錆通りの交渉、命の対価
奈落谷(アビス・ヴァレー)の肺胞を這うような、重く湿った真鍮の煤煙が「錆通り(ラスト・ストリート)」を覆い尽くしていた。頭上の廃棄ダクトから断続的に滴り落ちる汚水が、錆びついた鉄板の地面を叩き、不規則な金属音を響かせている。ここは上層や中層から「不要」として投棄されたガラクタが堆積し、命を繋ぐための非合法な取引が蠢く、奈落谷最大の闇市場だった。
榊弦(サカキ・ゲン)は、煤汚れた茶色の作業用革コートの襟を立て、うつむき加減に歩いていた。コートの下、彼の左腕は包帯で厳重に巻かれている。先のザックとの死闘で結晶化が肘の上まで進行した左腕は、今や完全に物理的な感覚を失い、凍てつくような冷気を放ち続けていた。息を吸うたびに肺の奥が微かにきしむ。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
調律所の奥では、命の盾となって大破した自律魔導人形「ノア」が眠っている。そして何より、肺の石化病を患う妹・結衣(ユイ)の病状を安定させるための魔薬が、あと数日分しか残っていないのだ。
「おい、弦。本当に生きてやがったか。ザックの振動カッターを素手で粉砕したって噂は、本当だったらしいな」
山積みにされた真鍮の歯車と壊れた測定器の奥から、低く濁った声が響いた。ギルだ。怪しい色ガラスの眼鏡を指先で押し上げ、太った体躯を揺らしながら、彼は錆びた天秤の上の金貨を数えていた。
「ギル。ノアの修復に必要な中層の演算チップのジャンクと、結衣の薬用のエーテル結晶……在庫はあるか」
弦は無駄な挨拶を省き、懐から数枚の「魔力配給コイン」を取り出してテーブルに置いた。コインの中央に埋め込まれた簡易魔導スロットは、残り少ないエーテルで弱々しく青く光っている。スラムの住民が泥にまみれて働いてようやく得られる、血の滲むような生活の糧だ。
「おいおい、勘弁してくれよ、心臓医」
ギルは首を横に振り、コインを指先で弾いた。「中層の演算チップがどれだけ貴重か分かって言ってるのか? バルザックの検問が厳しくなってから、密輸ルートの通行料は3倍だ。その安物コインじゃ、チップの足元にも及ばねえよ」
「頼む。ノアのコアを再起動しなければ、半分溶けた計画書の暗号が解けない。バルザックが仕組んでいる魔力炉暴走の計画を止めるには、どうしてもノアの演算能力が必要だ」
弦が冷徹な瞳でギルを見据えると、ギルはため息をつき、色ガラスの眼鏡を外した。その瞳には、強欲な商人としての顔の裏に、スラムの破滅を恐れる一抹の人間味が覗いていた。
「……お前には勝てねえな。分かったよ。上層から落ちてきた軍用規格のジャンクチップがある。演算領域が半分焼き切れてるが、お前の技術なら修復してノアに適合させられるはずだ。金貨十枚……いや、今回はお前のツケにしてやる。だが、結衣の薬代だけは、どうにもならねえ。あれは中層の温室でしか栽培できねえ『エーテル結晶の花粉』だ。俺の手元にもねえよ」
その時だった。錆通りの入り口から、住民たちの悲鳴と、軍靴が鉄板を踏み鳴らす重々しい音が響き渡った。
「おい! 隠れろ! 監理局の『猟犬』どもだ!」
ギルの表情が一瞬で強張った。彼は素早く真鍮の隠し扉を開け、弦を押し込もうとした。しかし、弦の「絶対聴覚・レベル1」は、すでにその足音の主を捉えていた。細く、不規則に引きずるような足音。そして、大気を切り裂くような金属的な「キィィン」という、魔力を強制的に吸引する不快な高周波。
「地下監理局・徴税課長、ヴィクター……」
弦は身を潜めず、路地の影から様子を伺った。黒い外套を羽織り、鷹のような鋭い目を持つ痩せこけた男が、数人の武装警備兵を従えて歩いてくる。その手には、不気味な鈍い光を放つ「徴税の真鍮杖」が握られていた。
「監理局法第十二条『私的調律の禁止』、および徴税法に基づき、未納分の魔力使用税を即座に徴収する」
ヴィクターは冷酷な声を響かせ、路地裏の長屋の前に立った。そこは、スラムの配管修理で生計を立てている貧しい老配管工の家だった。ヴィクターは「徴税の真鍮杖」の先端を、長屋の壁から伸びる家庭用の魔力供給配管へと容赦なく押し当てた。
「や、止めてくれ! 今月は地盤沈下で仕事がなくて、コインが払えないんだ! その配管を抜かれたら、病気の妻が寒さで死んでしまう!」
老人が床に這いつくばり、ヴィクターの靴にしがみついた。だが、ヴィクターは眉一つ動かさず、その老人の手を冷酷に踏みにじった。
「支払えない者は、都市のエネルギーを消費する資格はない。これは規則だ」
ヴィクターが真鍮杖に魔力を込めると、杖の先端から青い法規のグリフ(魔力封印の術式)が放たれ、配管の内部圧力を急速に「逆位相」へと反転させ始めた。配管内のエーテルが、ゴボゴボと音を立てて杖の内部へと強制的に吸い取られていく。長屋を温めていた簡易ヒーターの光が、瞬く間に消え、室内の気温が急速に氷点下へと下がり始めた。
ギルが焦って懐から数枚の金貨を取り出し、ヴィクターの前に差し出した。
「ヴィクター様! これで、これで今回は見逃してやってください! 老い先短い老人です、凍死させるのはあんまりだ!」
だが、ヴィクターはその金貨を冷たく見下ろし、真鍮杖の先端で泥の中に踏みにじった。
「非公式な金貨など、監理局の帳簿には記載できん。私が欲しいのは、公式な魔力配給コインか、あるいは……その命だ」
ヴィクターの冷酷な視線が、路地の奥へと移動した。その先にあるのは、榊調律所――結衣が病床に伏し、ノアが眠る、あの廃棄バルブ「第44デッド・バルブ」へと繋がる魔力幹線だった。
「あの区画、未認可の魔力逆流反応が検出されているな。私的調律の疑いがある。すべての配管を強引に引き抜き、魔力を全量没収しろ」
ヴィクターが真鍮杖を弦の工房の幹線配管へと向け、手をかけようとしたその瞬間。弦の冷徹な瞳に、底知れぬ激しい怒りの炎が宿った。
弦は一歩踏み出し、右手の「振動減衰手袋」を固く締め直した。感覚のない左腕を庇いながらも、彼の右腰から「音叉スパナ」が引き抜かれ、鈍い真鍮の光を放った。
「――そこまでだ、徴税官」
弦の低い声が、錆通りの静寂を切り裂いた。
「何だ、貴様は? ……ほう、その結晶化した左腕、そしてそのスパナ。貴様がバルザック査察官の追う『心臓医』か」
ヴィクターが鷹のような目を細め、真鍮杖を弦へと向けた。「ちょうどいい。違法調律の現行犯として、その結晶骨ごと没収してやる。者ども、捕らえろ!」
ヴィクターの部下である二人の重装警備兵が、魔導警棒を構えて弦へと突撃してきた。警棒の先端からは、高圧の電撃がパチパチと音を立てて放たれている。
弦は「絶対聴覚・レベル1」を極限まで研ぎ澄ました。警棒が空気を引き裂く物理的な速度と、その内部を流れる魔力のスパーク音。弦は身を翻し、警棒の直撃を紙一重で回避すると、「振動減衰手袋」をはめた右手で、一人目の警備兵の腕を掴んだ。
「――アース(接地)」
警棒から放たれた高圧電流が手袋の防振プレートを通り、弦の肉体を傷つけることなく、足元の真鍮配管へと青い稲妻となって一気に逃げていく。警備兵が驚愕した隙に、弦は「音叉スパナ」をもう一人の警備兵の魔導警棒の接続端子へと直接叩きつけた。
「キィィン!」
スパナから放たれた超高周波の共振波が、警棒内部の魔導回路を直撃し、端子を瞬間的にショート・自爆させる。激しい火花とともに警棒が弾け飛び、警備兵は悲鳴を上げて後退した。
「小癪な配管工め!」
ヴィクターが激昂し、「徴税の真鍮杖」を地面に突き立てた。杖の先端から、対象の魔力を強制的に凍結・封印する巨大なグリフが、青い光の鎖となって弦の足元から這い上がってくる。
弦は直接魔法で対抗することはしなかった。彼は足元を通る巨大な排水管のバルブの位置を「脳内3D配管マッピング」で完全に把握していた。弦はスパナをバルブのボルトに引っ掛け、自身の結晶化した左前腕の重みを乗せて、一気にバルブを緩めた。
「ウォーター・ハンマー、解放」
配管の内部圧力が一気に逆流し、バルブの隙間から、高熱の汚水と蒸気が「ドシュゥゥッ!」と凄まじい勢いで噴き出した。噴き出した黒い汚水の濁流が、ヴィクターが展開しようとしていた魔術グリフの金属製端子(真鍮の接地点)を物理的に濡らし、瞬間的に錆びつかせて回路を破綻させた。青い光の鎖は、弦の足元に達する前に霧散した。
「な、何だと!? 都市のインフラを武器にするなど、正気の沙汰ではない!」
ヴィクターが蒸気の壁に視界を奪われ、狼狽する。弦はその隙を見逃さず、蒸気の煙を抜けてヴィクターの目の前へと肉薄した。
弦の「絶対聴覚」は、ヴィクターが持つ「徴税の真鍮杖」の内部構造を完全に捉えていた。その杖は、配管内の圧力を『逆位相(マイナス圧)』にすることで魔力を強制吸引している。ならば、その吸引の瞬間に、完全に真逆の『正位相(極限の高圧)』の衝撃波を送り込めばどうなるか。答えは一つ――内部回路の自爆だ。
「ヴィクター。その杖は、もう吸い込めない」
弦は「音叉スパナ」を、ヴィクターが握る真鍮杖のコア部分へと、正確無比に叩きつけた。
「キィィィィン――!」
スパナから放たれた極限の正位相衝撃波が、真鍮杖の逆位相吸引と正面から衝突した。杖の内部で魔力の波形が異常干渉を起こし、臨界点に達したエーテルが、ヴィクターの手の中で凄まじい爆音とともに自爆した。
「ぎゃああああああッ!」
青い爆炎が散り、ヴィクターの「徴税の真鍮杖」は粉々に砕け散った。そして、爆発の強烈な物理衝撃は、杖を握っていたヴィクターの右手の骨を、内側から容赦なく粉砕した。ヴィクターは ruined された手を抱え、泥の中に転がり込んで絶叫した。
「あ、熱い! 私の手が、私の手がぁぁッ!」
弦は血の滲む口元を拭い、冷徹な目でヴィクターを見下ろした。自身の左腕の結晶化がさらに数ミリ上腕へと進行し、心臓の鼓動が激しく波打っている。だが、老配管工の家庭の生命線は守られた。
ヴィクターは泥にまみれ、苦痛に顔を歪めながら、残された左手で弦を指差した。その瞳には、恐怖を通り越した凄まじい憎悪が宿っていた。
「榊弦……貴様、私に、監理局の執行官に手を上げたな……! お前のその無許可調律は、すでにバルザック査察官の逆鱗に触れている! 今日からお前は、この都市の『国家反逆罪』の逃亡者だ! スラムのどこに隠れようとも、必ず引きずり出して処刑してやる!」
ヴィクターの悲鳴のような叫びとともに、遠くから重装甲の治安維持部隊の足音が響き渡り始める。弦は「音叉スパナ」を固く握り直し、迫り来る闇を見つめた。日常は完全に砕かれ、もう後戻りはできない。国家権力という名の、巨大な怪物との戦いが、今、幕を開けたのだ。
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