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嵐の予兆と、凍りついた日記

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窓の外では、相模湾の底から這い上がってきたような重い雨雲が、旧校舎の屋根を完全に覆い尽くしていた。たたきつけるような雨音が、古びた窓ガラスをガタガタと不気味に震わせる。湿気を含んだ南風が、木造校舎の隙間から入り込み、図書室分室の空気をじっとりと重く湿らせていた。


「……七十二パーセント」


 遠野航は、作業デスクの上に広げた吸水紙にそっと指先をあて、皮膚に伝わる微細な湿り気を感知した。長年の手作業によって培われた彼の「湿度感知」は、空気の重さや紙の水分含有量を、デジタル水分計よりも正確に捉えることができる。今日の空気は、紙の繊維を極度に膨張させ、でんぷん糊の乾燥を著しく遅らせる水分を孕んでいた。


 航の目の前には、昨夜パッセージ製本を終えたばかりの一ノ瀬蓮の日記帳が置かれている。引き裂かれた断面は、極薄の典具帖紙によって文字を一切隠すことなく美しく接合されていたが、この高湿度のなかでは、糊の水分が紙の繊維を歪ませてしまう危険性があった。


 航は電気コンロの上の耐熱ビーカーに視線を落とした。沸き立つでんぷん糊(正麩糊)の状態をヘラでかき混ぜながら確かめる。そして、スポイトを手に取り、純水を一滴、また一滴と慎重に落とした。雨の日の高い湿度に合わせ、糊の粘度をミクロン単位で調整する「糊の粘度調整(天候調合)」だ。水分が多すぎれば乾燥時にシワになり、少なすぎれば接着力が失われる。ヘラを持ち上げたとき、糊が放つ半透明の美しい糸の引き方だけで、航は今日の最適解を見極めた。


 図書室分室の中には、張り詰めた静寂が満ちていた。


 同好会が定めた「作業中の沈黙(静寂の維持)」という鉄則。修復作業中は、必要最小限の指示以外の私語は一切禁止される。この静寂こそが、外部のノイズを遮断し、メンバーそれぞれの日常のストレスやトラウマを一時的に消去する瞑想的な防壁だった。


 作業デスクの端では、一ノ瀬蓮が自分の日記が仕上げられていく様子を、祈るような沈黙で見つめていた。彼の端正な横顔には、昨夜の涙の痕跡はもうなかったが、完璧な優等生の仮面の下にある脆い素顔が、その静かな佇まいから透けて見えた。吉野秋穂は受付カウンターで静かに目録を整理し、小野寺小春はでんぷん糊のビーカーを片付けるために、音を立てないよう細心の注意を払って動いている。


 だが、その張り詰めた平穏は、唐突に破られた。


 ガラッ、と図書室の引き戸が、乱暴な音を立てて開け放たれたのだ。


「――生徒会書記、近藤恵です。抜き打ちの利用状況監査を行います」


 入り口に立っていたのは、髪をきっちりと三つ編みに結び、胸元に生徒会手帳とストップウォッチを抱えた二年生の少女、近藤恵だった。新藤副会長の忠実な部下であり、同好会のルール違反を暴くための「冷酷な目」を持つ監査官。彼女の鋭い視線が、図書室の隅々へと走った。


 室内の温度が、一瞬で氷点下まで下がったかのような緊張感が走る。


 恵は濡れたレインコートの水を玄関で払うこともせず、土足同然で室内に足を踏み入れてきた。彼女のストップウォッチが、カチカチと規則的な金属音を立てて時を刻む。その視線は、真っ直ぐに航の作業台へと向けられた。


 そこには、蓮の「死にたい」「失敗は許されない」という悲痛な本音が書き殴られた、修復中の日記のページが露出していた。もしこれを見られれば、蓮のプライバシーは完全に暴かれ、生徒会に「不適切な私物の持ち込み」として没収されるだけでなく、蓮の社会的立場は崩壊する。


 恵が、航のデスクへと一歩、歩み寄る。その距離、わずか三メートル。


 絶体絶命のピンチだった。


 その瞬間、秋穂が動いた。彼女は受付カウンターから、廃棄予定の重厚な古い百科事典の束を両手で抱え上げると、航のデスクの前に素早く滑り込んだ。


「遠野君、この除籍本、プレス機にかける前に、一度ここに置いておきますね」


 秋穂は極めて自然な動作で、蓮の日記帳の露出したページの上に、ずっしりとした百科事典を重ねて置いた。日記の表紙と、あの痛々しい文字が、厚い革表紙の影に完全に隠される。恵の視線が事典の山に遮られた。


「……何をしているの、吉野さん。監査の邪魔をしないで」


 恵は不満そうに眉をひそめ、事典の山を退けようと手を伸ばした。今度は小春が、大きな声を上げて間に入った。


「近藤先輩! こんにちはッ! 一年一組の小野寺小春です! 監査、お疲れ様です!」


 小春は直角に近いお辞儀をし、わざと大きな物音を立ててバケツを揺らした。恵は驚いて足を止め、耳を塞ぐようにして眉を寄せた。


「うるさいわね、小野寺さん。図書室内では静粛に」


「すみません! 私、不器用でいつも音を立てちゃうんです! あ、先輩、生徒会のストップウォッチって、何秒単位まで測れるんですか? うちの製本用のタイマーとどっちが正確か、見比べさせてもらえませんか!」


 小春は必死に恵の身体の前に立ちふさがり、自分の「竹製骨ベラ」を突き出すようにして恵の注意を自分へと引きつけた。その隙に、蓮は音もなく椅子から立ち上がり、自分の日記を覆う事典の山を、航の背後に隠された「和紙保管箱」の死角へと静かに移動させた。


 恵は小春の強引な態度に猜疑心を強め、「どきなさい」と彼女を押し退けて航のデスクに迫った。デスクの上には、もうでんぷん糊のビーカーと、航の「柘植の骨ベラ」しか残されていなかった。


 恵は航の顔を凝視した。航は綿手袋をはめた両手を静かに重ね、一切の動揺を見せず、ただ静かに恵の瞳を見つめ返した。


 航の内に宿る「静寂のオーラ(空間の調和)」が、図書室全体を支配していく。彼の澄んだ、しかし底の見えない瞳は、恵の放つ攻撃的なプレッシャーを無言で吸収し、無効化していった。恵は何か違反の証拠(例えば、非公式の猫のノリの存在や、私物の不適切な使用)を探そうと戸棚の隙間を睨みつけたが、室内は「道具の即時洗浄と陰干し」のルールによって完璧に整理整頓されており、白檀の防虫香の香りがカビ臭さを完全に消し去っていた。突っ込むべき隙が、どこにも見当たらないのだ。


「……部員数は、遠野君、吉野さん、小野寺さんの三名。……一ノ瀬君、あなたはどうしてここにいるの?」


 恵の鋭い矛先が、壁際に静かに立っていた蓮に向けられた。


「僕は、図書室の正当な利用者として、静かに自習をしていただけです。生徒会規約第十四条に基づき、放課後の開館時間内における一般生徒の自習利用は自由であるはずですが、何か問題でも?」


 蓮はアイロンの効いたシャツの襟を正し、いつもの冷淡で完璧な優等生の口調で淡々と答えた。その論理的な返しに、恵は言葉を詰まらせた。


 ストップウォッチの金属音が、むなしく響く。恵は手帳に厳しくペンを走らせると、航をもう一度強く睨みつけた。


「……今回は、明確な規約違反は見当たりませんでした。ですが、新藤副会長の指示通り、この同好会が『安全管理上のリスク』を抱えていることは間違いありません。特にこの旧校舎の老朽化は深刻です。……下校時刻を過ぎての無断残留や、危険物の持ち込みがあれば、その瞬間に廃部手続きに入りますから」


 恵は警告を言い残すと、引き戸をピシャリと閉めて立ち去っていった。廊下を去る彼女の足音が完全に消えるまで、図書室の中は、凍りついたような沈黙が守られていた。


「……行った、ね」


 秋穂が小さく息を吐き、その場にへたり込みそうになるのを、小春が慌てて支えた。蓮は和紙保管箱の陰から、自分の修復された日記帳を愛おしそうに取り出し、胸元に強く抱きしめた。彼の指先は、まだ微かに震えていた。


「みんな、ありがとう。……僕のせいで、ここを危険に晒してしまった」


 蓮の掠れた声に、航はゆっくりと首を振った。


「いいんだ。ここは、本と、それを守る人たちの場所だから」


 航はそう言うと、再び自分の作業台に向かい、柘植の骨ベラを手にした。だが、彼の耳は、窓の外から響く不穏な地鳴りのような風の音を捉えていた。


 夜が近づくにつれ、雨風は猛烈な勢いで強まり始めていた。相模湾からの暴風が旧校舎の外壁を激しく叩き、木造の構造体がギィギィと軋む音を立てる。雨音は、もはやガラスを破らんばかりの轟音へと変わっていた。


 その時だった。


 ポタ、ポタ、と、静まり返った図書室の天井から、冷たい水の滴る音が響いた。


 航が驚いて顔を上げると、図書室分室の天井板の一部が、雨水の重みを吸って不気味に黒く歪み始めていた。そして、隣の「立ち入り禁止の雨漏り区画」の奥から、メリメリと木材が裂けるような、最悪の崩壊の予兆が響き渡った。

HẾT CHƯƠNG

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