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黒き猟犬の追跡、配管迷宮の逃走

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奈落谷(アビス・ヴァレー)の夜は、いつも油と錆の混じった黒い雨で始まる。だが、今夜の闇を切り裂いたのは、雨音ではなく、地下監理局・奈落谷分署から放たれた赤く悍ましい非常警報のサイレンだった。


「一級指名手配犯、榊弦! 徴税官襲撃およびインフラ破壊の罪により、見つけ次第その場で処刑せよ!」


 拡声魔導具から流れる無機質な声が、湿った石壁に反響してスラムの路地裏を震わせる。遠くから、ドスン、ドスンと、地盤を直に踏み潰すような重苦しい金属音が響いてきた。監理局警備隊長グレイが率いる、重装甲の魔導アーマー部隊の足音だ。


「弦の旦那! こっちだ、早く!」


 暗闇から、猫のようにしなやかな人影が飛び出してきた。継ぎ接ぎの革ジャンを羽織り、ボサボサのショートヘアを濡らした少女――スラムの密偵ハルだった。彼女は監理局から盗み出した『魔導単眼鏡』を首にかけ、鋭い視線で路地の奥を指し示す。


「グレイの鉄犬ども、完全にイカれてるよ! 錆通りの入り口を全部封鎖して、逆らう住民を片っ端から重力槌で殴り倒してる。旦那の工房も、もう包囲網の内側だ。地図に載ってない極細の排気ダクトを抜けるしかない!」


「……案内しろ」


 弦は短く答え、走った。右腰の工具帯には、相棒である真鍮製の『音叉スパナ』が鈍い光を放っている。だが、コートの袖の下にある彼の左腕は、肘の上まで青い半透明の結晶に覆われ、完全に感覚を失っていた。走る振動が骨髄を伝わるたび、凍りつくような激痛が首筋まで突き抜ける。お蘭の特製グリーン・オイルはすでに底を突いており、結晶化の進行を抑える術はなかった。息を吸うたびに、肺の奥が冷たくきしむ。


 ハルが錆びついた鉄板を蹴り開け、人間が一人やっと通れるほどの狭い配管の隙間へと滑り込んだ。弦もそれに続く。頭上を走る何百本もの細い真鍮管から、高熱の廃熱蒸気が「シューッ」と不気味な音を立てて噴き出している。煤煙が立ち込める閉塞感の中、弦は「絶対聴覚・レベル1『配管の呼吸』」を起動した。


 脳内で周囲の雑音が消え去り、配管内部を流れるエーテルの流速と圧力が、青いグリッドの立体波形として再構成される。だが、その静寂はすぐに、配管の壁を伝って響いてくる「ゴォォン……」という地響きのような重低音によって破られた。


「見つけたぞ、ドブネズミめが」


 配管の外部から、金属のスピーカーを通したグレイの残虐な声が響いた。直後、凄まじい衝撃波が配管を襲う。グレイが放った『魔導重槌・グラビティ』の打撃だ。重力波が金属管を歪め、弦の三半規管を激しく揺さぶる。激しい目眩と嘔吐感が弦を襲った。


「くっ……!」


「キャッ!?」


 頭上のコンクリート壁が重力圧で破砕され、鋭い瓦礫が雨のように降り注ぐ。弦はとっさに感覚のない左腕をハルの頭上に差し伸べ、彼女を抱きかかえるようにして前方へと滑り込んだ。結晶化した左腕に巨大なコンクリート片が激突したが、硬化した組織は痛みを感じず、ただ「ゴツン」と鈍い音を立てて瓦礫を弾いた。しかし、その衝撃の代償として、左腕の結晶の奥で「ピキリ」と、骨が割れるような不気味なきしみ音が響く。


「ハル、無事か」


「う、うん! でも、後ろから何かが来る! ものすごい魔力の波だよ!」


 ハルの言う通りだった。グレイの魔導アーマーに搭載された『探知結界』が、弦の結晶化した左腕から漏れ出る独自の魔力波動を完全にロックオンしていた。狭い配管の奥に、青い探知の光線が触手のように伸びてくる。一度ロックされれば、壁の向こうからでも重力槌で正確に押し潰される。退路は、完全に瓦礫で塞がれていた。


「――ここまでだ、榊弦。貴様の結晶骨、バルザック査察官へ捧げる極上の触媒にしてやる」


 配管の曲がり角から、青い防護発光を放つグレイの巨大な重装甲アーマーが姿を現した。狭い空間を完全に塞ぐその質量は、圧倒的な死の圧迫感となって迫る。グレイが『魔導重槌』を振り上げ、高圧重力プレスの予備動作に入った。周囲の空気が一瞬で重くなり、弦の肋骨がミシミシときしみ始める。


(重力減衰シールドか……物理的な衝撃を周囲の空間に分散させている。まともにスパナを叩きつけても、振動を吸収されるだけだ。だが、あのシールドの稼働音には、一瞬の『排気サイクル』の乱れがある……)


 弦は絶体絶命の瞬間の中でも、冷静にグレイのアーマーが発する機械音を解析していた。しかし、今は解析を完了させる時間がない。この包囲網を突破する手段は、ただ一つだった。


 弦は右腰から『真鍮の音叉シールド』を引き抜き、その表面を『音叉スパナ』で強く叩いた。


「キィィィィン――!」


 シールドから放たれた澄んだ超高周波の共鳴振動が、ドーム状の壁となって弦とハルの周囲に展開される。それはグレイの探知結界が放つ電波と正面から衝突し、激しい干渉ノイズを引き起こした。グレイの魔導アーマーの照準器が、狂ったように点滅を始める。


「何だと!? 探知がジャミングされただと!?」


「ハル、俺に掴まれ。息を止めるんだ」


 弦はハルを左腕で固く抱きしめ、右手をコートの胸元に仕込まれた『緊急バイパスバルブ』のレバーへと掛けた。この極小の空間で起動すれば、逆流する高圧ガスの熱で全身に大火傷を負う危険がある。だが、迷っている暇はなかった。弦はレバーを半押しにし、一気に引き下げた。


「緊急排気噴射(エキゾースト・ダッシュ)――!」


 ドシュゥゥッ! と、鼓膜を破らんばかりの青い爆音とともに、弦のコートの背面排気口から、臨界まで圧縮された高圧のエーテルガスが猛烈に噴射された。凄まじい推進力が、弦とハルの身体をロケットのように前方へと弾き飛ばす。ガスの熱風が配管内を焼き尽くし、グレイの視界を真っ白な蒸気で完全に遮断した。


「おのれ、ドブネズミがァッ!」


 背後でグレイの怒号と、重力槌が配管を粉砕する破壊音が響くが、すでに弦たちはその射程外へと跳んでいた。弦は噴射の反動を利用し、スラムの老朽化した垂直換気ダクトの壁面を蹴り、重力に逆らうようにして垂直シャフトを一気に駆け上がった。


「が、はっ……!」


 急激な加速のGと、衝撃を吸収した反動が、弦の結晶化した胸骨へと直接突き刺さる。激しい胸の痛みと、一時的な呼吸困難が弦の意識を刈り取りかける。肺の奥からせり上がる血の味を、彼は奥歯を噛み締めて強引に飲み下した。


 垂直ダクトを抜け、二人は古い地下水道の湿った泥の上へと転がり込んだ。背後のダクトは、グレイの追跡を阻むように、弦が排気噴射の余波で意図的に破壊した金属管の瓦礫によって完全に閉塞していた。グレイの直接の追跡からは、ひとまず逃れたのだ。しかし、奈落谷の全域が監理局の警備兵によって封鎖され、彼らは完全に孤立無援の暗闇に取り残されていた。


 ハルは激しく咳き込みながらも、泥の中から立ち上がり、懐から点滅する『監理局の暗号通信機』を取り出した。その画面には、ハルが逃走中に傍受し、解読したばかりの最新の音声ログが表示されていた。


「ハル……それは?」


 弦が息を荒くしながら問いかける。ハルは青ざめた顔で、通信機の再生ボタンを押した。スピーカーから流れてきたのは、奈落谷の上席査察官バルザックの、冷酷極まりない声だった。


『――グレイ隊長へ告ぐ。榊弦の捕縛の成否に関わらず、計画を最終段階へ移行させよ。第壱魔力炉の緊急冷却バルブを全て鎖で縛り付け、手動での停止を不可能にしろ。数日以内に炉心を臨界暴走(メルトダウン)させ、溶岩状の魔力泥で奈落谷を完全に埋め立てる。老朽化した不要組織は、根元から消去せねばならん……』


 ノイズ混じりの音声が、地下水道の冷たい静寂に溶けていく。ハルは震える手で通信機を握りしめ、弦を見上げた。


「そんな……バルザックの奴、本当にアタシたちの街を、数百万人の命ごと泥の中に沈めるつもりなんだ……!」


 弦は、感覚を失い青く光る自身の左腕を静かに見つめた。骨髄の奥からきしむ痛みが、都市生命体ガイアの「心臓」が発する、破滅へのカウントダウンと不気味に共鳴し始めている。魔力炉の暴走を止めるには、彼自身の技術的限界を超え、全身が石化する恐怖の深淵へと足を踏み入れるしかなかった。弦はスパナを固く握り直し、暗闇の奥、かつて師が眠る廃坑の方向へと、冷徹な瞳を向けた。

HẾT CHƯƠNG

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