猫の足跡と、小さな新しい助手
夕暮れの古い図書室分室には、いつも独特の匂いが満ちていた。長い年月をかけて湿気を吸い、再び乾燥した古い紙の匂い。航が毎日コンロでじっくりと練り上げる「特注でんぷん糊」の、ほのかに甘い小麦の香り。そして、書棚の隅にそっと忍ばせてある「白檀の防虫香」の、お寺の書庫を思わせる静謐な香り。それらが混ざり合い、西日のオレンジ色の光に溶けていく。
その静寂のなかに、古びた木製の扉がギィと軋む音が響いた。
航が磨いていた柘植(つげ)の骨ベラを止め、ゆっくりと視線を上げると、そこには紺色のセーラー服に身を包んだ吉野秋穂が立っていた。昨日の朝、吉野家の冷たい玄関先で見た、怯えたようなカーディガン姿の彼女ではない。少し緊張に肩を強張らせながらも、その瞳には確かに、外の世界へ一歩を踏み出した者の、静かだが強い光が宿っていた。
「遠野くん、あの……」
秋穂は、藍色の風呂敷に包まれたアンデルセン童話集を両手で大切そうに抱きしめたまま、小さく声を絞り出した。
「約束通り、学校に来たよ。……ここに来れば、遠野くんに会えると思って」
「……うん」
航は短く応じ、磨いていた骨ベラをカッティングマットの上にそっと置いた。言葉数は少なかったが、その胸の奥には、自分の手仕事が彼女の凍りついた時間を確かに動かしたのだという、静かで深い安堵感が広がっていた。母を失って以来、ずっと心を蝕んでいた暗い罪悪感が、ほんの少しだけ和らいでいくのを感じる。
「吉野さん。学校は、大丈夫だった?」
「うん。教室に入るのは、まだ少し怖くて……保健室登校だけど。でも、放課後にここに来るって思ったら、不思議と足が前に動いたの。私、この同好会で、遠野くんのお手伝いがしたい。本を直すことはできないかもしれないけれど、本の整理とか、受付とか、広報なら私にもできるから」
秋穂は、修復された童話集を愛おしそうに見つめながら、少しだけはにかむように笑った。彼女にとって、この図書室分室は、ただの部屋ではなく、自分の壊れた尊厳を取り戻すための、世界で唯一の「安全な避難所」になりつつあった。
「ありがとう、吉野さん。助かるよ。百冊の修復ノルマがあるから、一人では手が回らなくなるところだった」
航がそう言って、秋穂を温かく迎え入れようとした、その時だった。
「た、大変失礼しますッ!」
静かな廊下に、場違いなほど元気で、しかしひどく緊張した甲高い声が響き渡った。
扉の隙間から勢いよく飛び込んできたのは、おでこを出したポニーテールに、少し大きめの制服を着た一年生の少女だった。彼女は息を切らし、額に汗を浮かべながら、航の作業デスクの前まで来ると、直角に近い角度で深く頭を下げた。
「一年一組の、小野寺小春です! 遠野先輩、私を……私を、図書修復同好会の弟子にしてください!」
突然の闖入者に、航は目を丸くした。横にいた秋穂も、驚きに目をぱちくりとさせている。
「……弟子?」
「はい! 私、本が大好きで、でもすごく不器用で、いっつも本を落としたり破いちゃったりして……。でも、先輩が古い本を魔法みたいに綺麗に直すって噂を聞いて、どうしてもその技術を学びたくて! お願いします、何でもやりますから!」
小春は、ポニーテールを揺らしながら必死に訴えかけた。その目はキラキラと輝いており、一度決めたら曲げない猪突猛進な性格が全身から溢れ出ている。
航は少しだけ困惑した。この図書室分室は、彼にとって「他者との衝突を避けるための静かな聖域」だったからだ。そこに、これほど賑やかで不器用そうな後輩が加わることは、正直に言えば戸惑いの方が大きかった。
「……本を直すのは、魔法じゃないよ。地味で、退屈で、すごく根気のいる手作業だ」
「大丈夫です! 根気だけは、誰にも負けません!」
小春の勢いに押されるようにして、航は静かに息を吐いた。まあ、部員が「最低三名」揃わなければ、生徒会の新藤副会長に「即時廃部」の口実を与えてしまうのも事実だ。秋穂が加わり、さらにこの小春が入部すれば、同好会の存続条件を物理的にクリアすることができる。
「分かった。じゃあ、まずは基本から教えるよ。……小野寺さん」
「はいッ、師匠!」
「師匠はやめてくれ。遠野でいい」
航は苦笑しながら、作業台の引き出しから、古い文庫本を取り出した。手垢で薄汚れ、四隅が犬の耳のように折れ曲がった実用書だ。
「まずは『ドライクリーニング』からだ。消しゴムを細かく砕いた粉を使って、紙の表面の埃や手垢の汚れを優しく落としていく。本に対して乱暴に接しないこと。それがすべての基本だ」
「わかりました! やってみます!」
小春は意気揚々と作業台に向かい、消しゴム粉をページの表面にまいた。そして、指の腹で円を描くように粉を転がし始めた。しかし、その手つきはひどく力任せだった。
「ああっ!?」
小春が焦った声を上げた瞬間、彼女の肘が、作業台の端に置かれていた出来立ての「特注でんぷん糊(正麩糊)」の平皿に当たった。平皿が傾き、半透明の糊が、航が手入れしたばかりの馬毛の糊刷毛の上へとこぼれ落ちそうになる。
航の心臓が、一瞬だけ止まりかけた。道具は職人の命だ。特に馬毛の刷毛は、でんぷん糊が毛根に残ったまま固まれば、二度と使えなくなってしまう。
だが、航は声を荒らげることはしなかった。彼は静かに、しかし素早い手つきで平皿を支え、刷毛を糊の直撃から救い出した。そして、パニックになりかけている小春を、静かな目で見つめた。
「……大丈夫だよ、小野寺さん。失敗は誰にでもある。でも、道具は僕たちの指先の延長だ。道具を傷つければ、本を直すことはできない」
航は、ぬるま湯を張ったボウルを用意し、汚れてしまったピンセットと骨ベラを静かに浸した。そして、小春にその手元を見せるようにしながら、優しく語りかけた。
「同好会には、絶対に守らなければならないルールがある。『道具の即時洗浄と陰干し』だ。使い終わった刷毛や骨ベラは、すぐに温水で糊を完全に落として、専用の杉箱の中に吊るして陰干しする。これを怠ると、翌日の作業で和紙を突き破って、大切な本を破いてしまう大事故になるんだ」
「……ごめんなさい、遠野先輩。私、やっぱり不器用で……邪魔ばかりしちゃって」
小春は、おでこを真っ赤にしながら、今にも泣きそうな表情でうつむいた。その小さな肩が震えている。
その時、航の制服の袖を、秋穂がそっと引いた。秋穂は、困惑する航に対して、優しく首を振ってみせた。彼女は、かつて自分がバラバラの童話集を持ち込んだ時、航が自分の傷(涙痕)を一切責めず、ただ静かに寄り添ってくれた時のことを思い出していたのだろう。今度は、自分がその後輩を支える番だった。
「小野寺さん。遠野くんは怒っているんじゃないよ。道具を、とても大切にしているだけ。……これ、見て」
秋穂は、風呂敷から取り出したアンデルセン童話集を小春に見せた。完璧に直された四隅の角、真っ直ぐに綴じ直された背表紙。それを見た小春の瞳に、再び驚きと憧れの光が戻る。
「すごいです……。本当に、新品みたいに綺麗……」
「ね? 遠野くんの技術は、本当にすごいの。だから、小野寺さんも、ゆっくり焦らずに学んでいけば大丈夫だよ」
秋穂の優しい言葉に、小春は何度も大きく頷いた。彼女は、制服のポケットから、一本の古びた骨ベラを取り出して、航の前に差し出した。
「あの、遠野先輩! これ、私の祖父から貰ったものなんです。祖父は昔、和綴じ本の製本職人をしていて……。これを私に使えって」
それは、少し青さの残る、手作りの竹製骨ベラだった。素材特有のしなりがあり、不器用な初心者が使っても紙を突き破りにくい、素晴らしい道具だった。だが、長年放置されていたためか、刃先の角がわずかに毛羽立ち、ざらついている。
「良い道具だね。……少し、貸して」
航は、小春の竹製骨ベラを受け取ると、引き出しから「精密セラミックカッター」を取り出した。そして、卓上真鍮ランプの温かいオレンジ色の光の下で、骨ベラの刃先をミリ単位の厚さで、薄く、滑らかに削り落としていった。竹の繊維を傷つけないよう、刃先を一定の角度で滑らせる手つきは、まるでお守りを磨くかのように丁寧だった。
「はい。これで、紙を折る時に繊維を引っかけることはなくなるはずだ」
航から削り直された骨ベラを返された小春は、その滑らかな手触りに、息を呑んで感激していた。自分の不器用な道具が、先輩の手によって、一瞬で「本物の道具」へと生まれ変わったのだ。
「ありがとうございます! 大切に、一生大切に使います!」
その時、図書室の開け放たれた窓から、ふらりと、一匹の白黒の野良猫が入り込んできた。鼻の横に小さな黒いブチがある、ふっくらとした愛嬌のある猫だ。製本用の「糊」に似た白黒の毛並みから、航たちはいつの間にかその猫を「ノリ」と呼んでいた。
ノリは、航の作業デスクの横を通り抜け、図書室の中央に鎮座する、重厚な「19世紀英国製ブックプレス機」の上へと軽快に飛び乗った。そして、夕日の温もりを浴びるようにして、丸くなって眠り始めた。
「あっ、ノリだ。今日も来たんだね」
秋穂が嬉しそうに駆け寄り、プレス機の上で眠るノリの背中を、優しく撫で始めた。ノリは気持ちよさそうに、ゴロゴロと喉を鳴らしている。殺風景で、雨漏りのする埃っぽかった旧校舎の図書室分室に、少しずつ、温かい人間の呼吸と、穏やかな日常の居場所が作られていくのを感じる。
「よし。じゃあ、小野寺さん。もう一度、ドライクリーニングの練習から始めよう。今度は、骨ベラをこの角度で持って、紙に余計な力をかけずに……」
「はい! よろしくお願いします!」
航の指導のもと、小春は今度は慎重に、消しゴム粉を転がし始めた。秋穂は、図書室の入り口の古い木製テーブルに「受付」のノートを広げ、嬉しそうにペンのインクを確かめている。全員で放課後の掃除を行い、使った道具をぬるま湯で洗い、杉箱に片付けるルーティンが、静かな沈黙のなかに確立されていく。
窓の外では、相模湾の潮風が旧校舎の桜の葉を揺らし、夕日はゆっくりと、紫色の夜の闇へと沈んでいこうとしていた。
作業が一段落し、小春が図書室の古い本棚の整理を手伝い始めた時のことだった。彼女は、新校舎から紛れ込んだと思われる、除籍本の山が置かれた下段の隅を、小さなブラシで掃除していた。
「あれ? 先輩、これ……何でしょうか?」
小春が、本棚の奥の隙間に引っかかっていた、一枚の紙切れをピンセットでつまみ出した。
航が振り返り、その紙片を受け取る。
それは、新校舎で使用されている、一般的な上質紙のルーズリーフの破片だった。しかし、その破られ方は、ひどく異常だった。ハサミで切られたのでもなく、丁寧に破られたのでもない。まるで、激しい怒りや絶望に任せて、両手でズタズタに、力任せに引き裂かれたような、荒々しい断面をしていた。
航は無言で、その紙片を卓上真鍮ランプの光にかざした。紙の表面には、文字らしきインクの跡は残っていなかったが、裏面に光を斜めからあてた瞬間、航の瞳が鋭く凍りついた。
紙の繊維の奥深くに、鉛筆の先が紙を引き裂くほどの強烈な筆圧で刻まれた、見えない文字の「溝」が、深い影となって浮かび上がったのだ。
――死にたい。
その、悲鳴のような二文字の筆跡が、暗い図書室のなかに、静かに浮かび上がっていた。
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