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妖艶なる九尾の幻影と、狂おしき甘い罠

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コテージの地下調薬室。仄暗い闇の中で、防衛結界の核である『要石の祠』の水晶が、不気味な赤い警告光を放ちながらチリチリと音を立てていた。昨日、暗殺者ルノワの襲撃から私を守るためにレオンが放った『獅子の咆哮』――そのあまりにも強大な魔力圧に耐えかね、水晶の表面に走った細い亀裂は、一晩明けても塞がることはなかった。


「……結界の強度は、もう半分以下。このままじゃ数日と持たずに霧が晴れて、帝国の探知網に私たちの居場所が完全にバレてしまう」


 私は男装用のぶかぶかな茶色の薬師ローブを羽織り、深くため息をついた。右の手首には、昨日市場で若き神官ルシアンに強く掴まれた指の跡が、未だにうっすらと赤く残っている。それを心配そうに見つめているのは、私の足元に身体を丸めている白銀の仔狼、フェンリルだった。


「ガルル……」


 フェンリルは、昨日ルノワの影のクナイを凍らせて破壊した反動で、後ろ脚の古傷が疼くのだろう。痛々しそうに脚を引きずりながらも、私の足首に冷たい鼻先を寄せ、心配そうに鼻を鳴らした。その瞳は、私を傷つけた人間への冷徹な怒りと、私を絶対に手放さないという執着に満ちている。


「きゅう……きゅう……」


 私の胸元から、掠れた切ない鳴き声が聞こえた。金色の小獅子、レオンだ。彼は昨日、私を救うために限界を超えた咆哮を放った代償で、喉を激しく痛めていた。普段の傲慢な「しゃああっ!」という威嚇の声はどこへやら、今は私の鎖骨に頭を擦り付けながら、まるで小さな雛鳥のように弱々しく甘えることしかできない。


「大丈夫だよ、レオン、フェンリル。私を守ってくれてありがとう。今度は、私があなたたちを救う番だからね」


 私は二匹の頭を交互に優しく撫でた。指先が、まだ彼らの体温で少し温かい。この子たちの傷を完全に癒やし、そしてこの安息の家を守るためには、一刻も早く要石を修復しなければならない。祖父の遺した『アインハルト秘伝調薬書』によれば、要石の魔力構造を安定させるには、森の南東に広がる禁地『幻惑の蓮池』に自生する、特別な薬草『幻惑の蓮の花粉』が必要だった。


「トトには、村の様子を見てもらうために留守番をお願いしたわ。ガルム、コテージの周りの警戒をお願いね」


 玄関前で寝そべる巨大な三つ目の魔犬ガルムに留守を託し、私はレオンとフェンリルを両腕に抱きかかえてコテージを出た。二匹とも魔力を使い果たして衰弱しているため、私の傍から一瞬たりとも離れたがらないのだ。特にレオンは、掠れた声で「きゅう……」と鳴きながら、私のローブの襟を小さな前足でぎゅっと握りしめていた。


 霧深き森を南東へ進むこと一時間。大気の湿度が急激に上がり、周囲に漂う霧の色が、不気味なほどに美しい「桃色」へと変化し始めた。


 鼻腔をくすぐるのは、熟しきった果実と、濃厚なハニーバニラを混ぜ合わせたような、脳を蕩けさせる甘い香り。ここが、森の侵入者を永久に彷徨わせる精神的迷宮――『幻惑の蓮池』だ。


「甘い香り……。吸い込みすぎると、正気を失ってしまう」


 私はハーブを染み込ませた簡易の防毒布を目元まで引き上げ、周囲を警戒した。目の前には、桃色の霧が水面を這うように広がる、幻想的な蓮の池が広がっている。水面には、大人の頭ほどもある巨大なピンク色の蓮の花が、妖しく咲き乱れていた。


 その蓮の葉の陰に、何か白いものがうごめいているのが見えた。


「……っ!?」


 私が一歩近づくと、そこには、白と金色の美しい毛並みを持った、手のひらサイズの子狐が倒れていた。だが、その姿は異様だった。本来なら九本あるはずの尾が、魔力の完全な枯渇によって、細い一本の尾へと退化してしまっている。アメジストのような紫色の瞳は虚ろで、呼吸は浅く、今にも消え入ってしまいそうだった。


(五大獣王の一角……九尾のクオン!?)


 直感した。レオンやフェンリルと同じ、帝国に迫害され、理性を失いかけている伝説の神獣。彼もまた、この池の奥で限界を迎えていたのだ。その時、倒れていた子狐――クオンの耳がピクリと動き、アメジストの瞳が私を捉えた。瞬間、彼の細い一本の尾が、最後の力を振り絞るようにして優しく揺れた。


「きゅうう……ん……」


 それは、侵入者を排除するための無意識の自己防衛。クオンの固有能力『九尾の幻惑』が起動した。


 ポツリ、とクオンの尾からキラキラと輝く紫色の光の粉が舞い散り、周囲の桃色の霧が爆発的に濃くなった。甘い香りが防毒布を透過し、私の肺を満たしていく。頭が内側から痺れ、視界がぐにゃりと歪んだ。


「きゅ、きゅうう!」


 私の腕の中で、レオンが危険を察知して小さな喉を鳴らし、口の奥から微小な黄金の焔を灯そうとした。霧を焼き払おうとしたのだ。しかし、この霧は精神的な幻影。物理的な炎では消せないばかりか、周囲の貴重な薬草を燃やしかねない。


「ダメ、レオン! 火を使っちゃ……っ!」


 私が制止した瞬間、足元の感覚が完全に消失した。私は奈落の底へと落ちていくような強烈な浮遊感に襲われ、意識が急速に書き換えられていった――。


 気がつくと、私は蓮の池にはいなかった。


 そこは、天蓋から柔らかなシルクのカーテンが垂れ下がり、足元には薔薇の花びらが敷き詰められた、甘い香りの漂う豪奢な寝室だった。私の身体は、信じられないほど柔らかいベッドの上に横たえられている。


「……あ、れ? 私は、薬草を摘みに……」


 思考が、とろとろとした蜜のように鈍い。男装のローブはいつの間にか脱がされており、私は薄い白いスリップ一枚の姿になっていた。肌を撫でる空気があまりにも生温かく、心臓がトクトクと異常な速さで脈打つ。


「――やっと、俺だけを見てくれたな、ルティ」


 耳元で、鼓膜を優しく焦がすような、低く掠れた男の声が響いた。


 ビクリと身体を震わせて横を向くと、そこには、息を呑むほどに麗しい美青年が私を見下ろしていた。燃えるような黄金の髪、逞しい上半身。その琥珀色の瞳は、狂おしいほどの独占欲と熱を帯びて私を凝視している。


「レ……オン……?」


 それは、もふもふの小獅子ではなく、大人の男の姿となったレオンだった。彼は私の細い手首を、大きな、熱い手のひらでベッドに優しく縫い付けるようにして固定した。彼の長い指先が、私の肌をじっくりと這い上がる。


「お前を誰にも渡したくない。あの狼にも、教会の神官にも……。お前を救ったのは俺だ。だから、俺だけの伴侶(つがい)になれ」


「あ……、はぁ……」


 彼の熱い吐息が首筋に吹きかけられ、私の理性が激しく揺らぐ。身体が熱くて、頭がどうにかなりそうだ。その時、反対側から、氷のように冷たく、しかし狂気的な熱を孕んだ指先が、私の顎を優しく上向かせた。


「お前の身体は、こんなにも熱い。俺の冷気で、もっと気持ちよくしてやろうか?」


 白銀の長い髪をサラリと揺らし、切れ長の涼やかなブルーの瞳で私を見つめる、氷山のように美しい青年。それは、人間の姿となったフェンリルだった。彼は私の腰に冷たい手を滑り込ませ、レオンに対抗するように、私の身体を自身の方へと引き寄せた。


「フェンリル、まで……っ、や、めて……」


「嫌だと言いながら、お前の身体は俺たちの熱を求めている。素直になりなさい、ルティ。お前を愛して、守り抜くのは俺たちだけだ」


 レオンが私の鎖骨を甘噛みし、フェンリルが私の耳たぶを優しく唇で食む。二人の美青年に左右から押し倒され、身体の隙間なく密着される。あまりにも官能的で、あまりにも甘美な、理性を狂わせる罠。


(だめ……。このままじゃ、心が溶けて、戻れなくなる……!)


 私は快感の波に溺れそうになりながらも、必死に思考の糸を繋ぎ止めようとした。何かがおかしい。何かが、決定的に違っている。


 私は彼らの言葉を、彼らの声を、脳裏で反芻した。


 ――私は無意識のうちに、天性の才能である『獣の言語理解』を発動させていた。その感覚が、私の脳に、かすかな「違和感」を告げる。


 彼らの囁き声、その美しく甘いトーンの奥底に、奇妙な『周波数のブレ』が存在していた。それは本物の魂が放つ響きではない。私の知っているレオンは、喉を痛めて「きゅうきゅう」としか鳴けないはずだ。私の知っているフェンリルは、後ろ脚の痛みに耐えながら、もっと不器用に進んでくるはずだ。


(これは……本物の彼らじゃない! クオンが見せている、私の欲望を逆撫でする幻影だ……!)


 正体を看破した瞬間、理性の壁が急速に再構築された。だが、身体の熱と甘い麻痺は未だに私をベッドへと縛り付けている。この甘美な精神迷宮を打ち破るには、生半可な抵抗では足りない。


「――私は、薬師よ……っ!」


 私は奥歯を噛み締め、自身の舌の側面を、思い切り強く噛み切った。


 グニリ、という生々しい感触のあと、鋭い、激しい激痛が脳髄を直接突き抜けた。口内に、鉄の味をした熱い鮮血がドクドクと広がる。精神を揺さぶる「肉体的な痛み」が、脳の神経回路を強制的に現実へと引き戻した。


 パリン、とガラスが割れるような音が頭の中で響き、甘い豪奢な寝室が一瞬にして霧散する。


「はあ、はあ、はあ……っ!」


 私は激しく咳き込みながら、現実の冷たい蓮の池の地面に膝をついた。口の端から、赤い血がたらりと一筋、地面の魔力芝へと滴り落ちる。


「きゅ、きゅう!?」

「ガルルッ!」


 私の腕の中で、もふもふの姿のレオンとフェンリルが、心配そうに私の顔を見上げていた。レオンは私の血の匂いに琥珀色の瞳を大きく見開き、フェンリルは私の手の甲を必死に舐めて、私を現実へと繋ぎ止めようとしていた。二匹とも、私が幻覚に囚われていた数分間、必死に私の衣服を引っ張って起こそうとしてくれていたのだ。


「大丈夫……。心配かけて、ごめんね」


 私は口内の血を飲み込み、痛む舌を抑えながら、目の前の巨大な蓮の葉の下を見つめた。


 そこには、先ほどと変わらず、白と金色の愛らしい子狐――クオンが、完全に魔力を使い果たしてピクリとも動かずに倒れていた。彼の小さな身体からは、死の影が漂っている。このままでは、あと数分で魔力回路が内側から崩壊し、彼は死んでしまう。


「待ってて、今助けるから」


 私は『無限収納のハーブヘアピン』から、コテージから持参していた最高品質の希釈霊薬の小瓶を取り出した。しかし、クオンの小さな顎は、魔力枯渇のショックで硬直しており、固く閉ざされている。小瓶の口を差し込もうとしても、薬液が零れてしまうだけだった。


(時間がない。こうなったら……!)


 私は自身の右手の指先を、携帯していた小さな調薬用ナイフで浅く切り裂いた。そこから溢れ出たのは、初代調薬巫女の血を引く、私の『聖血』。エメラルドグリーンの光を微かに帯びた、神聖な血の雫。


 私はその血を数滴、霊薬の小瓶に直接垂らした。血が混ざり合った瞬間、無色透明だった薬液が、まばゆいエメラルドグリーンの光を放ち、爆発的な中和・活性エネルギーを宿した。


 私はその血誓の霊薬を、自身の口に含んだ。口内に広がるハーブの爽やかな苦味と、自身の血の甘い熱。そして、私は shivering(震える)子狐の身体を優しく両手で抱き上げ、彼の小さなマズルに、自身の唇を直接重ねた。


 ――『甘露の口づけ(仮契約)』。


 ルティの柔らかい唇を通じて、血の混ざった温かい霊薬が、クオンの固く閉ざされた口内へとゆっくりと流し込まれていく。彼の喉が、ごくり、と小さく動いた。その瞬間、クオンの身体の奥深くで眠っていた神獣の魔力核が、私の聖血の因子に呼応して、カチリと音を立てて起動した。


「……ん、ぅ……」


 クオンのアメジスト色の瞳に、急速に鮮やかな光が戻ってきた。彼は私の唇の感触と、そこから流れ込んでくる「甘い、奇跡の血」の匂いを、細胞レベルで感知したのだ。彼は自身の魔力回路が、かつてないほどの清らかなマナで満たされていくのを感じていた。


 クオンは私の唇を、名残惜しそうに自身の小さな舌でペロリと舐めると、ゆっくりと目を開けた。


 彼は、目の前にいる「男装の薬師」が、実は千年前の巫女の血を引く、極めて甘い匂いを持った「人間の少女」であることを、その鋭い嗅覚で一瞬にして見抜いたのだ。彼の瞳に、妖艶でずる賢い、獣王としての本能的な光が灯る。


「きゅうう……ん、ふにゃあ……」


 クオンはとろけるような甘い声を漏らしながら、私の胸元へと飛び込んできた。そして、もふもふとした白と金色の身体を、私の首元にマフラーのようにぴったりと巻き付けたのだ。彼の細い一本の尾が、私の頬をくすぐるように優しく撫でる。


(ああ……なんて甘くて、美味しい血をくれるの……? 僕の可愛い、お姫様……)


 私の脳裏に、直接クオンの妖艶で甘えたがりな「魂の声」が響いた。彼は私の首元に何度も鼻先を擦り付け、私の鎖骨のあたりを、独占欲を示すように優しく甘噛みし始めた。


「わっ、ちょっと、クオン……くすぐったいよ……!」


 私が身悶えした、その瞬間だった。


「――グルルルルルルルッ!!!」


 コテージの寝室を吹き飛ばしたあの咆哮の、何十倍もの殺気を孕んだ低い唸り声が、私の足元から響き渡った。


 レオンだった。彼の琥珀色の瞳は、新参者の子狐が私の首元を独占し、甘い声を上げているのを見て、完全な嫉妬の炎で真っ赤に染まっていた。レオンは喉の痛みを忘れ、掠れた声で「きゅうううっ!」と激しく威嚇しながら、クオンを私の首から引き剥がそうと、小さな前足でクオンの尾を掴んで引っ張り始めた。


「ガルルルルッ!」


 フェンリルもまた、全身の銀の毛を逆立て、周囲の地面を一瞬で凍りつかせるほどの冷気を放っていた。彼の冷徹なブルーの瞳は、クオンの白金色の毛並みを睨みつけ、今にもその一本尾を噛みちぎらんばかりの凄まじい嫉妬のオーラを放っている。


 私の首元を巡る、もふもふたちの熾烈極まりない、狂おしいほどの縄張り争い(嫉妬の嵐)が、幻惑の蓮池の霧の中で、最大風速で巻き起こり始めていた――。

HẾT CHƯƠNG

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