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破られた童話と、放課後の訪問者

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ギィ、と長い間油を差されていない旧校舎の重い木製の扉が、静かに、しかし明確な音を立てて開いた。


 流れ込んできた冷たい夜気とともに、図書室分室の入り口に立ち尽くしていたのは、一人の少女だった。制服の上に羽織ったサイズの大きなカーディガンは、まるで彼女自身を世間の視線から隠す盾のようだった。長い前髪が目元を暗く覆い、その隙間からかすかにのぞく瞳は、ひどく怯えたように小刻みに揺れている。彼女の両手には、一冊の古い本が、まるで命綱であるかのように固く握り締められていた。


「あの……この本、直して、もらえますか……?」


 消え入りそうな、かすれた声だった。放課後の静寂が支配するこの古い図書室において、その言葉はあまりにも頼りなく、しかし切実に響いた。


 航は右手に持っていた柘植の骨ベラをそっと作業台の上に置いた。手の脂を吸って飴色に輝くその道具は、彼にとって亡き母との唯一の繋がりであり、心を落ち着かせるためのお守りでもあった。彼は深く息を吸い、図書室に漂う古い紙の匂いと、先ほど練り上げたばかりのでんぷん糊の甘い小麦の香り、そして書棚の隅に置かれた白檀の防虫香の静かな香りを胸に満たした。


「……そこに、かけてください」


 航は作業台の向かいにある、使い込まれたナラの木の椅子を指し示した。少女――吉野秋穂は、びくりと肩を揺らしたが、促されるままにゆっくりと歩みを進め、椅子の端に浅く腰掛けた。その動作の一つ一つが、他者に対する深い警戒心を表している。


 航は無言のまま、引き出しから白い綿手袋を取り出して両手にはめた。修復士としての、そして他者の領域に土足で踏み込まないための、静かな儀式だった。手袋の繊維が擦れるかすかな音が、卓上真鍮ランプのオレンジ色の光の中に溶けていく。


「本を見せてもらってもいいですか」


 秋穂は躊躇するように一瞬手を引いたが、やがて意を決したように、抱えていた本を作業台の上にそっと差し出した。航はそれを受け取り、ランプの光の下、グリーンのカッティングマットの上に静かに置いた。


 それは、古いアンデルセン童話集だった。かつては美しい装丁だったのだろうが、今や表紙の角は無惨に潰れて中の板紙が露出し、背表紙の布クロスは完全に割れて裂けている。何より深刻なのは、本の「折」と呼ばれるページの束が、綴じ糸の腐食によって完全に脱落し、バラバラになっていることだった。少しでも乱暴に扱えば、紙の繊維ごと崩壊してしまいそうな状態だった。


 航は「本の声」を聴くように、指先をそっとページの端にあてた。紙の厚み、カサカサとした乾燥の度合い、そして長年放置されていたことによる酸性化の匂い。彼の皮膚感覚は、この本が歩んできた過酷な時間を瞬時に読み取っていく。


「アンデルセン……ずいぶん、大切に読まれていたんですね」


 航が静かに呟くと、秋穂は前髪の奥で小さく息を呑んだ。彼女は何も答えない。ただ、自分の心臓の音を隠すように、カーディガンの袖をぎゅっと握り締めている。


 航は骨ベラを使い、ページを一枚ずつ、慎重にめくっていった。破れた箇所、手垢の跡、犬の耳のように折れ曲がった角。そのすべてが、この本の歴史だった。そして、中ほどのページ――「人魚姫」の挿絵が描かれた頁に差し掛かったとき、航の指先がかすかに止まった。


 そのページの紙面は、不自然に波打っていた。ただ水に濡れたのとは違う。乾燥した後に紙の繊維が不均一に収縮し、同心円状のわずかな歪みが生じている。光を斜めからあてると、その微細なうねりが、卓上ランプの影となってはっきりと浮かび上がった。


 ――涙痕(るいこん)だ。


 航の脳裏に、確信がよぎった。ただの雨水や飲み物のシミではない。塩分を含んだ液体が、読者の目から直接この紙面へと滴り落ち、そのまま時間をかけて乾燥した跡。しかもそれは一滴や二滴ではない。このページを開いたまま、持ち主が激しく、そして静かに涙を流し続けたことを、紙の傷みが無言で証明していた。


 航がその「涙の跡」を見つめていることに気づいた瞬間、秋穂の身体が明確に強張った。彼女は呼吸を止め、視線をあからさまに部屋の隅へと逸らした。首筋に微かな汗が浮かび、カーディガンの中の手が微かに震えている。彼女にとって、そのページは誰にも見られたくない、暴かれたくない、生々しい傷口そのものなのだ。


 沈黙が、図書室の重い空気の中に満ちていく。佐伯先生は、少し離れた書棚の影で、缶コーヒーを片手に持ったまま、無言で二人の様子を見守っていた。大人の余計な介入は、今はこの少女の脆い心を完全に砕いてしまうことを、彼は知っている。


 航の胸の奥にも、冷たい澱のような記憶が疼き始めた。母の病室で、自分が放ってしまった最悪の言葉。その後に流した、決して取り返しのつかない涙。この少女もまた、言葉にできないほどの深い痛みを、このバラバラになった童話集に閉じ込めているのではないか。


 詮索したいという衝動が、航の脳裏を一瞬かすめる。なぜ、こんなに泣いたのか。なぜ、学校に行かず、この古い旧校舎へやってきたのか。だが、航はそれを強く律した。他人の心の傷を、好奇心や同情で安易に覗き込んではならない。それは、彼自身が最も恐れ、嫌悪している行為だった。


 航は静かに視線を上げ、秋穂の、前髪に隠された目元をまっすぐに見つめた。


「吉野さん」


 名前を呼ばれ、秋穂はびくりと身をすくませた。拒絶されることを恐れるように、彼女の肩がさらに小さくなる。


「この同好会には、一つの絶対的なルールがあります」


 航の声は、低く、しかし極めて穏やかだった。彼は作業台の上の童話集を優しく両手で包み込むようにしながら、語りかけた。


「『守秘の掟』です。僕たちは、ここに持ち込まれた本の中身を詮索しません。落書きがあっても、破れていても、シミがあっても、それを誰かに話すことは絶対にありません。僕にとって、この本は物語ではなく、紙の繊維と、糊の水分量と、糸の強度の問題です。だから……」


 航はそこで一度言葉を切り、手袋をはめた手で、そっと秋穂の目の前に本を戻した。


「あなたがなぜこの本を大切にしているのか、なぜ傷ついてしまったのか、僕は聞きません。ただ、この本をもう一度、めくりやすい元の姿に戻すことだけを考えます。中身は読まない。ただ、直すだけです」


 その言葉は、冷たい事務的な宣言のようでありながら、秋穂にとっては、これ以上ない「安全な境界線」の提示だった。自分の傷ついた過去を詮索されず、ただその存在をそのまま受け入れてもらえる。その事実に、秋穂の張り詰めていた肩の力が、目に見えてふっと抜けていくのが分かった。


 秋穂は小さく、しかし深く、溜め込んでいた息を吐き出した。そして、ゆっくりと顔を上げ、初めて長い前髪の隙間から、航の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、まだ怯えが残っていたが、同時に、確かな安堵の光が宿っていた。


「……お願いします。この本、私の、大切な、思い出なんです……」


 彼女の声は、先ほどよりも少しだけ、しっかりと響いた。言葉にできない痛みを、本という器を介して、航が静かに受け止めた瞬間だった。


「分かりました。お預かりします。少し時間はかかりますが、丁寧に直します」


 航がそう言って頷くと、秋穂は小さくお辞儀をし、静かに椅子から立ち上がった。彼女の足取りは、この部屋に入ってきたときよりも、ほんの少しだけ軽くなっているように見えた。図書室の古い木製の扉が、再び静かに閉まり、冷たい夜気の余韻だけが残された。


 航は、カッティングマットの上に残された童話集を見つめた。表紙の角の潰れ、割れた背表紙、そして「人魚姫」のページの涙痕。これから始まる、果てしない手作業の工程を頭の中で組み立てる。でんぷん糊の粘度、極薄和紙の繊維の方向、骨ベラをあてる角度。それらを考えているときだけが、航にとっても、過去の後悔から逃れられる静寂の時間だった。


「良い仕事を、したな、遠野」


 書棚の影から、佐伯先生がゆっくりと歩み寄ってきた。缶コーヒーを一口すすり、卓上ランプに照らされた童話集を静かに見つめる。


「本を直すことは、人の過去を許すことだ。お前が彼女に示した境界線は、彼女にとって最高の救いになったはずだよ」


「……僕はただ、ルールを言っただけです」


 航はそっけなく答え、柘植の骨ベラを手に取った。母の形見の木肌が、彼の指先を通じて、静かに体温を吸い上げていく。


 しかし、その静寂は長くは続かなかった。


 旧校舎の長い廊下の向こうから、木造の床板を規則正しく、そして冷酷に踏み鳴らす、複数の足音が近づいてきた。それは、この古い校舎に漂うノスタルジックな空気を切り裂くような、極めて事務的で、容赦のない響きだった。足音は図書室分室の前でぴたりと止まり、曇りガラスの向こうに、制服の胸元に生徒会の腕章を巻いた、人影のシルエットが浮かび上がった。


 航の指先が、再び微かに凍りつく。同好会の存続を揺るがす、冷徹な効率主義の影が、すぐそこまで迫っていた。

HẾT CHƯƠNG

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