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石化の深淵、師の遺志と叫び

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奈落谷(アビス・ヴァレー)の地下深く、十年間封鎖されていた「宗像の石化廃坑」は、絶対的な静寂と冷徹な青い光に支配されていた。壁面から染み出す「沈黙のエーテル」は、呼吸を吸い込むたびに喉を凍らせ、肺の奥を鋭く突き刺す。かつて魔力石炭を掘り出していた炭鉱の跡地は、今や生きた人間を拒絶する結晶の墓標と化していた。


「はぁ、はぁ……っ」


 榊弦(サカキ・ゲン)は、煤汚れた茶色の革コートを泥に濡らしながら、暗闇の中を這うように進んでいた。右手にしっかりと握られた工具箱だけが、彼を現世に繋ぎ止める唯一の錨だった。


 弦の左腕は、前話での警備隊長グレイとの死闘による過酷なアース(接地)の代償として、すでに肘を越え、上腕の半ばまでが完全に青い半透明の結晶へと変化していた。触覚は完全に消失し、冷たい石の塊を肩からぶら下げているような感覚しかなかった。そればかりか、衝撃を骨髄で吸収し続けた反動が全身を蝕み、一歩歩くたびに crystallized された肋骨がきしむ音を立てて激痛を訴える。お蘭の特製グリーン・オイルはとうに底を突き、痛みを和らげる術はなかった。


 やがて、弦の足が止まった。携帯用の真鍮ランタンが照らし出したのは、廃坑の最深部、赤く脈動する都市の生体肉壁と完全に融合した、巨大な「生ける石像」だった。


「……親父」


 弦の乾いた唇から、掠れた声が漏れた。宗像(ムナカタ)。かつて地下監理局のチーフ技師であり、親を亡くした弦と結衣を育て、都市の「声」を聴く技術を教えてくれた恩師。全身の七割が青い魔導石と化し、岩盤と一体化して佇むその姿は、弦がいつか辿り着く不可避の未来そのものだった。


 弦は石像の前に力なく膝を突き、冷たい石の足元に額を押し当てた。


「俺の技術は……本当にあいつらを救えるのか。結衣の肺の石化病も、スラムの崩壊も、俺のこの腕じゃ……何も届かないんじゃないか」


 いつもは寡黙な弦の口から、弱音が溢れ出た。バルザックが仕組んだ第1魔力炉の暴走計画、スラムを切り捨てるための冷酷な埋め立て計画、そして自分の命のタイムリミット。すべてが重圧となって、彼の細い肩にのしかかっていた。石像は何も答えない。ただ、廃坑の奥から響く「キィィン」という、都市の不協和音だけが耳障りに脳を揺さぶる。


 弦は震える生身の右手で、首元にかけた「真鍮の魔導聴診器」を耳に押し込んだ。そして、石像の傍らに転がっていた、宗像の遺品である「壊れた音叉」に結晶化した左手を重ねた。これ以上調律を続ければ、自身の石化が心臓に達して死ぬ。その恐怖が、弦の指先を躊躇わせた。


 だが、その瞬間――聴診器を通じて、かつてない強烈な不協和音が弦の脳髄に逆流した。


「ぐ、あああああッ!」


 弦は頭を抱えて泥の上に転がった。耳から温かい血が流れ落ち、視界が真っ赤に染まる。都市の怒りと悲鳴、そしてムナカタが石化の直前に感じたであろう絶望の記憶が、濁流となって脳に流れ込んできたのだ。意識が朦朧とし、暗黒の深淵へと沈みかけ、スパナを握る右手の力が抜けかける。


(諦めるな、弦。脈動を……聴け)


 脳裏に直接、澄んだ声が響いた。聴診器に宿る初代調律師の残留思念「零号(ゼロ)」の声だった。零号の歌うような一定のテンポ――「1分間に60拍」の正常な心拍リズムが、弦の乱れた脳波を強制的に導いていく。弦は荒い呼吸を整え、自身の心拍をそのテンポに完全に同調させた。


 その瞬間、世界が一変した。周囲の雑音が完全に消え去り、弦の知覚は「絶対聴覚・レベル2「大地の悲鳴」」へと覚醒を遂げた。


 聞こえる。ただの機械の摩擦音ではない。金属配管の奥にある、都市生命体ガイアの生の血管や肉壁が、引き裂かれるような痛みで「タスケテ、タスケテ」とヘルツ単位の悲鳴を上げているのが、弦の脳内に青い光の回路図となって完璧に可視化されたのだ。そして同時に、その痛みの真の原因を弦の耳は捉えた。魔力炉の異常振動は老朽化などではない。都市の第一大動脈の深部に、何者かが強引に打ち込んだ、黄金の巨大な「楔(くさび)」が肉壁を切り刻んでいる苦痛の叫びだったのだ。


「これが……都市の、本当の悲鳴なのか……」


 弦が目を見開いたその時、激しい余震が廃坑全体を襲った。天井の巨大な石灰岩盤に亀裂が走り、弦とムナカタの石像を押し潰さんと、数トンの瓦礫が轟音を立てて落下し始めた。感覚のない左腕では、エルザを抱えて避難することも、岩を物理的に支えることも不可能だった。


「弦、危ない!」


 エルザが悲鳴を上げる。だが、弦の目は冷静だった。覚醒したレベル2の聴覚が、落下する岩盤のきしみ音から、その「共振周波数」を完璧に割り出していた。


 弦は右手の「音叉スパナ」を振り上げ、傍らの真鍮配管へと正確に叩きつけた。


「キィィィィン――!」


 スパナから放たれた澄んだ高周波が、配管を伝わって落下する岩盤の分子構造へと直撃した。それは岩盤が崩落する際の破壊振動と完全に真逆の波形――「逆位相の振動」だった。物理的な衝撃波が空中で衝突し、相殺し合う。凄まじい風圧が吹き荒れる中、弦の頭上で静止した巨大な岩盤は、内側から崩壊エネルギーを失い、ボロボロとただの砂となって弦の足元へ崩れ落ちた。


「岩が……消えた……?」


 エルザが信じられないものを見る目で弦を見つめた。弦は無言で立ち上がったが、その瞬間、強烈な立ち眩みに襲われた。口の中が砂を噛んだように無感覚になり、全身の皮膚の触覚が一時的に完全に消滅していた。都市生命体との極限の精神的同調がもたらした、一時的な結晶化の精神的代償だった。


 しかし、弦の冷徹な瞳には、もはや迷いはなかった。彼は聴診器から得た「大地の悲鳴」の伝播経路を解析し、その発生源を突き止めていた。


「……第1魔力炉の廃棄抗だ。あそこに、都市の設計図が眠っている」


 バルザックが埋め立てを企む、触れるものすべてを結晶化させる超高熱の地獄。そこへ潜入しなければ、この街も、結衣も、そして自分自身も救えない。弦は動かない左腕を抱え、深淵の奥を睨みつけた。

HẾT CHƯƠNG

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