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錆びた抵抗、給水所の異変

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アビス・パルスが収まった直後の夕刻、奈落谷は一時的な静寂を取り戻したかに見えた。しかし、それは束の間の、そして偽りの静寂に過ぎなかった。第壱魔力炉の異常振動は、下層の老朽化によるものではない。上層のレイス財閥が、下層の安全限界を無視して魔力を過剰に吸引し続けている。その冷酷な搾取の駆動音が、弦の「絶対聴覚」には地鳴りのように響き続けていた。


 弦がたどり着いたのは、奈落谷中央広場だった。ここは、巨大な配管が頭上で複雑に入り組み、常に薄暗い煤煙が滞留するスラムの心臓部だ。広場の中央には、住民たちの唯一の命綱である「給水所」が設置されている。都市生命体の骨格である石灰岩層によって奇跡的にろ過された真水が湧き出る場所だが、そのろ過システムを稼働させている魔力配管が、不気味な悲鳴を上げていた。


「おい! もっとバルブを締めろ! 圧力を逃がさないとろ過器が破裂するぞ!」

 下層配管工同盟の頭領である鉄蔵(テツゾウ)が、二メートル近い巨躯を揺らし、赤銅色の肌に汗を散らしながら叫んでいた。彼の部下たちが、のたうち回る配管を手動のジャッキで固定しようと必死に抗っている。しかし、配管の接合部からは、高熱の青いエーテルガスが「プシューッ!」と激しい音を立てて噴き出しており、人間を近づけさせない。


「どけ! 俺が力ずくで回してやる!」

 鉄蔵が愛用する百年前の魔導合金製ハンマー「砕鉄」を地面に置き、太い腕を剥き出しにして、高熱の蒸気が吹き出すメインバルブへと手を伸ばした。弦が「止めろ!」と叫ぶよりも早く、鉄蔵の頑強な手の平がバルブに触れる。その瞬間、激しい熱圧力が鉄蔵の皮膚を襲った。

「が、ああっ……!」

 ジュウ、と肉の焼ける嫌な音が響き、鉄蔵は苦悶の表情を浮かべて工具を弾き飛ばされた。彼の分厚い手の平には、高熱のエーテルガスによる激しい火傷が刻まれていた。力任せの物理的なアプローチでは、暴走する「レベル・イエロー(不協拍動)」の圧力を抑え込むことはできないのだ。


「おいおい、何をやっているんだ? 泥棒どもが」

 冷やかすような、だらしない声が広場に響いた。現れたのは、地下監理局の治安維持部隊に所属する下級警備兵、ダグラスだった。制服をだらしなく着崩し、酒臭い息を吐きながら、彼は腰に下げた「魔導警棒」をこれ見よがしに弄んでいる。


「ダグラス……! 何をしに来やがった!」

 鉄蔵が火傷を負った手を庇いながら、怒りに満ちた目で睨みつける。

「何って、職務尋問だよ。監理局法第十二条『私的調律の禁止』。認可を持たないゴミどもが、都市の主要インフラに触れることは重罪だ。まあ、見逃してやってもいいが……それには相応の『誠意』が必要だな?」

 ダグラスは親指と人差し指を擦り合わせ、不敵に笑った。住民たちの生活を人質に取り、賄賂を要求しているのだ。支払わなければ給水所の配管を強制的に封鎖し、スラムを干からびさせると脅している。


 鉄蔵は激昂して大鉄槌を握り直そうとしたが、弦がその前に静かに立ち塞がった。弦の目は、冷徹にダグラスを見据えていた。

「……その警棒、調子が悪いようだな」

 弦は無口な声を絞り出した。

「あんだと?」

「絶対聴覚・レベル1「配管の呼吸」」――弦の脳内で、周囲の雑音が完全にミュートされる。彼に聞こえるのは、ダグラスが持つ魔導警棒の内部に流れるエーテルの音だけだ。「ジジ、ジ……」と、不快な高周波のスパーク音が聞こえる。低純度な下層のエーテルで稼働しているその警棒は、電池パックの接続端子が赤錆で酸化し、接触不良を起こしていた。


 弦は右腰の「音叉スパナ」を取り出し、自身の結晶化した左手首を軽く叩いた。澄んだ「キィィン」という高周波の共鳴音が放たれる。弦はそのスパナの先端を、足元の給水配管へと押し当てた。

 共鳴振動が湿った床を伝わり、ダグラスが持つ魔導警棒の電池パックへと直撃する。その微細な振動は、警棒内部の酸化した端子を一時的に完全にショートさせた。バチチッと青い火花が散り、警棒の魔力インジケーターが完全に沈黙する。

「な、何だ!? 警棒が動かねえ!」

 ダグラスが困惑し、武器を何度も叩いている隙に、弦は鉄蔵に目配せをした。

「鉄蔵、バイパスを繋ぐ。バルブを三度緩めてくれ」

「お、おう! 任せろ!」


 弦は右手に「振動減衰手袋」をはめ、左手の結晶化した腕で、のたうち回る高圧配管を直接掴んだ。「等価交換・衝撃吸収の法」――配管から伝わる破壊的な振動エネルギーが、弦の左腕の結晶骨へとアースされ、彼の骨髄を「ピキピキ」ときしませる。激痛が走るが、弦の指先は一ミリも狂わない。

 弦は「魔導配管応急パッチ術」を起動した。配管の亀裂に対し、真鍮のプレートを当て、スパナの超高周波振動でパテを瞬間的に硬化させる。さらに、鉄蔵が鋳造した特製の「真鍮製バイパス管」を、高圧幹線の分岐点へと一気に接続し、ボルトを高速で締め付けた。


「――流せ!」

 弦の合図とともに、鉄蔵がバルブを開放する。バイパス管へと魔力流が「ドクン!」と流れ込み、ろ過器にかかっていた異常な圧力が一気に安全な生活配管へと逃がされた。 Spewing していた高熱のエーテルガスが「フシュー……」と静かに収まり、ろ過器のインジケーターが安定した緑色の光を取り戻す。真水が、再び給水所の蛇口から流れ落ちた。


「……直ったぞ! 水が出た!」

 住民たちから歓声が沸き起こる。配管工同盟の男たちは、弦の鮮やかなスパナ捌きと、痛み一つ見せずに衝撃を吸収したその覚悟に、畏怖と深い信頼の目を向けた。


 ダグラスは再起動しない警棒を握り締め、顔を真っ赤にして弦を指差した。

「お前……! 顔は覚えたからな! 無許可調律のテロリストめ、監理局に逆らったことを後悔させてやる!」

 そう捨て台詞を吐き、ダグラスは部下を引き連れてスラムの闇へと逃げ帰っていった。鉄蔵が弦の肩を叩く。

「助かったぜ、弦。お前がいなきゃ、今頃この広場は吹き飛んでた。だが、あいつらには完全にマークされちまったな……」

「気にするな」

 弦は短く答え、ろ過器の配管の底に溜まったフィルターを取り外した。バイパスを繋いだ際、流速の変化によって配管内部から剥がれ落ちた『沈殿物』が、フィルターの網目に不自然に付着していたからだ。


 弦はその青黒く光る粘り気のある沈殿物を、右手の指先ですくい取った。微かに鼻を突くのは、金属の錆ではない、鼻を刺すような人工的な化学薬品の匂いだ。「絶対聴覚」をその物質に向けると、不気味な「シュルシュル」という、魔力を強制的に壊死させる周波数の雑音が聴こえてきた。

 弦の表情が、冷徹に凍りつく。

「これは、ただの目詰まりじゃない……」

 それは、自然発生した錆や不純物ではなかった。中層の化学プラントから意図的に流され、配管を「動脈硬化」させて暴走を誘発するための、高度に精製された有毒廃液の痕跡だったのだ。誰かが、このスラムの命綱を内側から腐らせようとしている。新たなる巨大な陰謀の兆候が、弦の脳裏に冷たく突き刺さった。

HẾT CHƯƠNG

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