男装薬師の秘密と、市場の甘い罠
「ルト兄ちゃん、見て見て! 今日もミント村の市場はすごく活気があるよ!」
背中に大きな薬草籠を背負った茶髪の少年、トトが、人混みの向こうで嬉しそうに飛び跳ねた。その無邪気な笑顔につられるように、私は男装のぶかぶかな茶色の薬師ローブのフードを少し直し、微笑み返した。
「本当ね、トト。でも、あんまり走ると籠の中の薬瓶が割れてしまうから、気をつけて」
「あ、そっか! ルト兄ちゃんに貰った大事な『真鍮の薬草鎌』も入ってるし、慎重にいかなきゃね!」
トトは慌てて歩幅を狭め、私の隣に並んだ。その純朴な瞳には、私への絶対的な憧れと敬愛が満ちている。彼は私が「ルト」という名の青年薬師だと信じ切っており、その下に隠された「ルティ・アインハルト」という少女の素顔も、帝国から追われる身分であることも全く知らない。
霧深き魔薬の森を抜け、険しい山道を徒歩で一時間。私たちは最寄りの開拓村である『ミント村』の共同市場に到着していた。ここは帝国の苛烈な重税と疫病に苦しむ貧しい平民たちの集落だが、私が安価で処方する薬のおかげで、辛うじて平穏を保っている。
市場の広場に小さな木製の露店を広げると、すぐに村人たちが集まってきた。
「おお、ルト先生! 待っていたよ!」
「先生の湿布薬のおかげで、じいさんの腰痛がすっかり良くなったんだ」
「こら、順番を守りなさい! ルト先生、うちの子の風邪薬をいただけますか?」
「皆さん、落ち着いてください。薬は十分に用意してありますから」
私は「無限収納のハーブヘアピン」から、人目を盗んで新鮮な薬草や薬瓶を滑り出させ、手際よく机の上に並べていった。ハーブの清涼な香りが周囲に漂い、村人たちの強張った表情を和らげていく。安価な風邪薬や傷薬を配るたび、彼らから寄せられる「ありがとう」の言葉が、私の乾いた心に温かく染み渡る。
しかし、私のローブのポケットには、昨日捕らえた密猟者の懐から回収した『帝国宮廷調薬院の極秘書類』が重く収まっていた。帝国が裏で密猟ギルドを動かしているという事実。そして、私の顔が「アインハルトの生き残り」として指名手配されているという現実が、常に私の背中に冷たい刃を突きつけているようだった。
「ルト先生は本当に命の恩人だ。帝国の冷酷な薬師どもは、俺たち平民を虫ケラのように扱い、高価な薬しか売らないからな……」
自警団長のダグラムが、無骨な大剣を背負ったまま、深くため息をついた。村長のゴドウィンも隣で静かに頷く。
「ああ。ルト先生がこの村の身元保証人として活動してくれて、本当に助かっている。役人どもが来ても、お前さんのことはただの村の薬草摘みだと通してあるから安心しなさい」
「ありがとうございます、ゴドウィンさん、ダグラムさん。皆さんの助けがあるからこそ、私はここで薬を調合できます」
私が深く一礼した、その時だった。
市場の騒がしい喧騒が、まるで刃物で切り裂かれたかのように、一瞬にして凍りついた。
人々が怯えたように左右に分かれ、広場の中央に一本の道ができる。その道の向こうから、白銀の甲冑を纏った教会の衛兵たちを引き連れ、一人の男が静かに歩み寄ってきた。
プラチナブロンドの短い髪が、辺境の薄暗い太陽の光を浴びて神聖に輝いている。澄み切った、しかし一切の感情を排除した氷のブルーの瞳。仕立ての良い、汚れ一つない純白の神官服を完璧に着こなしたその美青年は、息を呑むほどに美しく、同時に近づきがたい圧倒的な聖性を放っていた。
聖教会の若き天才神官、ルシアン・サントス。
彼の胸元で揺れる『十字のロザリオ』が、微かに、しかし確かに不穏な光を放っている。それは邪悪な魔力や、教会の認可を得ていない「不審な奇跡」に反応する魔道具だった。
「……この周辺で、教会の認可なき『癒やしの奇跡』を行っている不審な薬師がいると報告を受けました」
ルシアンの声は、冷たく、美しく、広場全体に響き渡った。村人たちは一斉に息を呑み、私を守るようにして身を縮める。ルシアンの鋭い眼光が、露店の前に立つ私へと向けられた。
「あなたが、野良薬師の『ルト』ですね」
「……はい。私がルトですが、神官様。何か御用でしょうか」
私はフードを深く被り直し、声を低くして、できるだけ冷静な青年薬師を演じた。だが、私の指先は緊張で微かに震えていた。昨日、フェンリルの冷気で負った凍傷の赤みが、ローブの袖口から見えないよう、深く手を引っ込める。
ルシアンは私の前に立ち、露店の上に並べられた風邪薬の瓶を一つ、細く美しい指先で拾い上げた。そして、腰から金色のフレームで飾られた『真実の看破』の測定器を取り出し、薬瓶の底に当てた。
ピピッ、と、鋭い魔導音が響く。測定器のインジケーターが、青い光を放ちながら急速に上昇していく。その数値を見たルシアンの眉が、微かにピクリと動いた。
「……魔力純度、基準値の十倍。ただの野良薬師が、市販の薬草だけでこれほどの純度を精製することは物理的に不可能です。これは、悪魔の魔法、あるいは禁忌とされた魔導技術の関与を疑わざるを得ません」
ルシアンの冷徹な追及が、私に突き刺さる。周囲の空気の圧力が、急激に重くなったように感じられた。
「神官様、それは誤解です!」
トトが私の前に飛び出し、両手を広げて私を庇おうとした。
「ルト兄ちゃんは悪魔なんかじゃない! すごく真面目で、僕たちを救ってくれる世界一の薬師なんだ! 変な言いがかりはやめてよ!」
「トト、下がって……!」
私は慌ててトトの肩を掴み、後ろへと引いた。だが、トトの無邪気な擁護は、逆にルシアンの疑惑を深める結果となってしまった。ルシアンの冷ややかな視線が、トトから再び私へと戻る。
「無免許の野良薬師が、これほどの『奇跡』を安価で配る。それ自体が、大衆を惑わす悪魔の誘惑、あるいは国家の秩序を乱す反逆の兆候です。ルト、あなたの技術の根源を説明しなさい」
私は深く息を吸い込み、脳裏で祖父の遺した薬学数式を高速で組み立てた。ここで怯えれば、即座に異端として連行される。私はあえて、帝国の最高学府である帝国薬学院が採用している公式な『熱伝導と魔力中和の比率理論』――ライバルであるクリストフ・フォン・ヴァルハイトが得意とする数式理論の逆用を、淡々と口にした。
「……この薬は、魔法ではなく純粋な技術によるものです。ハーブの細胞壁を破壊しないよう、真鍮の冷却管の温度を正確に零度から三分の一の範囲に維持し、大気中のマナを触媒として自然結晶化させたに過ぎません。これは帝国薬学規則第104条に記載されている、合法的な非魔導調合の範疇です」
ルシアンの美しい瞳が、驚愕と不審で微かに見開かれた。ただの辺境の野良薬師が、帝国のエリートしか知り得ない高度な薬学理論を、澱みなく語ったのだから当然だ。
「……高度な理論ですね。しかし、言葉だけでは証明になりません」
ルシアンは一歩、私との距離を詰めた。彼の長身が私を見下ろし、その圧倒的な威圧感が私の呼吸を奪う。彼は私の言い訳を許さないと言わ言わんばかりに、躊躇なく右手を伸ばした。
「あなたの魔力回路を直接スキャンし、異端の痕跡がないか確認させてもらいます」
その細く、しかし強靭な指先が、私の右の手首を掴んだ。冷たい革手袋の感触が、私の肌に直接触れる。私はその瞬間、心臓が凍りつくような恐怖を覚えた。魔力回路を直接スキャンされれば、私の微弱な魔力の奥に眠る『アインハルトの血誓』の神聖な波長が、確実に暴かれてしまう。
しかし、私の手首を掴んだ瞬間、ルシアンの動きが、不自然にピタリと止まった。
彼の氷のブルーの瞳が、驚きを帯びて大きく見開かれる。
(……手首が、細すぎる)
男装のぶかぶかなローブの上からでは分からなかった、一人の華奢な少女としての私の手首の骨格。それは、青年薬師を名乗るにはあまりにも細く、繊細で、壊れそうなほどだった。
さらに、至近距離に近づいたことで、ルシアンの鼻腔を、私の衣服の隙間から漂う香りがくすぐった。男装用の体臭消しハーブの匂いを突き抜け、コテージの地下調薬室で衣服に染み付いた、甘く清らかなラベンダーの香りが、彼の理性を揺らすように漂い出していた。
「あなた……ルト、その手首は――」
ルシアンの声が、先ほどまでの冷徹さを失い、かすかに揺れた。彼の眼光が、私の手首から、フードの奥に隠された私の顔へとゆっくりと上がってくる。正体が暴かれる――その極限の恐怖に、私の全身が硬直した。
「おやおや、高貴な聖教会の神官様が、うちの専属薬師に何の御用ですかな?」
その緊迫した空気を切り裂くように、豪快な笑い声が響き渡った。
口髭を蓄え、恰幅の良い体躯に仕立ての良い旅装束をまとった中年男性――行商人のバルタザールが、割って入るように私たちの間に立ち塞がった。彼はルシアンの前に、帝国の公式な印章が押された『偽装通行許可証』と、商業ギルドの保証書を大袈裟に差し出した。
「バルタザール……。商業ギルドの者が、なぜここに」
ルシアンは不快そうに眉をひそめ、掴んでいた私の手首をゆっくりと離した。私は解放された手首を抱きしめ、激しく高鳴る鼓動を抑えるために、深く息を吐いた。
「このルト先生は、我がバルタザール商会が辺境でのハーブ調達を正式に委託している、極めて優秀なビジネスパートナーでしてね。帝国の商業特別法に基づき、ギルドの保証がある薬師への不当な拘束は、中央の商業ギルド長への重大な越権行為とみなされますが……神官様?」
バルタザールは抜け目のない笑みを浮かべ、ルシアンを牽制した。教会の権威は絶対だが、帝国の経済を牛耳る商業ギルドとの全面衝突は、ルシアンにとっても避けるべき政治的リスクだった。
ルシアンはしばらく無言でバルタザールを見つめていたが、やがて冷たい視線を再び私へと向けた。そのブルーの瞳の奥には、未だに消えない、そして先ほどよりも遥かに深い疑惑と、奇妙な執着の光が灯っていた。
「……分かりました。今日のところは、ギルドの顔を立てて引き下がりましょう。しかし、ルト」
ルシアンは私の耳元に顔を寄せ、他人に聞こえないほどの低い、熱を帯びた声で囁いた。
「……ラベンダー、か。あなたのそのあまりにも細い手首と、甘い香り……。私は、不審な奇跡を絶対に見逃しません。次に会う時までに、完璧な回答を用意しておくことです」
ルシアンはそう言い残すと、白銀の衛兵たちを引き連れて、静かに市場を去っていった。その背中を見送りながら、私はその場にへたり込みそうになるのを、必死に耐えていた。
「ルト兄ちゃん、大丈夫!?」
トトが心配そうに私のローブを引っ張る。
「ええ、大丈夫よ、トト。……バルタザールさん、助かりました」
「いやいや、気にするな。だがルト、あの神官の目は本気だ。お前さんの薬の品質が良すぎるのも考えものだな。当分、市場での大々的な商売は控えた方がいい」
バルタザールは真剣な表情で警告した。私は深く頷き、急いで露店の片付けを始めた。ルシアンに目をつけられたことで、今後は社会的にも物理的にも、この村での活動が大きく制限されることになる。社会的コストは重く、何より私の正体が、あの美しい神官の脳裏に深く刻まれてしまった。
荷物をまとめ、トトを村に残して、私は一人でコテージへと帰る山道を急いだ。夕暮れの赤い光が、森の入り口を不気味に染め上げている。
その時、私の背後の闇から、ガサリと草木が揺れる不穏な音が聞こえた。
衣服に付着した『獣王の匂い』、あるいは私の血の匂いを追って、何者かが暗闇からじわじわと迫ってくる――その冷たい気配に、私は再び身を震わせた。
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