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鉄鼠の急襲、砕かれた日常

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奈落谷(アビス・ヴァレー)の夜気は、骨の芯まで凍てつかせるほどに冷たい。

 榊弦(サカキ・ゲン)は、煤汚れた茶色の作業用革コートのポケットの中で、半分酸で溶けかけた極秘計画書を強く握りしめていた。そこには、地下監理局の上席査察官バルザックの公印と、スラムを事故に見せかけて完全に埋め立てるための冷酷なシミュレーションデータが、確かに刻まれていた。


「あの男……スラムの数百万の命を、ただの老朽化した配管のゴミと同じように処理するつもりか」


 弦は無口な声を暗闇に吐き出した。吐き出した息が白く凍り、消えていく。

 左腕の結晶化は、先ほどキースの魔術ロックを無理やりアース(接地)して粉砕した代償により、前腕の半ばを超えて肘の上へと確実に浸食を広げていた。お蘭に処方された「特製グリーン・オイル」の効力で辛うじて激痛は和らいでいるものの、皮膚の下で「ピキピキ」と結晶が成長していく不気味なきしみ音は、弦の「絶対聴覚」にはっきりと届いていた。残された時間は、決して多くない。


 一刻も早く工房に戻り、この計画書のデータを魔導人形ノアの演算コアを使って完全に復元しなければならない。弦が歩を早め、自身の拠点である「榊調律所」――巨大な廃棄バルブ「第44デッド・バルブ」を改造した工房へと近づいた、その時だった。


「――キィィィィン!」


 鼓膜を直接針で突き刺すような、不快極まりない金属の高周波音が、暗い路地の奥から響いてきた。弦の「絶対聴覚・レベル1」が、その音が自身の工房の内部から発生していることを瞬時に捉える。


「タク……! 結衣……!」


 弦の脳裏に、最悪の予感が走った。不法投棄の失敗と証拠の漏洩を察知したバルザックが、口封じのために動き出したのだ。弦は工具箱を握りしめ、影のように路地を駆け抜けた。


 半開きの鉄扉の隙間から、調律所の凄惨な光景が目に飛び込んできた。

 工房の真鍮壁は、まるで巨大な獣の爪で切り裂かれたように、無残に何本もの裂傷を刻まれて火花を散らしている。薄暗い室内を支配していたのは、両腕に高周波の振動カッターを移植した男――鉄鼠団の斬り込み隊長、ザックだった。その背後には、魔導義眼を怪しく光らせる首領バートンが、腕を組んで冷酷に笑っている。


「おいおい、お目当ての『心臓医』は留守か? だが、この病気の人形(むすめ)と、ガキを人質にすれば、嫌でも這い出てくるだろうよ」


 ザックが狂気的な笑みを浮かべ、両腕のカッターを激しく共振させた。その刃が、奥のベッドで青白い顔をして横たわる結衣(ユイ)へと向けられる。


「結衣お姉ちゃんには……指一本触れさせない!」


 一番弟子のタクが、恐怖に小刻みに震えながらも、弦の使い古した「真鍮スパナ」を両手で構えて立ちはだかっていた。12歳の少年の細い腕では、ザックの放つ圧倒的な殺気を防ぐことなど到底不可能だった。


「うるさいハエめ。配管の錆と一緒に消えろ!」


 ザックが右腕を振るう。カッターの刃先から、目に見えない空気の歪み――「高周波音波刃(ソニック・ブレード)」が放たれた。真空の刃が、タクの胸元へ向かって容赦なく殺到する。


「危ない!」


 タクが反射的に手元のスパナを投げつけてザックの気を引こうとしたが、音波刃の凄まじい風圧の前にスパナは一瞬で弾き飛ばされた。タクの小さな体は衝撃波の余波だけで壁へと激しく叩きつけられ、そのまま意識を失って崩れ落ちた。


「タク……!」


 ベッドの上で結衣が悲痛な声をあげる。ザックは冷酷な笑みを浮かべ、再びカッターを振り上げた。今度は、結衣のベッドそのものを切り刻む軌道だった。


 だが、その刃が結衣に届く前に、一つの巨大な影が割り込んだ。真鍮と錆びた鉄板で継ぎ接ぎされた自律魔導人形、ノアだった。ノアは言葉を発しない。ただ、その一つ目のレンズを結衣を守るように赤く発光させ、両腕を広げてベッドの前に立ち塞がった。


「ギィィ、ガガガガッ!」


 ザックの高速二刀流カッターが、ノアの生体金属ボディを容赦なく切り刻んだ。激しい火花が散り、ノアの装甲が紙細工のように切り裂かれていく。真鍮の破片が床に飛び散り、内部の魔導回路がむき出しになってショートを繰り返す。それでもノアは一歩も引かなかった。結衣の盾となり、その細い生体金属の体をボロボロに破壊されながら、ノアはただ、主人の妹を守るというプログラム――いや、その胸の奥の意志を貫いていた。


「このガラクタ人形が! 邪魔をするな!」


 ザックが狂ったようにカッターの振動数を引き上げ、ノアの胸部装甲を深く突き刺した。ノアのレンズの光が、弱々しく点滅し始める。


「そこまでだ」


 冷徹極まりない、しかし怒りに満ちた声が、工房の入り口から響いた。


 扉を蹴り開けて立っていたのは、榊弦だった。彼の瞳は、かつてないほどの激しい静かな怒りで青く燃え上がっていた。


「弦のアニキ……!」

 バートンが義眼を細めた。「待ちわびたぜ、心臓医」


「ノア、よく守った。あとは俺がやる」


 弦は倒れかけたノアを優しく支え、ベッドの脇へと退かせた。ノアのレンズは、主人の姿を確認すると、静かにその光を消して活動を停止した。ボディの70%が物理的に破壊され、胸部のメイン基盤が完全に露出している。弦の胸の奥で、何かが完全に弾けた。


 弦は右腰の「音叉スパナ」を引き抜き、結晶化した左腕の硬度を確かめるように、スパナで自身の左前腕を軽く叩いた。「キィィン」と、澄んだ、しかしどこか悲壮な共鳴音が響き渡る。


「下層のゴミめ、その錆びたスパナで何ができる!」


 ザックが両腕のカッターを交差させ、超高速の突撃を仕掛けてきた。その刃は、弦の生身の右半身をズタズタに引き裂く軌道を描いていた。


 弦は革コートの胸元に仕込まれた「緊急バイパスバルブ」の真鍮レバーを、迷わず手動で一気に引き下げた。


「緊急排気噴射(エキゾースト・ダッシュ)!」


 弦の背中から「ドシュゥゥッ!」と青い爆音とともに、超高圧の余剰魔力ガスが一気に噴射された。強烈な推進力が弦の体をロケットのように前方に押し出す。ザックが驚愕する暇もなく、弦はガス煙を囮にして一瞬でザックの懐へと潜り込んだ。


「死ねぇ!」


 ザックが反射的に、両腕のカッターを弦の首元へ向かって振り下ろす。超高周波の刃が、弦の皮膚に迫る。


 弦は、物理的な受け流しを完全に諦めた。彼は、感覚を失い青く光る「骨格同調度・初期」の結晶化した左手を真っ直ぐに突き出し、ザックの激しく振動するカッターの刃を、素手で直接鷲掴みにしたのだ。


「なっ……正気かお前は! 手が細切れになるぞ!」


 ザックが叫んだ。しかし、肉が裂ける音は聞こえなかった。聞こえてきたのは、金属同士が激しく摩擦し合うような、不気味なきしみ音だった。


 弦の左腕は、すでに生身の肉ではない。都市生命体ガイアの細胞と同じ構造を持つ、頑強な魔導石の結晶だった。弦は「等価交換・衝撃吸収の法」を起動し、カッターが放つ破壊的な高周波振動を、左腕の結晶骨を通じて自身の肉体内へと直接アース(接地)させ、吸収した。骨髄を直接凍った針で掻き回されるような、凄まじい激痛が弦の全身を駆け抜ける。弦の口元から、微かな血が溢れた。


「――ぐ、おおおおおッ!」


 弦は怒号とともに、左腕に蓄積したその莫大な振動エネルギーを、右手に握りしめた「音叉スパナ」へと一気に逆流させた。スパナが、耐えきれないほどの青い光を放って激しく共鳴する。弦はそのスパナを、ザックのカッターの金属基盤へと直接叩きつけた。


「共振破断」


 弦が呟いた瞬間、ザックのカッターの振動数が、弦の送り込んだ逆位相の周波数と衝突した。金属の分子結合が瞬間的にゼロになり、ザックの両腕に移植されていた振動カッターが、内側から激しい爆音とともに粉々に自爆・飛散した。


「ぎゃああああああッ! 俺の、俺の腕がぁぁッ!」


 両腕から鮮血を噴き出し、ザックが絶叫しながら後退する。だが、弦の攻撃はまだ終わっていなかった。弦はさらに一歩踏み込み、スパナで自身の結晶化した左前腕を強く叩いた。蓄積された全ての高周波エネルギーが、弦の左拳の先端へと一瞬で集中する。


「骨格振動弾!」


 弦の青く発光する左拳が、ザックの胸部へと叩き込まれた。「ゴォォン」と、巨大な寺院の鐘が鳴り響くような重低音が工房内に轟く。衝撃波はザックの肉体を通り抜け、背後の真鍮壁へと浸透し、壁を丸く陥没させた。ザックは白目を剥き、一歩も動けずにそのまま床へと崩れ落ち、沈黙した。


「ひ、ぃ……っ!」


 バートンは、自身の右腕が一瞬で無力化される光景を目の当たりにし、その魔導義眼を恐怖に激しく揺らした。弦が、血の滲む口元を拭いながら、冷徹な目でバートンを一瞥し、一歩前へ踏み出す。


「これ以上、俺の日常を壊すなら……次はお前の義眼を自爆させる」


「く、クソが! 覚えてやがれ!」


 バートンはザックの巨体を肩に担ぎ上げ、脱兎のごとく工房から逃げ去っていった。鉄鼠団による榊調律所襲撃は、弦の命を削る執念の調律技術によって、辛うじて退けられたのだ。


 静寂が戻った工房の中で、弦は「音叉スパナ」を床に落とし、激しく咳き込んでその場に片膝を突いた。床に赤い鮮血が点々と散る。左腕を見つめると、結晶化は肘の上、さらに数センチ上腕へと浸食を進めていた。感覚を完全に失った左腕は、もはや冷たい石の塊のようだった。


「兄さん……!」


 結衣がベッドから這い出し、弦の体を必死に支えようとした。弦は生身の右手で妹の頭を優しく撫で、安心させるように微かに微笑んだ。


「大丈夫だ、結衣。タクを、お蘭のところへ……」


 その時だった。弦の背後で、活動を停止していたはずのノアの胸部から、不自然な光が漏れ出た。


「――システム・ガイア、排撃プロトコル、一時中断」


 ノアの裂けた胸部装甲の奥、むき出しになった頭脳コアが、青白く、そして見たこともないほど複雑な幾何学模様の光を放ち始めた。その光が紡ぎ出すのは、現在の魔導技術院が使用している規格化された魔導コードではなかった。それは、1000年前の古代の文字――都市生命体ガイアの「初期OS」と言語レベルで完全に一致する、伝説の『生体魔導コード』だった。


 青白い光が、半壊した工房の壁に、都市の真の神経網を模した巨大なホログラムを静かに投影し始める。弦は、その光を見つめたまま、言葉を失った。ノアの正体に隠された、都市創世の謎が、今、静かに目覚めようとしていた。

HẾT CHƯƠNG

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