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豪雨の侵入と、崩れゆく天井

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天井から滴り落ちた冷たい一滴が、遠野航の頬を濡らした。皮脂を弾くようなその冷たさに、航は思わず息を止めた。古い木造校舎の奥壁から、メリメリと木材が裂けるような悲鳴が響き渡る。相模湾から吹き付ける猛烈な暴風が、窓ガラスを今にも粉砕せんばかりに叩きつけていた。


「遠野、これは……」


 背後で、修復されたばかりの日記帳を胸に抱きしめたままの一ノ瀬蓮が、掠れた声で呟いた。その瞳には、完璧な優等生としての仮面を剥ぎ取られた、剥き出しの焦燥が浮かんでいる。


「雨漏りだ。それも、ただの滴りじゃない」


 航はランプの光を掲げ、天井を見上げた。図書室分室の天井板の一部が、雨水を限界まで吸い込んで不気味に黒く変色し、自重で弛むように歪み始めている。ポタポタと、不規則で重い水音が静まり返った室内を支配し始めていた。


 航の「湿度感知(手のひらの水分計)」が、室内の異常な変化を捉えていた。そっと空気を撫でるように広げた手のひらが、皮膚の角質を通じて、湿度が八十五パーセントを超え、九十パーセントに達しつつあることを告げている。空気自体がじっとりと重く、古い紙の匂いと、でんぷん糊の小麦の甘い香りが、湿った泥の匂いにかき消されていく。本棚に並ぶ数百冊の蔵書が、一斉にこの湿気を吸い込み、紙の繊維を膨張させているのが、触れずとも直感的に分かった。


「隣の『立ち入り禁止の雨漏り区画』から、水が流れてきているんだ」


 航の言葉通り、黄色い立入禁止テープで封鎖された隣室との境界壁から、琥珀色の汚水がじわじわと染み出し、床を濡らし始めていた。あそこは数日前の台風で瓦が崩落し、天井板が露出している危険な区画だった。今回の大型台風の直撃が、その傷口を決定的な破局へと押し広げたのだ。


「バケツを持ってくる!」


 小野寺小春が叫び、隅に置かれていたプラスチック製のバケツを抱えて走った。航は即座にそれを天井の歪みの真下に配置した。カン、と高いプラスチック音が響き、濁った水が底を叩く。


 しかし、水滴の落下速度は数十秒で倍増した。激しく跳ね返った水滴が、霧状の微細なミストとなって周囲の本棚へと飛散する。最上段に並ぶ大正期の貴重な文学全集の背表紙が、細かな水滴を浴びてまたたく間に色を変えていく。


「だめだ、跳ね返りの水が本を濡らす!」


 航は慌てて、物置から引きずり出してきた古いビニールシートを広げ、本棚全体を覆おうとした。だが、窓の隙間から吹き込む強風がシートを激しく煽り、天井から落ちてきた大量の雨水の重みが一箇所に集中した瞬間、バサリと鈍い音を立ててシートが中央から裂けてしまった。水が本棚の隙間へと容赦なく流れ落ちる。失敗だった。自然の圧倒的な浸水ペースの前に、小手先の防水措置は一瞬で無力化された。


「一ノ瀬君、小春、シートを諦めて本を避難させる。最優先で避難させる本を僕が決めるから、指示に従って運んでくれ!」


 航の声には、いつもの寡黙な少年の面影はなかった。居場所を、そして本を失うことへの強烈な焦燥が、彼の声を鋭く研ぎ澄ませていた。他者と関わることを恐れていたはずの少年が、本の命を救うために、自ら声を張り上げていた。


「分かった。避難場所はどこにする?」


 蓮が、恐怖を押し殺した冷静な声で応じた。学年トップの論理的思考力が、この極限状態で覚醒しつつあった。蓮は周囲を見回し、旧校舎の構造を脳内で組み立てる。


「プレス機が置かれている位置だ。あそこは床下に最も太いナラ材の主梁が通っている。天井からの雨漏りの軌道からも外れているし、荷重にも耐えられる」


「よし、そこへ運ぶ。小春、和紙保管箱を最優先で移動させて!」


「はいっ、師匠!」


 小春が桐の保管箱を両手で抱え、主梁の上の安全地帯へと走る。航は濡れ始めた本棚の前に立ち、素手で本の背に触れた。彼の指先が、紙の「悲鳴」を聴き取る。


 ――これはまだ耐えられる。だが、この革装の古典籍はだめだ。繊維が水分を吸った瞬間に、革が加水分解を起こして崩壊する。こちらの和綴じ本も、でんぷん糊が水に溶けてページが完全にバラバラになる。


「一ノ瀬君、この棚の、上から二段目にある革装本と、その下の和綴じ本を最優先で! 他のものは後回しでいい!」


「了解した」


 蓮は制服の袖をまくり、航が指定した本を迷わず両腕で抱え込んだ。完璧な優等生としてのプライドも、泥に汚れることへの嫌悪感も、今の彼にはなかった。ただ、自分を救ってくれたこの薄暗い図書室を守りたいという、純粋な執念だけが彼を動かしていた。


 航は「吸水乾燥ボード」を棚から引っ張り出した。自分がアルバイト代を叩いて購入した、多孔質セラミック製のプロ用ボードだ。彼は濡れてしまった本のページの間に、このボードを一枚ずつ慎重に挟み込んでいく。ボードが驚異的な速度で紙の水分を吸い上げ、繊維の波打ちを防いでいくのを指先で感じた。


「遠野、天井の歪みが大きくなっている。もう持たないぞ!」


 蓮の鋭い警告が響く。見上げると、天井の石膏ボードは水を吸って大きく孕み、まるで巨大な怪物の胃袋のように、今にも裂けて中身をぶちまけそうな状態に達していた。メリメリ、と木造校舎の骨組みが軋む音が、耳の奥を直接揺らす。


 航は濡れた本を抱え、冷たい雨水に全身を濡らしながら、最後の避難作業を続けた。体温が急激に奪われ、指先が凍えるように冷たくなっていく。それでも、彼の目は死んでいなかった。繋ぎ合わせた絆の温もりが、彼の胸の奥で、確かに燃え続けていた。


 その瞬間、隣の「立ち入り禁止の雨漏り区画」から、凄まじい崩落音が響き渡った。ズガガガン、という衝撃波が旧校舎全体を揺らし、図書室分室との境界壁に、深い稲妻のような亀裂が走る。大量の埃と漆黒の雨水が、その裂け目から一気に噴出した。


「危ない!」


 航は蓮の身体を突き飛ばすようにして、主梁の安全地帯へと転がり込んだ。次の瞬間、図書室分室の天井板の一部が、重みに耐えかねて轟音とともに崩落した。大量の石膏の破片と、せき止められていた泥水が、彼らが先ほどまで立っていた本棚の真上に、滝のように降り注いだ。

HẾT CHƯƠNG

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