効率の刃と、静かなる対峙
がたがたと、建て付けの悪い木製の引き戸が、耳障りな音を立てて横に滑った。
旧校舎の湿った空気を押し出すようにして図書室分室に入ってきたのは、端正な、しかし一切の温度を感じさせない影だった。制服の襟元は一ミリの乱れもなく整えられ、左腕には「生徒会副会長」と白文字で染め抜かれた、アイロンの効いた腕章が巻かれている。高校三年生、新藤誠。実質的に生徒会執行部を牛耳るその男は、手にした薄型のアルミ製バインダーを小脇に抱え、冷徹なグレーの瞳で室内をゆっくりと見回した。
新藤の視線は、埃っぽい書棚や、窓辺で静かに葉を広げるポトスの鉢植えには一瞬たりとも留まらなかった。彼の目が捉えたのは、部屋の中央にある古いナラの木の作業台と、その上に置かれた、ページがバラバラに脱落したアンデルセン童話集。そして、綿手袋をはめたまま立ち尽くす遠野航の姿だけだった。
「やはり、ここにいたか。遠野」
新藤の声は、低く、良く響いた。しかしそこには、生徒を指導する教師のような熱っぽさは微塵もない。ただ、決められたプログラムを淡々と実行する機械のような、冷酷な合理性だけが宿っていた。
新藤は迷いのない足取りで作業台へと近づくと、手にしたバインダーから一枚の書類を引き抜き、乾いた音を立てて木目の上に叩きつけた。白い紙面には、太いゴシック体で『同好会廃部および退室勧告書』と印字されている。
「無駄だと思っていたが、これほどとはな。活動実績報告書は二期連続で未提出。部員数は、書類上お前一人のみ。ここは学校の予算とスペースを浪費しているだけの『空白』だ。今学期末をもって、図書修復同好会は正式に廃部とする。速やかに荷物をまとめ、この部屋を明け渡してもらいたい」
宣告は、あまりにも一方的だった。新藤の言葉には、航たちの弁明を聴くための『余白』など最初から用意されていないようだった。
書棚の影で缶コーヒーを手にしたまま静観していた司書教諭の佐伯先生が、小さくため息をつきながら、ヨレヨレの白衣を揺らして歩み寄ってきた。
「まあまあ、新藤くん。そう硬いことを言わずに。彼らはここで、新校舎では対応しきれない古い本の修復という、立派な作業をしているんだがね」
佐伯がいつもの事なかれ主義を装った緩い口調でとりなそうとする。しかし、新藤は一瞥もくれず、手元の人事手帳を開いた。
「佐伯先生。学校管理規則第十二条に基づき、部員数が三名に満たない非公式同好会は、生徒会執行部の判断により即時活動停止措置をとる権限があります。さらに、この旧校舎は来年度の再開発計画において解体が決定している。実績ゼロの同好会に、貴重な維持費とスペースを割く合理的な理由は一ミクロンもありません。先生の温情は、規則の前には何の意味も持ちませんよ」
新藤の言葉は、完璧な正論だった。私立青葉台高校が進学校としてのブランドを確立するため、無駄を徹底的に排除し、効率化を進める。それは生徒会執行部が掲げる「正義」であり、新藤はその忠実な執行者だった。佐伯先生は苦笑いを浮かべ、肩をすくめて沈黙した。大人の論理でも、新藤が敷いた規則の網を破ることはできなかった。
図書室分室に、重苦しい静寂が満ちていく。窓の外からは、下校時刻を告げるチャイムの音が遠く響いていたが、この部屋の中だけは時間が凍りついたかのようだった。
航は無言のまま、自分の両手を見つめた。白い綿手袋。その下にある指先は、冷たい怒りと焦燥で微かに震えかけていた。この場所を失えば、僕はどこへ行けばいい。母の面影を残す古い紙の匂いと、でんぷん糊の温もり。他者との関わりを避け、ただ本を直すことだけに没頭できるこの聖域が消えれば、自分は再び、あの底なしの後悔の闇へと引きずり込まれてしまう。
――感情的になるな。言葉で争えば、相手の思うツボだ。
航は胸の奥で、自分自身に強く言い聞かせた。深呼吸を一つ。白檀の香りが鼻腔を通り、肺の奥を冷やす。心拍数が、静かに一定のリズムへと戻っていく。
航はゆっくりと立ち上がった。猫背気味だった背筋を真っ直ぐに伸ばし、新藤の冷徹なグレーの瞳を正面から見つめ返した。まばたきをせず、呼吸を極限まで深く、静かに保つ。航の内に宿る「静かなる対峙」の感覚が、図書室の空気を一瞬で張り詰めさせた。
新藤が、微かに眉をひそめた。カーストの最下層に位置する、ただの暗い本オタクだと思っていた少年から、予期せぬ無言の威圧感を感じ取ったのだろう。新藤はバインダーを握る手に少しだけ力を込めた。
航は声を荒らげることなく、低く、しかし驚くほど澄んだ声で話し始めた。
「新藤副会長。あなたは『実績ゼロ』と言いましたね」
「事実だ。お前たちがこの部屋で何かを生み出したという記録は、生徒会のデータベースには存在しない」
「データベースに載っていないものが、すべて無価値というわけではありません」
航は作業台の下の棚から、一昨日に修復を完了したばかりの、十冊の古い実用書を取り出し、新藤の目の前に整然と並べた。それらは、新校舎の図書委員会が「破損本」として廃棄処分リストに載せていた、昭和中期の文庫本や図鑑だった。
「これを見てください」
航は、その中の一冊を丁寧に開いた。表紙の角は、同色の製本クロスで美しく補強され、割れていた背表紙は、でんぷん糊と楮紙(こうぞがみ)によって強固に接合されている。ページをめくっても、引っかかりは一切なく、まるで最初から傷ついていなかったかのように滑らかに開閉した。
「これは先月、新校舎の一般図書室から廃棄される予定だった本です。もしこれらをすべて新品に買い替えた場合、図書購入予算から約一万五千円が消費されます。ですが、僕がこれらを修復するために使用した資材――正麩糊と和紙、補強クロスの費用は、一冊あたり十円にも満たない。十冊で、わずか百円以下です」
新藤は無言のまま、並べられた本の一冊を手に取った。指先で背表紙の強度を確かめ、ページの接合部を凝視する。彼の目が、プロレベルの完璧な修復技術に驚きを見せたのを、航は見逃さなかった。
「僕たちの同好会は、学校の資産を『廃棄』から救い、図書予算の支出を抑えています。これは公式な『経費削減効果』としての実績ではないでしょうか。もしこの同好会を今すぐ廃部にするなら、生徒会は今後、これらの破損本をすべて新品に買い替えるための追加予算を承認しなければならなくなる。それは、あなたの言う『効率化』に反する行為ではありませんか」
「……!」
新藤の喉が、微かに動いた。彼は反論の言葉を探すように、手元の手帳と、航が提示した restored books を交互に見つめた。新藤の武器は「規則と効率」だ。だからこそ、航が突きつけた「経費削減」という極めて具体的で合理的な数字の前に、彼の論理は一時的に沈黙せざるを得なかった。
沈黙の時間が、重く、長く感じられた。図書室の壁に掛けられた古い時計の振り子が、コチ、コチ、と冷酷に時を刻む。航は視線を逸らさず、新藤の目の奥にある揺らぎを見つめ続けた。
やがて、新藤は手にしていた本を静かに作業台の上に戻した。彼の表情から先ほどの傲慢さは消えていたが、冷徹な仮面は依然として崩れていなかった。
「……面白い屁理屈だな、遠野」
新藤はバインダーを叩き、眼鏡の位置を直した。
「確かに、お前の技術と、それによる微々たる予算節約の効果は認めよう。だが、規約は規約だ。部員数が足りないという事実は覆らない。それに、生徒会が求めているのは、学校全体、あるいは地域社会に対する『明確な貢献』だ。身内の本を数冊直しただけで、この部屋を私物化し続けることは許されない」
新藤は一歩引き、冷たい笑みを浮かべた。
「だが、効率を重んじる者として、お前の『提案』には一考の価値を認めよう。猶予をやる」
「猶予……?」
「今期末までだ。それまでに、この同好会が学校、あるいは地域にとって不可欠な存在であることを証明してみせろ。条件は二つ。一つは、新校舎の図書委員会から依頼された破損本百冊を完璧に修復し、システムに登録すること。もう一つは、地域住民や一般生徒を巻き込んだ、目に見える『修復実績』を示すこと。これができなければ、学期末の最終監査で、この部屋は完全に封鎖する」
新藤は踵を返し、出口へと歩き出した。その背中は、依然として真っ直ぐで、冷酷な正義感に満ちていた。
だが、扉に手をかけた瞬間、新藤は不意に足を止め、振り返った。彼の冷たい視線が、航の作業台の端に置かれた、あの本に向かう。
吉野秋穂が持ち込んだ、ページがバラバラになったアンデルセン童話集。
新藤は、そのボロボロの表紙と、人魚姫のページに残された「涙痕」のうねりに、一瞬だけ鋭い視線を注いだ。まるで、その本に隠された言葉にできない傷と、航がそれを直そうとしている意図を、すべて見抜こうとするかのように。
「……傷ついたゴミをいくら集めても、世界は変わらんぞ、遠野」
冷たい言葉を吐き捨て、新藤は部屋を出て行った。ガラガラと、激しい音を立てて扉が閉まり、図書室分室には再び、元の静寂と、白檀の香りが戻ってきた。
航はゆっくりと息を吐き出し、作業台に両手をついた。手袋越しに、ナラの木の冷たい質感が伝わってくる。廃部は免れた。しかし、突きつけられたのは、期末までに「百冊の修復」と「地域の信頼」という、航一人の手には余るほどの、重いタイムリミットだった。
航の視線は、静かに作業台の上の童話集へと戻った。人魚姫のページの、あの同心円状のうねり。まずは、この少女の本を完璧に直さなければならない。迫り来る二重のプレッシャーが、航の細い肩に、静かにのしかかっていた。
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