臨界の深淵、鎖された安全弁
奈落谷(アビス・ヴァレー)の最底辺、熱死寸前の大気が渦巻く縦坑を、榊弦(サカキ・ゲン)はただ一人、這い降りていた。
一分間に二百四十拍。耳を劈くような金属的な不協和音――「レベル・レッド(メルトダウン臨界)」に達した第壱魔力炉の異常拍動が、鉄錆と湿気を含んだ肉壁を伝って、弦の全身の骨を激しく揺さぶる。肺石化病の進行による冷たい痛みが、息を吸い込むたびに胸の奥で鋭く弾けた。思わず漏れた微かな咳には、鉄の味が混じっている。背負った「代償」は、確実に彼の肉体を蝕んでいた。
「――残り、八分か」
弦は、生身の右手に握られた『ポータブル魔力圧力計』の明滅する紫色を見つめた。液晶画面に表示されるカウントダウンは、無慈悲に減少し続けている。グレイとの死闘で真っ二つに裂けた『真鍮の音叉シールド』は、その半分が失われ、今は壊れた残骸となって弦の左腰に辛うじて引っかかっているだけだった。そして、彼の左腕は、肘上から肩の直前までが完全に青い半透明の結晶と化し、重い石の彫像のように一切の感覚を失っていた。
だが、弦の瞳に宿る冷徹な炎は、いまだ消えてはいなかった。彼は首元の『真鍮の魔導聴診器』に生身の右手を添え、暗黒の縦坑の奥底へと視線を向けた。目指すは、第壱魔力炉の心臓部にして、都市生命体ガイアの第一大動脈が露出する禁足地――『創世の楔・第壱観測所』だ。
足元のハッチを潜り抜けた瞬間、視界が真っ赤な熱気に染まった。そこは『第1魔力炉廃棄坑』の最深部。周囲の壁面からは、沸騰した赤い魔力泥(廃棄スラグ)が音を立てて噴き出し、青い結晶光が明滅する暗流となって足元をかすめていく。触れれば瞬時に肉体が炭化する死の泥流。その中央を一本の太い真鍮配管が貫き、その先にある冷却安全弁へと繋がっていた。
しかし、その安全弁の前に、人影が立っていた。頑強な体躯に、地下監理局の黒い軍服を隙なく着こなした男――第1魔力炉警備主任、ギリアム少佐だ。男の傍らには、冷却バルブを雁字搦めに縛り付ける、異様に太い物理チェーンと巨大な真鍮製の南京錠が掛けられていた。バルザック査察官の命令を忠実に実行し、魔力炉の熱崩壊を物理的に「不可避」にするための、冷酷な鉄鎖だった。
「そこまでだ、榊弦」
ギリアムが冷徹な声を発すると同時に、その両腕に抱えられた長銃身の魔導ライフルが、弦の胸元へと向けられた。その銃身に埋め込まれたスロットから、澄んだ、しかし凶暴な高周波の駆動音が響く。中層のレイス財閥から極秘裏に供与されたとされる、極めて不純物の少ない「高密度エーテル結晶」を動力源とした最新鋭の兵器だった。
「バルザック査察官の絶対命令だ。この魔力炉の暴走は、都市の『自浄作用』として完遂されねばならない。下層のドブネズミ一人の悪あがきで、計画を狂わせるわけにはいかないのだ」
ギリアムの指がトリガーにかかる。廃棄坑の熱気と蒸気により、視界は最悪だった。だが、軍人としての訓練を受けたギリアムの射線は、一分の狂いもなく弦の眉間を捉えていた。
(来る――)
弦は「絶対聴覚・レベル1「配管の呼吸」」を極限まで研ぎ澄ました。周囲を流れる魔力泥の沸騰音、頭上の配管のきしみ音を脳内で完全にミュートし、ギリアムの魔導ライフルの内部機構が発する微細な「音」だけに意識を集中する。エーテルが薬室に充填される高音のスパーク音、そしてシリンダーが回転する「カチリ」という金属音。発射まで、あと零点一秒。
「――脳内3D配管マッピング、展開」
弦は目を閉じ、廃棄坑内を走る数千本の配管が奏でる音の反響から、周囲の立体構造を脳内に完璧に再現した。ギリアムの立つプラットフォーム、射線上の障害物、そして蒸気ダクトの位置。弾丸の軌道が、青い光の線となって弦の脳裏に描かれる。右へ三センチ。
ズドン! と、廃棄坑の空気を震わせて、高圧魔力弾が放たれた。弦は弾丸が放たれる直前に頭部を僅かに傾け、弾丸は彼の耳元をかすめて背後の鉄壁に炸裂した。衝撃波が弦の頬を鋭く切り裂き、赤い血が滴り落ちる。
「……避けたか。だが、次はどうだ?」
ギリアムは表情を崩さず、ボルトを引いて次弾を装填した。連続する精密な射撃が、弦の進路を完全に封鎖する。廃棄坑の狭い足場では、物理的な回避には限界があった。一歩でも踏み外せば、足元の煮えたぎる魔力泥へと滑り落ちる。
(直接、防ぐしかない)
弦は左腰に手を伸ばし、グレイとの戦闘で真っ二つに裂けた『真鍮の音叉シールド』の残骸――辛うじて原型を留めている半分の真鍮板を、感覚のない結晶化した左腕で無理やり前方に掲げた。そして、右手の『音叉スパナ(チューニング・スパナー)』を、その盾の裏面に激しく叩きつけた。
「キィィィィン――!」
シールドの壊れた共鳴音叉から、歪んだ、しかし強烈な高周波の共鳴障壁が前方に展開された。直後、ギリアムの放った第二弾が障壁に激突した。激しい金属火花が散り、衝撃波が廃棄坑内に吹き荒れる。弦の掲げたシールドの残骸は、その衝撃に耐えきれず「パキン」と甲高い音を立てて完全に粉砕され、真鍮の塵となって空気中に霧散した。
「ぐ、うぅっ!」
相殺しきれなかった電撃と衝撃エネルギーが、弦の右腕へと逆流した。生身の右腕の筋肉が一瞬にして激しく麻痺し、指先からスパナが滑り落ちそうになる。右手の甲の結晶化斑点に鋭い激痛が走り、弦の身体が大きくよろめいた。ギリアムはその隙を見逃さず、第三弾の照準を弦の胸元へと合わせた。
(この距離では、狙撃を完全に回避し続けることは不可能だ。一気に懐に潜り込む……!)
弦は、右腰の工具帯に仕込まれた『緊急バイパスバルブ』の真鍮レバーを、麻痺の残る右手で半押しにした。コートの背面に設置された排気口から、高圧の余剰魔力ガスが一気に噴き出す。
「緊急排気噴射(エキゾースト・ダッシュ)――!」
ドシュゥゥッ! という青い爆音とともに、弦の身体はロケットのように前方の路地裏へと超高速で滑り込んだ。同時に、噴射された高熱の蒸気煙が、廃棄坑内の赤い熱気と混ざり合い、視界を完全に遮る巨大な煙幕となってギリアムの視界を奪った。ギリアムの放った第三弾は、弦が先ほどまでいた空間の蒸気を虚しく切り裂き、背後の真鍮管に大穴を開けた。
「煙幕か……。だが、この狭い廃棄坑でどこへ逃げる?」
ギリアムはライフルのセンサーを最大に引き上げ、蒸気の向こうを探知しようとした。しかし、その時、彼の足元の排水ダクトから、鋭い金属の摩擦音が響いた。コテツがダクトの内部から、ギリアムの足元の蒸気バルブのボルトを命がけで緩めたのだ。プシューッ!と吹き出した高熱の排気蒸気が、ギリアムの防護ゴーグルを曇らせ、その姿勢を僅かに崩させた。
その一瞬の隙を、弦は見逃さなかった。蒸気の煙を突き抜け、弦はギリアムのプラットフォームへと飛び乗った。右手のスパナを振り上げ、ギリアムの魔導ライフルの冷却スロットへと直接叩きつける。
「カァン!」
弦の放った微細な共鳴振動は、ライフルの冷却サイクルを一時的に狂わせ、ジェネレーターに致命的な排熱エラーを引き起こさせた。安全装置が作動し、ライフルのインジケーターが赤く点滅して沈黙する。ギリアムは舌打ちをし、ライフルを捨てて腰の魔導ナイフを抜こうとした。だが、弦の目的はギリアムの殺害ではなかった。彼の視線は、南京錠で鎖された緊急停止バルブへと向けられていた。
「無駄だ、榊弦! その安全弁は物理チェーンでロックされている。いかなる魔術回路のハッキングも、その物理的な鍵の前には通用しない!」
ギリアムが叫び、ナイフを構えて突撃してくる。弦は、感覚のない結晶化した左腕を前に突き出し、ギリアムのナイフの突撃を物理的な盾として受け止めた。チィン!と鋭い音が響き、ナイフの刃が青い結晶の皮膚に弾かれる。衝撃が弦の左肩の関節に伝わり、ピキピキと微細なきしみ音が響いたが、弦は表情一つ変えなかった。
生身の右手に握られた『音叉スパナ』を、冷却バルブを縛り付ける太いチェーンの「接合リンク」へと正確に押し当てた。弦の絶対聴覚は、そのチェーンの金属分子が、魔力炉の異常振動によって特定の周波数で激しく疲労していることを聴き取っていた。共振ポイントは、四百四十ヘルツ。
「超高周波――バルブ解放!」
弦はスパナを自身の左腕の結晶骨に強く叩きつけ、極限の共鳴エネルギーをスパナの先端からチェーンへと一気に流し込んだ。キィィィィン――!という耳を劈くような高周波音が廃棄坑内に響き渡る。振動はチェーンの金属分子結合を内側から激しく揺さぶり、その結晶構造を一時的に極限まで緩めた。
弦がスパナを力強く振り下ろすと、南京錠を繋ぎ止めていた太い鉄の鎖が、まるで凍りついたガラスのように、音を立てて粉々に砕け散った。砕けた鉄の破片が赤い魔力泥の中に落ちて消えていく。ギリアムは驚愕に目を見開いた。
「物理的な鎖を……共振で粉砕したというのか……!?」
弦は麻痺の残る右手で巨大な真鍮バルブを掴み、力ずくで回した。ゴゴゴ……と鈍い音が響き、冷却タンクから超低温の「高圧冷却エーテルガス」が配管内へと一気に注入され始める。魔力炉の拍動が、僅かにその速度を落とそうとした。
だが、その瞬間、観測所の制御プラットフォームの奥から、不気味な拍手の音が響き渡った。パチ、パチ、パチ、と、乾いた音が廃棄坑の轟音に混ざる。
「素晴らしい。実に見事な調律だ、榊弦」
蒸気の向こうからゆっくりと姿を現したのは、完璧にアイロンが掛けられた黒い軍服を纏った男――地下監理局上席査察官、バルザック本人だった。彼の冷徹な細い目には、狂気的な笑みが浮かんでいた。その右手には、奇妙な真鍮製のデバイスが握られていた。中央で赤く点滅するインジケーター。それは、都市生命体ガイアの心臓部である『黄金の楔』に直接仕掛けられた、高周波爆弾の起爆スイッチだった。
「だが、そのバルブを回したところで、このスイッチ一つで全ては灰に帰す。さあ、調律を続けろ。お前がそのスパナを動かした瞬間、私はこの街の心臓を、跡形もなく吹き飛ばしてやろう」
バルザックの指が、赤い起爆ボタンへとゆっくりと掛けられた。メルトダウン臨界まで、残り五分。奈落谷の数百万の命の境界線は、今、一人の査察官の狂気的な指先に握られていた。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!