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月下の暗殺者と、影から護る牙

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夕闇が霧深き魔薬の森を包み込む頃、私はミント村からの帰り道を一人、急ぎ足で歩いていた。木々の隙間から差し込む月光は頼りなく、周囲に立ち込める霧が視界を白く遮っている。


 冷たい夜気がローブの隙間に入り込み、私は思わず身震いをした。だが、私の身体を震わせているのは、夜風の冷たさだけではない。


「……誰か、いるの?」


 私は足を止め、息を潜めた。背後の暗闇から、カサリ、と極めて微かな、しかし生物的な足音が聞こえたのだ。それは森の野獣のものではない。もっと知的で、悪意を孕んだ、音を立てない足音――。


 私の衣服には、コテージで留守番をしているレオンたちの匂いや、アインハルトの血の匂いが微かに残っている。市場で出会った聖教会の神官ルシアンの追跡か、あるいは彼らを狙う密猟者ギルド『鉄血の牙』の放った追手か。


 私は右の手首をそっと押さえた。そこには、ルシアンに強く掴まれたことによる赤い指の跡が、未だにズキズキとした熱を持って残っている。もし今ここで捕まるわけにはいかない。


「……『無気配薬草採取』」


 私は目を閉じ、自身の微弱な魔力を周囲の植物と同調させた。呼吸を草木のそよぎに合わせ、気配を完全に消す。そして、懐から取り出したカモフラージュ用のハーブオイルを衣服に一滴垂らした。ツンとしたミントの強い香りが、私の体臭と神獣たちの匂いを瞬時に覆い隠す。


 私は影のように静かに動き出し、追手の視界から消えるようにして森の獣道を駆け抜けた。背後の気配が、私の匂いを見失って戸惑うように立ち止まるのを感じながら、私は一心不乱にルトの木造コテージへと急いだ。


 コテージの玄関前にたどり着いた時、三つの目を持つ巨大な番犬ガルムが、低い唸り声を上げて私を迎えた。私がフードを外して素顔を見せると、ガルムは安堵したように尾を振った。


「ただいま、ガルム。留守を守ってくれてありがとう」


 扉を開けて中に入ると、暖炉の温かい光と、乾燥ハーブの優しい香りが私を包み込んだ。外界の緊張から解放され、私は小さく息を吐き出した。


「きゅうっ!」

「ガルル……!」


 その瞬間、ベッドの上から二つのもふもふとした影が、弾丸のような勢いで私に向かって飛び込んできた。金色の小獅子レオンと、白銀の仔狼フェンリルだ。


「わっ、二人とも、ただいま。お留守番、良い子にしてた?」


 私は二匹を両腕でしっかりと受け止めた。レオンは私の首元にぐいぐいと頭を押し付け、フェンリルは私の頬を冷たい鼻先で突いてくる。二匹とも、私が無事に帰ってきたことを全身で喜んでいる。だが、その甘い時間は一瞬で遮られた。


 レオンが私の右腕に視線を落とした瞬間、その琥珀色の瞳が怒りで細められた。ローブの袖口から覗く、私の手首に残ったルシアンの赤い指の跡――それを見つけたのだ。


「グルルルル……ッ!」


 レオンの小さな体から、パチパチと黄金の火花が散り始める。その瞳は、私の肌を傷つけた見えざる敵への激しい殺意に満ちていた。彼は私の手首の赤みを、申し訳なさそうに、そして独占欲を誇示するように、温かい舌で優しくペロペロと舐め始めた。


「ガルル……」


 フェンリルもまた、冷徹なブルーの瞳を険しく光らせた。彼はレオンを押し退けるようにして私の手首に鼻を寄せると、自身の微弱な氷の魔力を放ち、腫れ上がった赤みを心地よい冷気で包み込んだ。ズキズキとした痛みが、スーッと引いていく。


「ありがとう、二人とも。でも大丈夫、ただの軽い打撲だから」


 私は二匹の頭を優しく撫で、安心させるように微笑んだ。だが、二匹の視線は未だに険しく、私を傷つけた「人間」への怒りを燻らせている。彼らの私に対する独占欲と保護欲は、日に日に強くなっているようだった。


 私は彼らに特製のハーブ肉クッキーを分け与え、地下の調薬室でバルタザールへ納品するための薬の整理を済ませた。一日中の緊張と精神的疲労により、私の身体は鉛のように重かった。


 男装用の重いローブを脱ぎ、柔らかな白いコットンの寝衣に着替えると、私はベッドへと潜り込んだ。レオンは私の胸元に陣取り、フェンリルは私の足元に身体を丸める。二匹の温もりとハーブの香りに包まれながら、私は深い眠りへと落ちていった。


 夜が更け、森が完全な静寂に支配された頃。


 コテージの寝室の窓から、月光が細い一本の線となって床を照らしていた。その光を遮るように、音もなく、影が滑り込んできた。


 全身を漆黒のタイトな忍び装束で包み、仮面の下から冷ややかな紫の瞳を覗かせる女――『鉄血の牙』に雇われたAランク暗殺者、『影縫い』のルノワ。彼女は自身の気配を完全に虚無にし、床を歩く音さえも消して、私のベッドへと近づいてきた。


 私は深い眠りの中で、突如として襲ってきた「息苦しさ」に目を覚ました。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、身体が異常に冷たくなっていく。


「……っ!?」


 声を上げようとしたが、喉が完全にロックされたように、かすれた息しか出ない。指先一つ動かそうとしても、筋肉が石のように固まって反応しない。魔力回路を動かそうとしても、内側から冷たい楔を打ち込まれたように、魔力の流れが完全に遮断されている。


 目元だけを辛うじて動かすと、壁に投影された私の影が見えた。その影の首元に、漆黒の魔力を帯びた巨大なクナイが突き刺さっているのが見えた。


(影縫いの術……!?)


 ルノワの得意とする闇属性の緊縛術。私の影が縫い付けられたことで、私の肉体そのものが完全に拘束されてしまったのだ。魔力を持たない私には、この呪縛を自力で解く術はなかった。


 ベッドの脇に、ルノワが音もなく立ち塞がった。彼女の手元で、毒薬を塗られた黒い短剣が月光を浴びて鈍く光る。


「ターゲット確認。アインハルトの生き残り……ここで静かに眠りなさい」


 ルノワの冷酷な声が静寂を切り裂き、短剣の刃先が私の首元へとゆっくりと振り下ろされる。刃が皮膚に触れる寸前、私の首元で『神獣の身代わり羽』が微かに発光し、極小の魔力障壁が展開された。刃の侵入が一瞬だけ止まる。


「ちっ、守護の護符か。だが、この程度の薄い壁など――」


 ルノワが短剣に闇の魔力を込め、障壁を突き破ろうとしたその瞬間。


 ベッドの下の暗闇から、一筋の銀色の閃光が走った。


「ガルルルルッ!」


 フェンリルだった。もふもふの仔狼の姿でありながら、その瞳は獣王としての冷徹な輝きを取り戻している。フェンリルは床に伸びるルノワの影に飛び込むと、自身の身体を影と同化させる『影移動』を発動した。


「なっ……!? 私の影に干渉している!?」


 ルノワが驚愕の声を上げた。フェンリルが彼女の影の内側から、極寒の氷の魔力を流し込んだのだ。ルノワの影が白く凍りつき、バリバリと音を立てて凍結していく。影の主導権を奪われたことで、私を縛っていた『影縫い』の接続が物理的に凍りつき、微かに緩んだ。


「動ける……!」


 私は喉の自由を取り戻し、大きく息を吸い込んだ。だが、まだ身体の硬直は完全には解けていない。


 ルノワはフェンリルの干渉を振り払おうと、自身の闇魔力を暴走させ、凍りついた影を無理やり引き裂こうとした。Aランク暗殺者としての実力は伊達ではない。フェンリルの小さな肉体に、影を通じて激しい魔力の反動が襲いかかる。フェンリルが苦しげに声を漏らした。


「フェンリル……!」


「しゃああっ!!」


 その時、私の胸元から黄金の影が飛び出した。レオンだ。レオンはベッドのヘッドボードの上に駆け上がると、小さな身体を大きく膨らませ、琥珀色の瞳を黄金の炎のように輝かせた。


 手のひらサイズの愛らしい小獅子が、その小さな口を大きく開く。


「にゃおーーーんっ!!!」


 放たれたのは、可愛らしい鳴き声ではない。世界の天井を震わせるような、地響きを伴う圧倒的な音響と魔力の波動――『獅子の咆哮』。


 レオンの小さな背後に、一瞬だけ、黄金に輝く巨大な守護獅子の幻影が浮かび上がった。寝室全体の空間が激しく振動し、窓ガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、一斉に粉々に砕け散った。


「くっ……あ、あああああっ!!!」


 至近距離で咆哮の直撃を受けたルノワは、両耳を押さえて激しくのたうち回った。強烈な音響振動と神聖な覇気が彼女の鼓膜を震わせ、脳を直接揺さぶる。彼女の精神魔術の構成は一瞬で崩壊し、私を縛っていた影のクナイが、黒い霧となって霧散した。


「はあ、はあ……!」


 身体の拘束が完全に解け、私はベッドの上に起き上がった。両手の自由を取り戻し、急いで胸元の『身代わり羽』を握りしめる。


 ルノワは耳から血を流し、息を切らせながら、激しい恐怖の目でレオンとフェンリルを見つめた。ただの愛らしい小動物だと思っていた存在が、一国を滅ぼしかねない神獣の力を秘めていることに、彼女は今更気づいたのだ。


「……化け物め。この依頼は割に合わない」


 ルノワは懐から煙幕弾を取り出して床に叩きつけると、砕けた窓から月光の射す夜の森へと、影のように素早く逃亡していった。


「待って……!」


 私が叫んだが、彼女の気配はすでに森の霧の向こうへと完全に消え去っていた。コテージの周囲に、再び静寂が戻る。ただ、砕けた窓ガラスの破片が床で冷たく光り、暖炉の火が咆哮の風圧で消えかけていた。


「はあ……はあ……」


 レオンは咆哮を放った反動で、喉を枯らし、小さな身体を激しく上下させて息を切らせていた。彼はベッドの上にへたり込み、可愛い「きゅうきゅう」という掠れた声しか出せなくなっていた。フェンリルもまた、影の反動によって後ろ脚を震わせ、疲労困憊の様子で私の膝に頭を預けてきた。


「二人とも、私を守ってくれたのね……。ありがとう、本当にありがとう……」


 私は涙を浮かべながら、二匹をそっと両腕に抱きしめた。レオンの温かい黄金の毛並みと、フェンリルの冷たい白銀の毛並みを交互に撫でる。二匹は私の胸に顔を埋め、私の無事を確かめるように、小さく鼻を鳴らした。


 しかし、安堵したのも束の間。私はコテージの地下室から、不穏な警告の魔導音が響いていることに気づいた。


 ジ、ジジ……と、地下の祭壇から繋がる魔力の脈動が、不規則に乱れている。


 私は二匹を抱いたまま、急いで地下の調薬室へと続く階段を駆け下りた。薄暗い実験室の奥、隠れ家の防衛結界の核である『要石の祠』の水晶が、不気味な赤い光を放ちながら、細い亀裂を走らせていた。


「そんな……要石が……」


 レオンの放った『獅子の咆哮』のあまりにも強大な魔力波が、結界の許容量を超え、内側から防衛システムを破壊してしまったのだ。コテージを外界から隠していた『霧深き魔薬の森』の結界が、急速に薄くなっていくのを感じる。


 結界が崩壊すれば、帝国の魔導探知網や、あの執念深い神官ルシアンに、この隠れ家の正確な位置が完全に特定されてしまう。残された時間は、そう多くはない。


 私は砕けかけた要石を見つめ、唇を強く噛みしめた。

HẾT CHƯƠNG

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