鋼鉄の包囲網、結晶の盾と拳
「ゴォン、ゴォン、ゴォン――!」
奈落谷(アビス・ヴァレー)の湿った大気を引き裂き、巨大な鋳鉄製の隔離ゲートが次々と閉鎖されていく。地盤沈下によって半壊した共同長屋の周囲は、一瞬にして逃げ場のない巨大な鉄の檻へと変貌した。立ち込める蒸気と煤煙の向こうから、ガチャガチャと重々しい金属音を響かせ、地下監理局の治安維持部隊が押し寄せてくる。
「開けろ! 監理局の犬ども! 俺たちをここに閉じ込めて殺す気か!」
鉄蔵(テツゾウ)が赤銅色の太い腕で大鉄槌『砕鉄』を握り締め、鉄のゲートを激しく叩きつけた。火花が飛び散るが、上層の強固な魔導合金で作られた防壁はびくともしない。スラムの住民たちは、赤ん坊を抱いた母親も、肺石化病に喘ぐ老人も、互いに身を寄せ合って恐怖に震えていた。彼らの背後では、液状化した地盤が「ゴゴゴ……」と不気味な音を立てて沈み続けている。
「無駄な抵抗だ、奈落谷の塵芥ども。この区域は『不可避の災害区域』に指定された。法規に基づき、直ちに完全封鎖を行う」
鉄のゲートの上部、監視バルコニーから見下ろすように姿を現したのは、青い重装甲魔導アーマーを纏った巨漢――警備隊長グレイだった。彼の顔の半分を覆う金属の補強プレートが、非常警報の赤い光を浴びて血のように鈍く光っている。その手には、高圧の衝撃波を放つ魔導重槌『グラビティ』が握られていた。
「バルザック査察官の命令だ。スラムの老朽化した『不要組織』は、ここで魔力泥とともに埋め立て処分とする。違法調律師、榊弦(サカキ・ゲン)――貴様もここで、その結晶化した骨ごとドブ泥の底へ沈むがいい」
グレイの冷酷な宣言に、住民たちの間に絶望が広がった。彼らは避難経路を完全に断たれ、魔力炉が暴走すれば、溶岩状の熱い魔力泥で生き埋めにされるのを待つしかないのだ。
弦は、広場の中央で静かに立ち尽くしていた。煤汚れた茶色の作業用コートの袖から覗く彼の右手――その手の甲の皮膚には、先ほどの空気ジャッキ構築の代償として、青い半透明の結晶の斑点が星のように浮き上がっている。冷たく、感覚を失った左腕はだらりと垂れ下がったままだ。肺石化病の進行による熱い血が喉の奥までせり上がってきたが、弦はそれを無言で飲み込んだ。
「弦……、俺たちが奴らの足を止める。お前はタクと結衣を連れて、配管の隙間から逃げろ」
鉄蔵が弦の肩を掴み、低い声で言った。男気溢れるその瞳には、自らが盾となって死ぬ覚悟が宿っていた。だが、弦はゆっくりと首を振った。
「……逃げても、スラムが埋め立てられれば、結衣の薬も、みんなの命も消える。直さなければならないのは、あのゲートではなく、この都市の循環そのものだ」
弦は右腰の工具帯から、使い古した『音叉スパナ』を引き抜き、左手に持っていた半壊した『真鍮の音叉シールド』を構えた。盾の表面には、前回の逃走劇で受けたグレイの重力波のひび割れが深く刻まれている。もう一度直撃を受ければ、この盾は確実に粉砕されるだろう。それでも、弦の瞳に揺らぎはなかった。
「ノア、住民をゲートの死角へ誘導しろ。タク、お前はコテツを抱いて、配管の圧力が逆流しないか監視を続けろ」
「ギギ……了解……」
右腕が焼き切れてだらりと垂れ下がったポーター人形ノアが、一つ目のレンズを赤く発光させ、傷ついた体で住民たちを守るように動き出した。タクは涙を拭い、魔導フェレットのコテツを抱きしめて頷いた。
「クソッ、生意気な配管工め! その薄汚いスパナで、私のグラビティを防げると思うな!」
バルコニーから飛び降りたグレイが、重装甲の質量を活かして床の鉄板を激しく踏み鳴らした。彼の纏う青い魔導アーマーから、激しい高周波の電気火花が散る。グレイは『グラビティ』を大きく振り上げ、弦に向かって突撃を開始した。
「圧殺してやる! 高圧重力プレス――!」
重槌が振り下ろされた瞬間、大気が物理的に圧縮され、弦の周囲の重力が数倍に跳ね上がった。地面の泥が一瞬で押し潰されてクレーター状に窪み、弦の膝が激しい重力圧できしみ始める。肺の奥が圧迫され、息を吸うたびに冷たい痛みが走る。呼吸が、できない。
(来る……。だが、あの槌が放つ重力波の波形は――)
弦は「絶対聴覚・レベル2『大地の悲鳴』」を極限まで研ぎ澄ました。周囲の雑音が消え、グレイの魔導アーマー内部のジェネレーターが唸る高周波の駆動音が、明確な数値データとして脳内に可視化される。槌の先端から放たれる破壊的な衝撃波の到達まで、あと零点二秒。
弦は『真鍮の音叉シールド』を正面に掲げ、その表面を『音叉スパナ』で激しく叩いた。
「キィィィィン――!」
シールドの3つの共鳴音叉から放たれた澄んだ高周波の振動壁が、迫り来る重力波と正面から衝突した。物理的な衝撃波同士が空中で激突し、激しい干渉ノイズとなって周囲の鉄板を震わせる。グレイの重力波は、弦の放った「逆位相の振動」によってその軌道を逸らされ、長屋の残骸へと流れていった。轟音と共に、瓦礫が木端微塵に粉砕される。
「ぐ、うぅっ!」
だが、相殺しきれなかった衝撃の余波が、弦の両腕を通じて全身の骨格へと突き刺さった。ひび割れていた真鍮のシールドが「パキン」と鋭い音を立てて真っ二つに裂け、弦の右手から滑り落ちた。右手の甲の結晶化斑点に、ピキピキと微細な亀裂が走り、激痛が脳髄を突き刺す。弦はたまらず片膝を突き、暗い赤濁の血を泥の上に吐き出した。
「ハハハ! 盾は壊れたぞ! これでもう、私の衝撃を防ぐ術はあるまい!」
グレイは勝利を確信し、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。彼は魔導アーマーの出力を最大に引き上げ、重槌『グラビティ』の先端から青い電撃を迸らせながら、弦の胸元を物理的に押し潰さんと近接突撃を仕掛けてきた。重槌の頭部が、弦の肋骨を内側から砕かんと迫る。
(……防ぐ必要はない。アース(接地)すればいい)
弦の脳内は、極限の激痛の中でも驚くほど冷徹だった。彼は、グレイの魔導アーマーが『スラムの湿った配管網』の上に直接立っていること、そしてそのアーマーの『重力減衰シールド』が、一定の排気サイクルで稼働していることを完全に把握していた。第6話で聴き取った「一瞬の排気サイクルの乱れ」――それは1.2秒ごとに発生する、シールドのエネルギー循環の継ぎ目(共振ポイント)だった。
「死ね、泥棒技師!」
グレイの重槌から放たれた、数万ボルトの青い雷撃が弦の胸元へと殺到する。常人であれば瞬時に炭化して即死するエネルギー。だが、弦は避けるどころか、自らの感覚を完全に失った「結晶化した左腕」を前に突き出し、その雷撃の直撃を直接、素手で掴み取った。
「強制接地(アース)――!」
バリバリバリッ! と、凄まじい閃光が弦の左腕を包み込んだ。しかし、その強烈な電撃は、弦の生身の肉体を通ることはなかった。電撃は、感覚のない青い結晶骨を通じて、弦の足元に敷設されたばかりの真鍮製バイパス配管へと、そのまま青い稲妻となって一気に流れ込んでいったのだ。床の鉄板がバチバチと火花を散らし、地下の導管が青い静電気で発光する。弦は、自身の crystallized された左腕を、文字通りの『アース棒』として機能させたのだ。
「な、何だと!? 電撃が……吸い込まれていく!?」
グレイが驚愕に目を見開いた。その瞬間、弦の絶対聴覚が、グレイのアーマーのシールドが熱を放出する「1.2秒の排気サイクル」のタイミングを正確に捉えた。今だ。
弦は、アースによって自身の左腕の結晶組織に一時的に蓄積された強大な魔力エネルギーを、一瞬で左拳の先端へと集中させた。そして、右手の『音叉スパナ』で、自身の結晶化した左腕を力強く叩きつけた。
「骨格共鳴――骨格振動弾(スケルトン・レゾナンス・バレット)――!」
キィィィィン――! と、これまでにない耳を劈くような超高周波の澄んだ共鳴音が、弦の左拳から放たれた。青い光を宿した弦の左拳が、グレイの魔導アーマーの胸部、シールドの排気スロットへと正確に叩き込まれた。
「ゴォォォォン――!」
まるで巨大な教会の鐘が内側から爆発したかのような、重厚な共振音が奈落谷に響き渡った。弦の拳から放たれた逆位相の高周波振動は、グレイの『重力減衰シールド』の共鳴周波数を内側から直接揺さぶり、シールドの内部回路を一瞬で分子レベルで粉砕した。防護を失った重装甲の青いプレートに、ピキピキと無数のひび割れが走り、一気に弾け飛んだ。
「が、はっ……あ、頭脳回路が……自壊する……!」
グレイは口から血を吹き出し、その巨躯を数メートル後方へと吹き飛ばされた。魔導アーマーは青い煙を吹いて完全に沈黙し、グレイは床に倒れ込んで動かなくなった。弦の放った『骨格振動弾』が、アーマーの物理的防御を完全に無力化し、グレイの体幹の骨格に強烈な脳震盪を与えたのだ。
「やった……! グレイを倒したぞ!」
鉄蔵が歓声を上げ、住民たちの間に奇跡的な救いの光が灯った。鉄蔵たちはすぐに、機能停止したグレイの横を通り抜け、隔離ゲートの手動開放バルブへと取り付いた。
しかし、弦はその場から一歩も動くことができなかった。彼の全身の骨が、まるでガラスで作られたかのように冷たくきしんでいた。ゆっくりと自身の左腕を見下ろす。手首までだった青い半透明の結晶化(石化)は、今回の強制接地と振動弾の凄まじい反動により、前腕を完全に覆い尽くし、肘の上、そして左肩の関節の直前まで一気に浸食を進めていた。
(感覚が……本当に、肩まで消えたな……)
左腕は完全に一本の「青い石の彫像」と化し、指先一つ動かすこともできない。体温が劇的に低下し、息を吸うたびに肺の奥が凍りつくように痛む。骨格同調度・中期への突入――人間としての寿命が、残り1年を切ったことを、弦の肉体は冷酷に告げていた。
その時、弦の右手に握られていた『ポータブル魔力圧力計』が、鼓膜を突き刺すようなけたたましい警告音を鳴り響かせた。液晶画面のインジケーターが、不気味な紫色――「レベル・レッド(メルトダウン臨界)」を指して点滅し始める。
「ピーーーーッ! 警告、炉内圧力限界突破。熱崩壊まで残り十分」
魔力炉の拍動が、一分間に二百四十拍という、耳を劈くような連続した衝撃音(アビス・パルス)へと変化し、奈落谷の底から響いてくる。地盤沈下は止まらず、隔離ゲートが開いたとしても、魔力炉が爆発すればスラム全体が熱い魔力泥で完全に埋め尽くされるのは時間の問題だった。
「レベル・レッド……。バルザックの仕掛けた爆弾が、炉心を直撃したか……」
弦は、冷たく感覚のない左腕を強く抱きしめ、赤い警報光に染まる魔力炉の最深部、バルザックが待ち受ける禁足地「第壱観測所」の方向を見据えた。彼の真の死闘は、今、始まったばかりだった。
Chưa có bình luận nào. Hãy là người đầu tiên!