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夕暮れの避難所と飴色の骨ベラ

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潮風には、いつも微かな塩の爆ぜる匂いと、乾いた砂の気配が混ざっている。


 神奈川県葉川町。海へと続く緩やかな坂道の途中に建つ、私立青葉台高校の旧校舎は、昭和初期の面影を色濃く残す古い木造建築だった。新校舎が鉄筋コンクリートの近代的な姿でそびえ立つ一方で、この木造の建物は大半の教室が物置として放置され、生徒たちからは半ば忘れ去られている。軋む廊下の最奥、二階の突き当たりにある「図書室分室」が、遠野航の唯一の避難所だった。


 放課後の静寂の中、航は窓を大きく開け放ち、肺いっぱいに冷たい潮風を吸い込んだ。夕暮れ時の西日が、傾いた木製の本棚を長い影とともに黄金色に染め上げていく。部屋を支配しているのは、数十年分の埃と、湿った古い紙、そして航がこれから作り出そうとする「糊」の匂いだった。


「……よし、始めるか」


 制服の袖を肘の上まで几帳面にまくり上げ、航は作業机に向かった。机の上には、理科室からこっそり持ち出してきた電気コンロと、耐熱ビーカー、そして白い粉末が並んでいる。航が行おうとしているのは、本の修復において最も重要とされる接着剤――『でんぷん糊(正麩糊)』の煮沸調合だった。


 市販の合成接着剤は手軽で強力だが、数十年という単位で時間が経つと硬化し、酸性を帯びて本の大切な紙の繊維を内側から破壊してしまう。それに対し、小麦粉からグルテンを取り除いた純粋な澱粉で作る正麩糊は、乾燥しても紙を傷めず、何より「可逆性」がある。もし数十年後に再び修復が必要になれば、水分を含ませるだけで綺麗に剥がすことができるのだ。


 ビーカーに正麩糊の粉末を入れ、スポイトで水を正確に計りながら注ぐ。まだ加熱していない液体は、牛乳のように白く濁っている。航は木ベラを握り、ダマが残らないように一定の速度でかき混ぜ始めた。


「熱を急ぎすぎるな。焦がせば不純物が混ざり、すべてが台無しになる」


 かつて、誰かがそう言っていたような気がした。思い出そうとすると、胸の奥がチリチリと痛む。航は雑念を振り払うように電気コンロのスイッチを入れ、弱火でじっくりと加熱を開始した。熱が伝わるにつれ、ビーカーの底からゆっくりと液体の粘度が変化していく。木ベラを動かす手に、ずっしりとした手応えが伝わり始めた。


 濁った白色が、ある瞬間を境に、驚くほど美しい半透明のゲル状へと変化する。湯気とともに、ほのかに甘い小麦の香りが図書室分室に広がっていった。航はコンロの火力を微調整し、糊の中に気泡が入らないよう、木ベラを寝かせて底を這わせるように練り上げる。この日の湿度は五十四パーセント。糊が乾いた後の収縮を計算し、加える水をあと三滴だけ追加した。その手つきは、十七歳の高校生のものとは思えないほど、静かで、迷いがなかった。


 出来上がったばかりの半透明の糊を平皿に移し、乾燥を防ぐための濡れ雑巾をそっと被せる。これで準備は整った。


 次に航が手を伸ばしたのは、作業台の端に置かれた、一冊の古い文庫本だった。新校舎の一般図書室で「破損本」として廃棄処分にされかけていた、昭和中期の実用書だ。表紙は擦り切れ、複数のページが犬の耳のように折れ曲がり、手垢と埃で薄汚れている。


 航はまず、細かく砕いた消しゴム粉をページの表面に優しくまいた。指の腹を使い、円を描くように粉を転がしていく。紙を傷つけないように埃や手垢の汚れを吸着させる「ドライクリーニング」の作業だ。カサカサと、乾いた紙の音が静かな部屋に優しく響く。汚れた消しゴム粉を柔らかいブラシで丁寧に払い落とすと、煤けていた紙面が本来の落ち着いた白さを取り戻した。


 続いて、航は制服の内ポケットから、一本の骨ベラを取り出した。使い込まれて角が丸くなり、手の油を吸って美しい飴色に変化した柘植(つげ)製の骨ベラ。それは、航の亡き母・美咲の遺品だった。


 骨ベラを右手に馴染ませ、折れ曲がったページの角にそっとあてる。紙の繊維の「目」を感じ取りながら、骨ベラを一定の角度で滑らせていく。アイロンをかけるように、折れ目が真っ直ぐに伸び、平らになっていく。この「整紙」と呼ばれる作業は、ただ紙を平らにするだけではない。本に対して余計な力をかけず、その本が歩んできた時間を指先でなぞるような、瞑想的な行為だった。


 パサリ、パサリと、ページをめくる音が規則的なリズムを刻む。航の指先は、紙の厚みや湿り気、その本が置かれていた環境の湿度を敏感に感じ取っていた。それは長年の没頭によって培われた、航だけの「紙の目利き」の感覚だった。


「相変わらず、見事な手つきだな、遠野」


 静寂を破るように、部屋の入り口から低く眠そうな声が響いた。


 振り返ると、ヨレヨレの白衣を羽織り、ボサボサの髪を掻きむしりながら、図書室の司書教諭である佐伯先生が立っていた。片手にはいつもの缶コーヒーが握られている。佐伯先生は、航の作業を邪魔しないようにゆっくりと近づくと、缶コーヒーを作業台の隅に小さな音を立てて置いた。


「先生、ノックくらいしてください」


「すまんすまん。あまりにも静かだったから、邪魔をするのが野暮かと思ってね。その糊、今日も良い具合に練り上がっているじゃないか」


 佐伯はビーカーの中の半透明の糊を覗き込み、感心したように目を細めた。彼は一見、やる気のない昼行灯のように見えるが、実は元西洋製本研究者であり、航の技術の高さを誰よりも早く認め、この図書修復同好会を顧問として陰で守り続けている大人の一人だった。


「……ただの、基礎作業です」


 航は視線を再び手元の文庫本に戻し、飴色の骨ベラを動かした。他者と深く関わることを避け、ただ無言で紙を折り、糊を練る。この作業に没頭している時間だけが、航にとって唯一、自分を責める「ノイズ」から解放される瞬間だった。


 骨ベラを動かすたび、飴色の木肌が航の体温を吸ってじんわりと温かくなる。その温もりが、航の記憶の底にある、最も触れたくない引き出しをこじ開けようとした。


 ――本はね、傷ついても、何度でも直せるのよ。航。


 優しく微笑む母の姿。その隣で、幼い自分は破れた絵本を一緒に直していた。温かくて、穏やかな、失われた時間。


 だが、その美しい記憶は、すぐに暗い影によって塗り潰される。美咲が病気で亡くなったあの雨の日。些細なことで口論になり、感情に任せて放ってしまった最悪の言葉。


 ――お母さんなんて大嫌いだ。死んじゃえ。


 それが、母と交わした最後の会話になってしまった。謝ることも、許されることもできないまま、母は冷たくなり、遠野家のリビングからは一切の会話が消えた。父・宗一は仕事に逃げ、航は古い本の修復という静寂の中に殻を閉ざした。自分が本を直し続けるのは、母への免罪符を求めているだけではないのか。ただの、卑怯な現実逃避なのではないか――。


「っ……」


 脳裏に蘇る後悔のフラッシュバックに、航の息が不自然に止まった。指先が微かに震え、骨ベラを握る手に余計な力が入る。劣化した古い紙の折り目が、ピリリと悲鳴を上げそうになった。


 その時、作業台の手元を、温かいオレンジ色の光が優しく照らし出した。佐伯先生が黙って「卓上真鍮ランプ」のスイッチを入れたのだ。緑色のガラスシェードからこぼれる柔らかな光が、航の視界にあるノイズを静かに消し去っていく。


「焦るな、遠野。紙は正直だ。お前の手の迷いを、そのまま吸い込んでしまうぞ」


 佐伯の声は、いつになく静かで、穏やかだった。余計な詮索はしない。ただ、境界線を守るように、大人の温かい距離感でそこにいてくれる。


「……すみません。少し、手元が狂いました」


 航は深く長い呼吸を一つ吐き出し、胸の動悸を抑えた。骨ベラを一度机に置き、手のひらを冷たい作業台にあてて感覚をリセットする。再び骨ベラを握り、今度は極限まで力を抜いて、紙の繊維に寄り添うように優しく撫でた。紙の波打ちが消え、一冊の本が少しずつ、本来の尊厳を取り戻していく。


 西日はすっかり沈み、旧校舎の窓の外は、濃い群青色の夜へと移り変わろうとしていた。図書室分室の中は、真鍮ランプのオレンジ色の光だけが浮かび上がり、まるで世界の果てに取り残された小さな船のような静寂に包まれている。


 このままずっと、誰も来ない静寂の中にいられればいい。他人の傷に触れることも、自分の傷を暴かれることもなく、ただ紙の声を聴いていられれば――。


 そう思った、その瞬間だった。


 キィ、と。長い間油を差されていない旧校舎の、重い木製の扉が、静かに、しかし明確な音を立てて開いた。


 航の手元が、ぴたりと止まる。


 開いた扉の隙間から流れ込んできたのは、冷たい夜の空気と、どこか怯えたような、微かな呼吸の音だった。卓上ランプの細い光の境界線に、一人の少女が立ち尽くしている。サイズの大きなカーディガンに身を包み、長い前髪で目を隠しがちにした彼女の手には、ページが完全に脱落し、表紙の角が無惨に潰れた、古いアンデルセン童話集が固く握り締められていた。


 少女――吉野秋穂は、震える唇を小さく開き、消え入るような声で、静寂に満ちた図書室に言葉を落とした。


「あの……この本、直して、もらえますか……?」


 それが、壊れた本と、言葉にできない傷を抱えた高校生たちの、静かな物語の始まりだった。

HẾT CHƯƠNG

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