忍び寄る鉄血の牙と、森の仕掛け罠
「帝国の軍事紋章……」
ルト――いや、本名をルティ・アインハルトという少女は、コテージの居間のテーブルの上に置かれた不気味な鉄製の罠を見つめ、小さく息を呑んだ。
肩に乗った使い魔のミミズク、ホーキンスが羽を逆立てて嘴を鳴らす。
「そうじゃ。あの『鉄血の牙』の密猟者どもが、ついにこの霧深き魔薬の森の境界線にまで罠を仕掛け始めておる。それも、帝国の魔導研究室から横流しされた最新の捕縛兵器じゃ」
ルティの足元では、白銀の仔狼であるフェンリルが、包帯の巻かれた後ろ脚を庇いながら、鋭い氷のブルーの瞳を外の霧へと向けていた。ベッドの上から這い出してきた金色の小獅子、レオンも、琥珀色の瞳に黄金の火花を散らして低く唸る。
二匹の伝説の獣王――今は魔力枯渇で退化形態となっているもふもふたちだが、その本能はルティに迫る危険を敏感に察知していた。
「大丈夫だよ、二人とも。ここは私の家だもの。絶対に奴らには見つけさせないわ」
ルティは二匹を優しく抱きしめ、その温もりで彼らの暴走しかけた魔力を宥めた。フェンリルはルティの腕の中で一瞬耳をピクリと動かし、彼女のローブに鼻先を埋めて甘えるような仕草を見せる。その鋭い嗅覚は、ルティが男装のローブの下に隠している、少女特有の甘いハーブの香りをとっくに嗅ぎ分けていたが、彼はあえて黙っていた。レオンがそれに気づき、「俺の主に気安く触れるな」と言いたげにフェンリルの耳を甘噛みして引き剥がそうとする。
「こらこら、仲良くしてね。……ホーキンス、トトはどこ?」
「トトなら、お前の指示通り、乾燥小屋で防衛用のハーブを仕分けさせておる。あやつ、お前を『ルト兄ちゃん』と慕うて、実によく働くわい」
「ありがとう。私も準備を手伝うわ」
ルティは男装のぶかぶかな薬師ローブの帯を締め直すと、コテージの裏手にある乾燥小屋へと向かった。そこでは、茶髪の少年トトが、一生懸命に真っ赤な唐辛子ハーブの束をすり鉢で挽いていた。顔に少し煤をつけながら、トトはルティの姿を見るなり目を輝かせる。
「ルト兄ちゃん! 言われた通り、刺激の強い赤唐辛子ハーブの粉末をたっぷり用意したよ! これで罠を仕掛けるの?」
「ええ、よくやってくれたね、トト。森に侵入してきた密猟者たちを、傷つけることなく追い払うために使うの。私たちは力で戦う薬師じゃないから、森の力を借りるんだよ」
「うん! ルト兄ちゃんの調薬は世界一だから、きっと大丈夫だよね!」
トトの無邪気な信頼に、ルティは優しく微笑みながらも、内心では張り詰めた緊張感を感じていた。今回の敵は無法者の密猟ギルド『鉄血の牙』。彼らは容赦なく森の動物たちを傷つけ、獣王たちを素材として捕らえようとしている。正面から戦えば、魔力の微弱なルティに勝ち目はない。だからこそ、地形と調薬の知識を駆使した「罠」が必要だった。
「シルフ、お願いできる?」
ルティが温室の窓辺に向かって呼びかけると、透き通るような緑の羽を持った小さな風の精霊シルフが、嬉しそうにルティの周囲を飛び回った。
「ルト、なにするの? シルフ、風をおこすよ!」
「シルフには、風上でこの唐辛子の粉末を運んでもらいたいの。それから、アラクネさんから貰った粘着糸も使うわ」
ルティは「無限収納のハーブヘアピン」から、以前、怪我をしたアラクネの子供を治療した恩返しとして譲り受けていた『大蜘蛛アラクネの粘着糸』を取り出した。鋼鉄並みの強度を持ち、魔力を遮断するその極細の糸は、侵入者を無傷で捕縛するための最高の素材だった。
準備を整えたルティは、トトをコテージの留守番に残し、シルフを連れて森の東側境界へと向かった。コテージの玄関前では、三つの目を持つ巨大な番犬ガルムが、低い姿勢で周囲を警戒している。
「ガルム、家を守ってね。レオンとフェンリルをお願い」
ガルムは短く吠え、ルティの命令に服従の意を示した。
霧深き魔薬の森の境界に近づくと、大気中に不快な鉄の匂いと、荒々しい足音が混ざり合っているのが聞こえた。ルティは『無気配薬草採取』の要領で、自身の魔力と呼吸を周囲の植物と同調させ、完全に気配を消して大樹の影に潜んだ。
霧の向こうから、黒い革鎧をまとった『鉄血の牙』の先遣隊が3名、凶暴な猟犬を連れて現れた。
「ちっ、霧が濃くて方向が分からねえな。だが、あの金獅子の魔力反応はこの先から感知されたはずだ」
「猟犬ども、匂いを追え! 見つけたら一攫千金だぞ」
猟犬たちが低く唸りながら、ルティの潜む方向へと鼻を近づけてくる。その優れた嗅覚が、ルティの体臭を捉えようとした瞬間――。
「シルフ、今よ! 風を吹かせて!」
ルティが心の中で念じると、風上に待機していたシルフが、小さな羽を激しく羽ばたかせた。
「それーーっ! 風よ、いっけーー!」
シルフが張り切りすぎて放った突風は、ルティの予想を超える強さだった。赤い唐辛子ハーブの粉末が、猛烈な赤い霧となって猟犬たちの鼻先へと吹き付けられる。しかし、突風の余波で、赤い粉末の一部がルティの方向へと逆流しそうになった。
「きゃっ……!」
ルティは瞬時に「浄化のハーブマスク」を装着し、身を縮めて難を逃れた。マスクの炭化フィルターが、逆流した刺激成分を完璧に遮断する。
一方、直撃を受けた猟犬たちは、突然の激しい刺激臭に悲鳴を上げた。
「キャン! キャン!」
犬たちは鼻を押さえ、涙を流しながらその場でのたうち回る。嗅覚を完全に失い、パニックを起こした猟犬たちは、飼い主である密猟者たちに飛びかかった。
「うわっ! なんだこの赤い煙は! 目が、鼻が痛え!」
「犬ども、落ち着け! 前が見えねえ!」
視界と嗅覚を奪われ、混乱した密猟者たちは、足元を確かめる余裕もなく、ルティが事前に誘導路として開けておいたエリアへと逃げ惑うように走り出した。
そこは、周囲の木々の間に『大蜘蛛アラクネの粘着糸』が、幾重にも張り巡らされた死角だった。
ズサッ、ズサッ、と、不自然な肉体の衝突音が響く。
「な、なんだこれは……! 体が動かねえ!」
「糸だ! クソ重い蜘蛛の糸に絡まりやがった! 引きちぎれねえぞ!」
密猟者たちは、もがけばもがくほど、鋼鉄並みの強度を持つ粘着糸に全身をがんじがらめにされ、繭のように木々に固定されてしまった。猟犬たちもまた、糸の包囲網の中で身動きが取れなくなっている。
静まり返った森の霧の中から、ルティは静かに姿を現した。男装のフードを深く被り、凛とした佇まいで彼らを見下ろす。
「森を荒らすのは、そこまでにしてください」
ルティの静かな、しかし威厳に満ちた声に、密猟者たちは恐怖で身体を震わせた。その様子を、大樹の天辺の影から、猫耳を持つ若い獣人の青年ネロが、驚愕の表情で見つめていた。
(あの人間……魔法も使わずに、ただのハーブと魔獣の糸だけで、鉄血の牙の先遣隊を無傷で制圧しちまいやがった。なんて奴だ……)
ネロの瞳に、ルティに対する深い敬意と信奉の光が灯る。
ルティは粘着糸に縛られた密猟者たちに近づき、彼らの衣服を軽く探った。彼らがこれ以上危険な道具を持っていないか確認するためだ。だが、その中の一人の懐から、不自然な黒い魔導インクで書かれた、書類の束が滑り落ちた。そこには、帝国の公式な紋章と、宮廷調薬師にしか発行されないはずの、特殊な『魔導麻酔弾』の極秘流通許可が記されていた。
「これって……帝国の調薬院が、裏で彼らを動かしているの……?」
ルティの指先が、その書類を握りしめたまま微かに震える。祖父を弾劾し、一族を没落させた帝国の影が、この森にまで伸びてきているという決定的な証拠だった。
「おい、お前……」
捕らえられた密猟者の一人が、泥に塗れたルトの顔をじっと見つめ、その濁った瞳を大きく見開いた。
「その顔、どこかで見覚えが……。帝都で手配されている、あのアインハルトの――」
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