閉ざされた玄関と、手渡された約束
「……何の御用かしら。うちの娘は、今日も学校へは行きませんよ」
吉野紗和の言葉は、冷たく湿った朝の空気を切り裂くようにして、遠野航の前に突きつけられた。
上神川町の静かな住宅街。午前七時半の空気はまだ冷え切っており、門扉の鉄格子には薄い夜露が降りていた。紗和はすっぴんの顔に深い疲労の影を滲ませ、乱雑に束ねた髪の端を震わせながら、玄関の引き戸を細く開けて航を凝視している。その目は、不審者を警戒するそれというよりも、傷ついた巣を守ろうとする、ひどく過敏で、疲れ果てた獣の光を宿していた。
航は喉の奥が張り付くような渇きを覚えていた。一晩中、自室の狭いデスクで机に向かい続け、〇・一ミリの和紙の繊維を繋ぎ合わせていた。徹夜の代償として、目の奥には熱い砂が入り込んだような痛みが走り、走ってここまで来たせいで肺がひび割れたように熱い。白い綿手袋を外した指先は、でんぷん糊の冷たさと緊張でかすかに痺れていた。
だが、航は一歩も引かなかった。胸に抱えた風呂敷包みの、ずっしりとした重みが彼の足裏をアスファルトに繋ぎ止めていた。
「朝早くに押し掛けて、すみません。同級生の、遠野です」
航は声を極限まで低く、穏やかに保った。声を荒らげれば、この母親の防衛本能はさらに強固な壁となって扉を閉ざしてしまう。それは、かつて自分の家庭が冷え切っていく過程で、嫌というほど学んだ事実だった。他者の領域に土足で踏み込んではならない。だが、差し伸べた約束の手を、ここで引っ込めるわけにはいかなかった。
「秋穂は病気なんです。お友達なら、そっとしておいてあげてください。あの子は……学校という言葉を聞くだけで、息ができなくなるの。あなたたちに、あの子の何が分かるっていうの」
紗和の言葉には、刺すような棘と、それ以上の悲痛な震えがあった。娘が中学時代にいじめに遭い、信じていた親友に裏切られ、心を完全に閉ざして不登校になったあの日から、この母親もまた、終わりのない暗闇の中で娘を抱きしめ、傷つき続けてきたのだろう。外の世界はすべて敵であり、娘を連れ出そうとする者は、再びあの子を奈落に突き落とす侵入者なのだ。
紗和の手が、引き戸の取っ手にかけられた。ゆっくりと、物理的な境界線が閉じられようとする。
航は言葉で説得することを諦めた。言葉は、時にあまりにも無力で、相手の猜疑心というフィルターの前で簡単に歪められてしまう。彼はただ無言で、胸元に抱えていた藍色の風呂敷の結び目を、痺れる指先で静かに解いた。
朝の薄い光の中に、一冊の本が姿を現した。
アンデルセン童話集。
紗和の視線が、吸い寄せられるようにその本へと落ちた。そして、彼女の呼吸が明確に止まった。
それは、吉野家のリビングの隅で、ページがバラバラになり、表紙のクロスが裂けて、まるで死んだ鳥の羽のように無惨に崩壊していたはずの本だった。紗和自身、何度も「もう捨てなさい」と言いながら、秋穂が頑なに抱きしめて手放さなかった、あの呪いのような思い出の塊。
しかし、目の前にある本は、奇跡のような佇まいでそこに存在していた。
無惨に潰れていた四隅の角は、今井堂から譲り受けた頑丈な補修用の厚手和紙と、同系色の格調高い製本クロスによって美しく、かつ強固に補強されていた。裂けて割れていた背表紙は、航が一針ずつ蝋引きの木綿糸で綴じ直したことで、新築の柱のように真っ直ぐな背のラインを取り戻している。何より、あのバラバラに脱落していた「折」が、完璧な配列で一つの「本」として再結合されていた。
「これ……あの子の本、なの……?」
紗和の声から、先ほどの鋭い棘が消え失せ、代わりに途方もない困惑と動揺が滲み出た。彼女は引き戸を開ける幅を少しだけ広げ、航の手元にある本を凝視した。
「吉野さんから、預かった本です。……直りました」
航は静かに本を差し出した。表紙の古い箔押しが、朝日のオレンジ色の光を浴びて、静かに鈍く輝いている。
「吉野さんは、この本をとても大切にしていました。ページがバラバラになっても、破れても、ずっと捨てずに持っていたのは、あの子にとって、これがただの紙の束ではなかったからです。……だから、僕が直しました」
航の言葉は、淡々としていた。だが、その一言一言には、一晩中、〇・一ミリの繊維と向き合い続けた者だけが持つ、絶対的な誠実さが宿っていた。
「僕たちは、旧校舎の図書修復同好会です。本を直すことだけが、僕たちの仕事です。……本の中身に何が書かれていても、どんな傷があっても、僕たちは誰にも言いません。『守秘の掟』があります。だから、お母さん。僕たちが、吉野さんの傷を暴くことはありません。安心してください」
紗和の目が、大きく見開かれた。彼女の胸の奥で、張り詰めていた警戒の糸が、静かに、しかし決定的に解けていく音がした。この少年は、娘を学校に連れ戻しに来た「世間の使者」ではない。ただ、娘が大切にしていた壊れた思い出を、誰にも言えない痛みを、本という器を介して、ただ静かに、優しく繋ぎ合わせに来たのだ。
紗和の指先が、震えながら本の表紙に触れようとした、その時だった。
「……お母さん、待って」
玄関の奥の暗闇から、静かだが、はっきりとした声が響いた。
紗和がハッと振り返る。航もまた、その声の方向へと視線を向けた。
薄暗い廊下の奥から、ゆっくりと、しかし確かな足取りで姿を現したのは、吉野秋穂だった。彼女はサイズの大きなカーディガンを羽織り、前髪を目元が隠れるほど長く伸ばしていたが、その瞳はしっかりと航を見つめていた。彼女の身体は微かに震えていたが、その表情には、暗闇から這い出そうとする強い意志が宿っていた。
「秋穂……どうして起きて……」
紗和が戸惑う声を上げるのを遮るように、秋穂は母親の横をすり抜け、玄関のたたきへと降りてきた。そして、航の目の前で立ち止まった。
秋穂の視線は、航の手の中にあるアンデルセン童話集に注がれていた。彼女の指先が、ゆっくりと伸び、本の背表紙へと触れる。本は、驚くほど滑らかで、頑丈だった。彼女がかつて、いじめの嵐の中で、泣きながら握り締め、引き裂いてしまったあの「人魚姫」のページ。そこにあった、乾燥して固まっていたはずの、醜いうねり――涙の跡は、航の「湿度感知」と「骨ベラ捌き」によって、紙の繊維を傷つけることなく、完璧にフラットに矯正されていた。
秋穂の目から、一滴の涙がこぼれ落ち、修復されたばかりの表紙の上に静かに弾けた。だが、今度の涙は、あの暗い部屋で流した絶望の涙ではなかった。
「本当に……直してくれたんだね、遠野くん」
秋穂の声が、微かに震える。彼女は本を両手でしっかりと抱きしめ、胸元に押し当てた。その温もりは、彼女が失いかけていた、他者を信じる勇気そのものだった。壊れた本が直るように、自分の引き裂かれた心もまた、もう一度繋ぎ合わせることができる。航の丁寧な手仕事が、彼女の凍りついていた時間を、確かに動かした瞬間だった。
「約束、だから」
航は少しだけ口元を緩め、静かに頷いた。徹夜の疲労が、その一瞬だけ消え去ったような気がした。自分が施した修復が、誰かの凍りついた時間を動かした。その確かな手応えが、航の胸の奥に、言葉にできない温かい光を灯していた。母を失って以来、ずっと自分を苛み続けていたあの罪悪感の闇が、ほんの少しだけ、薄れていくのを感じていた。
秋穂は涙を拭い、母親の紗和の方を振り返った。紗和は、娘が本を抱きしめて涙を流す姿を、ただ呆然と見つめていた。その表情からは、先ほどの鋭い拒絶は消え去り、ただ娘の回復を心から願う、一人の母親の素顔が戻っていた。
「お母さん。私、明日……学校に行く。図書室に、行くよ」
秋穂の言葉は小さかったが、そこには二度と揺らぐことのない確信が宿っていた。
紗和は何も言えず、ただ涙を浮かべて娘の肩を優しく抱きしめた。閉ざされていた吉野家の玄関に、朝の温かい光が、遮るものなく差し込んでいた。
*
翌日の放課後。
旧校舎の二階、最奥にある図書室分室。窓の外からは、相模湾の潮風が静かに吹き込み、一本の大きな桜の木の葉を揺らしていた。部屋の中には、古い紙の匂いと、でんぷん糊の甘い香り、そして書棚の隅に置かれた「白檀の防虫香」の静謐な香りが混ざり合って漂っている。
航は一人、ナラの木の修復デスクに向かい、柘植の骨ベラを丁寧に布で磨いていた。一晩中酷使した道具に感謝を捧げる、職人としての静かな時間。図書室の掛け時計が、チク、タク、と規則的な音を刻み、夕暮れの格子の影を床の上に長く伸ばしていく。
静寂が、部屋を優しく包み込んでいた。
その時、図書室の古びた木製の扉が、ギィ、と静かな軋み音を立てて、ゆっくりと外側に向かって開かれた。
差し込む夕日のオレンジ色の光の中に、一人の少女が立っていた。
紺色のセーラー服。綺麗に整えられた制服の襟。前髪は少しだけ横に分けられ、その奥にある澄んだ瞳が、まっすぐに航を見つめていた。両手には、あの藍色の風呂敷に包まれた、修復済みのアンデルセン童話集が大切に抱えられている。
吉野秋穂が、そこに立っていた。
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