出しの焦燥と怒りに燃え上がっている。


 蓮の視線は、図書室の中を鋭く走った。そして、航の作業台の上、卓上ランプの光の下に並べられた、あの引き裂かれたルーズリーフの破片に釘付けになった。


「……それを、どうするつもりだ」


 蓮の声は、低く、刃物のように鋭く震えていた。完璧な優等生が隠し続けていた、本物の悲鳴が、古い図書室の静寂を冷たく支配していった。

HẾT CHƯƠNG

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