泥に潜む毒、闇の不法投棄
「これは、ただの錆じゃない……」
奈落谷(アビス・ヴァレー)の湿った闇の中、榊弦(サカキ・ゲン)は手元を睨みつけたまま、低く呟いた。指先ですくい取った青黒い粘着物質は、生温かい真鍮の配管の上で、まるで生き物のように微かに脈動している。首にかけた「真鍮の魔導聴診器」のチェストピースを近づけると、耳元に「シュルシュル」という、魔導組織を壊死させる特有の不協和音が不気味に響いた。それは自然の錆ではなく、中層の化学プラントで精製された有毒な魔力廃液――「エーテルスラッジ」の揺るぎない証拠だった。
弦はそれを小さな試験管に収めると、使い古した工具箱を右手に提げ、奈落谷の最奥に位置する錆通りへと急いだ。目指すは、廃棄された地下監理局の救急コンテナを改造して作られた「お蘭の非合法クリニック」だ。
コンテナの重い真鍮製の二重扉を叩くと、中からツンとするエーテルと乾燥した薬草、そして微かな煙管の煙の匂いが漂ってきた。薄暗い室内には、魔力中毒による皮膚の石化に喘ぐ退職配管工たちが、粗末な簡易ベッドに横たわっている。
「夜分にすまない、お蘭(オラン)」
弦が声をかけると、部屋の奥から紫煙を燻らせた女性が姿を現した。お蘭――三十代半ばの、冷たい美貌と知的な瞳を持つ闇医師だ。彼女は弦の姿を見るなり、深くため息をついた。
「またその左腕を酷使したね、弦。言っておくけど、あんたの骨の結晶化は、もう引き返せない領域に入りかけてるんだよ」
お蘭は弦の左腕を掴み、袖を乱暴に捲り上げた。手首から前腕の半ばまで、皮膚が青く半透明な結晶――魔導石へと変化している。触覚は完全に失われ、触れると冷たい石の質感しかなかった。彼女は薬棚から「お蘭の特製グリーン・オイル」を取り出し、弦の結晶化した皮膚へと丁寧に塗り伸ばした。ツンとしたハーブの香りが、骨髄に染み渡るような鋭い激痛を一時的に和らげていく。
「結衣(ユイ)の様子はどうだ?」
「オイルの吸入で肺の石化病は一時的に落ち着いているよ。だけどね、根本的な環境が変わらなきゃ、あの子の肺は数ヶ月で完全に固まる。……それで、その試験管の中身は何だい?」
弦は、給水所のフィルターから回収した青黒いスラッジを差し出した。お蘭はそれを受け取り、銀のメスの先端に付着させてランプの光にかざした。彼女の美しい眉が、みるみるうちに険しく歪んでいく。
「……これは、中層の化学プラントから排出される極めて酸性の強い魔力廃液だよ。なぜこれが奈落谷の配管に?」
「給水所のろ過器がこれで目詰まりを起こしていた。誰かが意図的に流している。このまま放置すれば、ろ過配管は数日で完全に溶解し、スラム唯一の水源である『恵みの泉』が汚染される」
お蘭は煙管を強く吸い、吐き出した煙の向こうで弦を睨みつけた。
「恵みの泉が潰れれば、このスラムの数万人が急性魔力中毒で全滅する。……流出源を突き止めるつもりかい?」
「ああ。あの子たちの水を汚させるわけにはいかない」
弦は短く答えると、緑のオイルを塗り終えた左腕の袖を下ろし、再び工具箱を握りしめた。お蘭は彼の背中に向かって、警告するように言った。
「気をつけな。中層の奴らは、下層の人間を人間だと思っていない。邪魔者は、配管のゴミと同じように処理されるよ」
*
弦は「恵みの泉」へと繋がる暗黒の地下水道へと潜り込んでいた。周囲の肉壁には、都市生命体ガイアの「生の筋肉組織」が剥き出しになって露出しており、まるで巨大な胃袋の内部を歩いているかのような湿った熱気が立ち込めている。
「絶対聴覚・レベル1『配管の呼吸』」
弦は目を閉じ、三半規管のエーテル圧を周囲と同調させた。スラムの雑音が脳内で完全に消去され、周囲を走る無数の金属管を流れる液体の音だけが立体的に再構成される。「ドクン、ドクン」という都市の生体拍動の合間に、異質な「ドロドロ……」という重い流動音が聞こえた。汚水配管の裏に隠された、未認可のバイパス管から響く音だ。
弦は「真鍮の魔導聴診器」を肉壁に押し当て、音の発生源を辿った。生体組織が発する微かな悲鳴をヘルツ単位で解析しながら進むと、突然、前方の空間が開け、巨大な排水タービンのある廃棄区画へと出た。
そこには、防毒マスクを装着し、化学薬品で焼けただれた指先でバルブを操作する男がいた。闇の錬金術師、キースだ。彼の足元には、中層から引き込まれた太い導管から、青黒い酸性廃液が「恵みの泉」の水源へと容赦なく放流されていた。
「誰だ?」
キースが不気味な声で振り返った。弦の白銀に光るスパナを見るなり、彼はガスマスクの奥で嘲笑した。
「ふん、スラムの野蛮な配管工か。余計な首を突っ込むな。この廃液は、上層の偉いお方たちの『お掃除』の一環なのだよ」
「水源を汚すことは許さない。今すぐバルブを閉めろ」
弦が静かに「音叉スパナ」を構えると、キースは不敵に笑い、手元のレバーを全開にした。
「閉めろだと? ならば、お前の工具ごと溶かしてやろう!」
キースが操作する配管から、強酸性の魔力廃液が勢いよく噴き出し、弦に向かって放流された。弦は瞬時に「魔力バイパス構築術」を起動しようと、手近な真鍮管を接続しようとした。しかし、キースの廃液が持つ強烈な腐食力は、弦が差し出した予備の真鍮管を、触れた瞬間からドロドロに溶かしてしまった。
「無駄だ! 中層の最新鋭の酸性エーテルは、お前たちの安物の真鍮など一瞬で分解する!」
廃棄区画に有毒な酸性ガスが充満し始める。弦は「振動減衰手袋」をはめた右手で顔を覆い、盾とした。視界が遮られる中、弦は「絶対聴覚」だけを頼りに、配管の振動が最も安定している「波の節(動きが最も小さい部分)」を特定した。
弦は工具箱から、極めて希少な魔力沈殿防止剤「青い潤滑油」を取り出し、破裂寸前のバルブの隙間へと直接注入した。青い油分が酸性廃液と接触した瞬間、激しい中和反応が発生し、配管内部の圧力が一時的に沈静化する。
「小癪な真似を……! ならば、配管ごとロックしてやる!」
キースが不気味な呪文を唱えると、バルブに強力な魔術的ロックが施され、手動での操作が完全に不可能となった。力任せの解除は通用しない。
弦は冷徹に状況を分析した。この配管は中層の規格品だ。ならば、流体力学的な「逆流防止弁」の設計上の盲点がある。弦は力任せの解除を諦め、「等価交換・衝撃吸収の法」を起動した。
彼は感覚のない、結晶化した左手を直接ロックされたバルブへと押し当てた。配管から伝わる破壊的な魔力のキックバックが、弦の左腕の結晶骨を通じて彼の全身へとアースされる。骨髄を突き刺すような、凍りつく激痛が弦の肉体を襲った。左腕の青い結晶が「ピキピキ」と音を立てて強く発光し、ロックの魔術回路を強制的にオーバーロードさせて粉砕した。
「な、何だと!? 生体アースだと!? 正気かお前は!」
キースが驚愕する隙に、弦は「排水タービン強制同期法」を起動した。廃棄区画の壁に設置された、魔力炉の巨大な排熱タービン。弦は「音叉スパナ」でタービンの操作レバーを強く叩いた。「キィィン」という澄んだ共鳴音が、タービンの「ヒュゥゥン」という回転音と完全に同期する。
弦がレバーを一気に逆方向へと引き倒した瞬間、巨大なタービンが凄まじい音を立てて逆回転を始めた。気圧の急激な変化により、配管内部の流動圧が完全に逆転する。
「しまっ――」
キースが叫ぶよりも早く、水源へ流れ込んでいた青黒い有毒廃液が、もの凄い勢いで導管を逆流し始めた。逆流した廃液は、キースが操作していた制御盤と彼の隠れ家プラントへと逆流し、バチバチと激しい火花を散らしながら、彼の設備を内側からドロドロに溶かして自爆させた。
「ぎゃあああ! 俺の、俺の精錬炉が!」
キースは酸性の泥を浴びながら、這う這うの体で闇の奥へと逃げ去っていった。恵みの泉への廃液の不法投棄は、弦の工学的な知略によって完全に阻止されたのだ。
しかし、弦はその場に片膝を突いた。左前腕を見つめると、結晶化の範囲が手首から前腕のさらに上部へと数センチ浸食し、皮膚の下の結晶組織が不気味に青く光っていた。骨髄を凍らせるような痛みが、引く波のように静かに、しかし確実に彼の命を削り取っていた。
弦は痛む腕を庇いながら、キースが逃げ去った制御盤の焼け跡へと近づいた。そこには、半分溶けかけた数枚の書類が残されていた。弦は生身の右手でそれを拾い上げ、目を細めた。
書類に刻まれていたのは、単なる廃棄の記録ではなかった。そこには、この不法投棄によって第1魔力炉の主要冷却配管を「意図的に目詰まり」させ、大事故(メルトダウン)を誘発するための詳細なシミュレーションデータが記されていた。そして、書類の末尾には、地下監理局の最高権威である「バルザック査察官」の極秘の公印が捺されていたのだ。
「……これは、事故じゃない。最初から、俺たちを殺すための計画だったのか」
弦の呟きは、不気味に脈動する生の肉壁の音の中に、冷たく消えていった。
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