脈動する地の底、最初の不協和音
油と錆、そして腐食した真鍮の匂いが、肺の奥まで重くまとわりつく。
魔導都市メトロポリス・ガイアの最下層、通称「奈落谷(アビス・ヴァレー)」。そのさらに最底辺に位置する「第四十四デッド・バルブ」の内部空洞に、榊弦(サカキ・ゲン)の工房兼自宅はある。かつて都市の稼働初期に放棄された巨大な配管バルブの空洞を、ゲンの亡き父が改造して造り上げた、狭く煤けた泥臭い空間だ。
「――ごほっ、ごほっ……!」
湿った鉄錆の温風が吹き抜ける部屋の片隅から、痛々しい咳が聞こえた。簡易ベッドの上で、十四歳になる妹の結衣(ユイ)が、細い胸を激しく上下させている。その首元から胸元にかけて、皮膚の表面に青く透き通った硬質な結晶が、病の刻印のように浮かび上がっていた。魔力汚染が引き起こす不治の病「肺の石化病」だ。
「結衣、無理をするな。今、吸入器のフィルターを換える」
弦は無口な声を絞り出し、結衣の口元に真鍮製の吸入器をあてがった。吸入器の内部で、希少な薬草を混ぜた微弱な魔導沈殿防止剤が蒸気となって弾け、結衣の喉を潤す。激しい咳が次第に収まり、結衣は青白い顔に微かな安堵の笑みを浮かべて、静かに目を閉じた。彼女の命を繋ぐための薬代と、この劣悪な空気から肺を守るための防振フィルターの維持費が、弦が命を削って「闇調律技師」を続ける唯一の動機だった。
弦は自身の左手首を見つめた。作業用革コートの袖口から覗く皮膚は、すでに手首から手の甲にかけて、青い半透明の「結晶(魔導石)」へと変化している。触れても、そこには何の感覚もない。冷たく、硬く、ただ都市の心臓が発する微小な振動だけを、骨を通じて直接脳へと伝えてくる。これが「骨格同調度・初期」の代償だった。衝撃を吸収するたびに、彼の骨は石化していく。
ドン、と不気味な重低音が、足元の岩盤から響いた。ただの地震ではない。地殻の奥底から伝わるその振動は、一定の周期を持った不規則な拍動――「アビス・パルス(第1魔力炉の異常振動)」だ。
「……始まったか」
弦の瞳が、鋭く冷たい光を帯びる。奈落谷のエネルギー源である第壱魔力炉の拍動が、明らかに異常だった。通常なら一分間に六十回を刻むはずの鼓動が、今は倍以上の速度で暴走し、周囲の配管を激しくのたうち回らせている。壁の隙間から、有毒な青いエーテルガスが「シューッ」と音を立てて噴き出し始めた。このままでは、スラムの老朽化した配管網が連鎖破裂を起こし、地盤沈下によって数万人の住民が長屋ごと圧死する。
弦は立ち上がり、壁に掛けられた古びた茶色の作業用革コートを羽織った。右腰の工具帯には、長年使い込んだ真鍮製の重厚な「音叉スパナ(チューニング・スパナー)」を差し込む。そして、首元には師匠ムナカタから受け継いだ「真鍮の魔導聴診器」をかけた。彼は三等配管技師、すなわち最底辺のゴミ処理係に過ぎない。公式な魔力炉の操作など法律で厳格に禁じられている。だが、行政機関である地下監理局が動くのを待っていては、このスラムは数時間で壊滅する。
「結衣、ここでじっとしていろ。すぐに戻る」
弦は結衣の部屋のハッチを密閉し、吸入器のバルブを最大にしてから、工房の外へと飛び出した。
奈落谷の通路は、すでに地獄絵図と化していた。頭上を走る高圧配管がのたうち回り、接合ボルトが銃弾のように弾け飛んで壁を削っている。あちこちのマンホールから青い有毒ガスが噴き出し、逃げ惑う住民たちが喉をかきむしって倒れ込んでいた。激しい余震が、スラムの仮設住宅を容赦なく揺さぶる。
「クソッ、バルブが固着して動かねえ! このままじゃ幹線が破裂するぞ!」
スラムの配管工たちが、高熱の蒸気が吹き出す配管の前で立ち往生していた。弦は彼らを押し退け、第壱魔力炉からスラム中央広場へと繋がる、最も巨大な高圧魔力幹線の前に立った。配管は限界を超えた圧力でパンパンに膨れ上がり、まるで今にも破裂しそうな巨大な怪物の喉のように脈打っている。
弦は右手に「振動減衰手袋」をはめ、首元の「真鍮の魔導聴診器」のチェストピースを、激しく震える配管の肉壁へと直接押し当てた。
「――ぐ、あ……っ!」
耳を劈くような不協和音が、聴診器を通じて弦の脳髄を直接殴りつけた。配管の急激な閉鎖によって発生した、破壊的な衝撃波「ウォーター・ハンマー現象」だ。脳をかき混ぜられるような激痛に視界が真っ赤に染まりかけるが、弦は歯を食いしばり、「絶対聴覚・レベル1「配管の呼吸」」を起動した。
周囲の住民の悲鳴や金属の摩擦音が、弦の脳内で完全にミュートされる。彼に見えるのは、配管の内部を流れる青いエーテル流の、流速、圧力、そして気泡の混入状況だけだ。それらが音のピッチとなって脳内に立体的な配管マップを描き出す。詰まりの位置は、この直上、二メートル先の分岐バルブだ。
「どけ。俺がやる」
弦は膨れ上がった配管を素手で掴み、バルブの開放を試みた。しかし、逆流する高圧エーテルの凄まじいキックバックが、弦の右腕を襲う。生身の右腕の筋肉が引き裂かれそうな激痛が走り、バルブは錆びついたまま一ミリも動かない(失敗試行)。力任せでは駄目だ。物理的な結合を、魔術的な共鳴で融解させなければならない。
「……共鳴しろ」
弦は右腰から「音叉スパナ」を抜き、自身の結晶化した左手首を強く叩いた。澄んだ「キィィン」という高周波の共鳴音がスパナから放たれる。弦はその振動するスパナの先端を、固着したバルブの軸へと押し当てた。真鍮冶金共振法による微細高周波が金属の結晶結合を瞬間的に緩め、赤錆が砂のように崩れ落ちる。
「回れ……!」
弦は生身の右腕に渾身の力を込め、バルブを一気に回し切った。バルブが開放され、配管の内部に溜まっていた破壊的な圧力が、一気にバイパス配管へと流れ出す。しかし、その瞬間、逃げ場のなくなったウォーター・ハンマーの最終衝撃波が、逆流となって弦の肉体へと直撃した。
「が、はっ……!」
弦は「等価交換・衝撃吸収の法」を発動した。物理的な衝撃を「無」にすることはできない。ならば、自身の肉体で受け止める。彼は結晶化した左腕を配管の肉壁に強く押し当て、全身の骨格を共鳴アンテナとして、その凄まじい衝撃エネルギーを強制的に自身の骨髄へと吸い込ませた。彼の左腕の骨が、圧力に耐えかねて「ピキピキ」と嫌な音を立ててきしむ。激しい衝撃波が彼の肋骨や鎖骨を揺らし、喉の奥から熱い血が込み上げた。
だが、弦はスパナを離さなかった。彼は最後の力を振り絞り、音叉スパナで配管の最も脆弱な共振ポイントを叩いた。配管の振動と完全に「逆位相の衝撃波」が、スパナから金属壁を通じて内部のエーテル流へと叩き込まれる。
ドォォン、と重い相殺音が配管の内部で響き、のたうち回っていた幹線が、嘘のようにその動きを止めた。青い有毒ガスの噴出が収まり、スラムを揺るがしていたアビス・パルスの余震が、静かに沈黙へと向かっていく。
「……止まった、のか?」
周囲の配管工たちが、信じられないものを見る目で弦を見つめていた。最底辺の三等技師が、国家規格の魔力幹線をスパナ一本で調律してみせたのだ。
弦は激しい息を吐きながら、その場に片膝を突いた。全身を襲う疲労感と、肺の奥の冷たい痛みが彼を蝕んでいる。彼は自身の左手を見つめた。手首までだった青い結晶化の皮膚が、今回の衝撃吸収の代償として、手の甲から前腕の半ばにまで急速に広がっていた。触れても、冷たい石の感触しかない。人間としての寿命が、また一歩、確実に削られた。
弦は震える手で、再び「真鍮の魔導聴診器」を安定した配管に当てた。流れるエーテルの音は静かだった。しかし、その奥底から、彼の「絶対聴覚」は冷酷なデータを聴き取っていた。
この異常振動は、配管の単なる老朽化による故障ではない。中層のレイス財閥が、下層の安全許容値を完全に無視して、通常の十倍以上の魔力を上層へと強引に吸い上げている。その過剰搾取による、都市生命体ガイアの悲鳴だったのだ。
弦はスパナを強く握り締めた。スラムの命を吸い尽くそうとする上層の強欲が、この不協和音の真因だった。彼の戦いは、まだ始まったばかりだった。
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