銀白の仔狼と、もふもふたちの縄張り争い
朝の光が、木々の隙間から差し込む濃い霧を白銀色に染め上げていく。
帝国辺境の「霧深き魔薬の森」の奥深く。ルティ・アインハルト――男装の薬師「ルト」としての隠れ家である木造コテージの二階寝室は、爽やかなハーブの香りと、暖炉の温かな熱気に包まれていた。
「ふふ、こら、レオン。くすぐったいよ……」
ルティが身をよじると、首元に触れる金色の絹糸のような毛並みが、さらに甘えるようにすり寄ってきた。手のひらサイズの小さな小獅子――五大獣王の長であるレオンは、ルティのベッドの真ん中を完全に占領し、彼女の鎖骨のあたりに小さな前足を乗せて、喉をゴロゴロと鳴らしている。
昨日、死に瀕していたレオンを、ルティは自身の痛みを引き受ける『痛みの同調(簡易版)』と、口移しで霊薬を与える『甘露の口づけ』によって救い出した。まだその魔力回路には帝国の「魔力壊死の呪い」が燻っているものの、命の危機は脱し、今はすっかりルティに懐いている。
「ほら、お腹が空いたんでしょう? これ、君のために作った特製のハーブ肉クッキーだよ」
ルティが「無限収納のハーブヘアピン」から、乾燥させた滋養ハーブと干し肉を練り合わせたクッキーを取り出すと、レオンの琥珀色の瞳がキラリと輝いた。彼は小さな口を大きく開け、ルティの指先から器用にクッキーを咥え取ると、サクサクと嬉しそうに音を立てて食べ始めた。
「おい、ルト! その危険極まりない黄金のトカゲもどきを、いつまでベッドで甘やかすつもりじゃ!」
パタパタと羽音を立てて、寝室の梁の上に止まったのは、老齢のミミズクであり、祖父アルベルトの使い魔だったホーキンスだ。モノクルをかけた金色の瞳で、ホーキンスは不機嫌そうにルティを見下ろした。
「お前は帝国から追われる身の『男装の薬師』なのだぞ! そんな正体不明の魔獣を懐に飼っていて、もし密猟者や守備隊に見つかったらどうする!」
「にゃおーーんっ!」
ホーキンスのお小言に対抗するように、レオンが小さな体を膨らませて威嚇の声を上げた。口の端から小さな火花がパチパチと散る。まるで「俺のルティに指図するな」とでも言いたげな態度に、ルティは苦笑しながら、包帯が巻かれた右手をそっとレオンの頭に乗せた。
「大丈夫だよ、ホーキンス。この子はもう暴走したりしないわ。……それに、私の手の火傷も、ほら」
ルティが包帯を少しずらして見せると、昨日レオンの暴走した焔で負った火傷の跡は、彼女自身が調合したラベンダーの軟膏によって、すでに赤みが引いていた。レオンはその傷跡を、少し申し訳なさそうに、そして独占欲を誇示するように、温かい舌で優しくペロペロと舐めた。
「……やれやれ、アインハルトの血誓(宿命)には抗えんということか。だが、調合用のハーブの備蓄が減っているぞ。今日は森の境界まで薬草の補充に行くのじゃな?」
「ええ。レオンの呪いを完全に解くための薬も探したいし、少し様子を見てくるわ」
ルティはレオンをベッドのふかふかクッションの上にそっと寝かせ、男装用のぶかぶかな茶色の薬師ローブを羽織った。レオンは「置いていくのか」と不満げにキュウキュウと鳴いたが、ルティが「すぐ戻るからね」と額に軽くキスをすると、大人しく丸くなった。
コテージを出て、霧に包まれた森を歩く。肩にはシマリスのナッツを乗せ、ルティは「無気配薬草採取」の要領で、自身の微弱な魔力を周囲の草木と同調させながら進んだ。そうすることで、森の狂暴な魔獣に気づかれることなく、安全に薬草を摘むことができるのだ。
しかし、森の東側の境界線、険しい断崖が迫るエリアに差し掛かった時、ナッツが突然、耳をピンと立ててルティのフードの中に潜り込んだ。
「……冷たい?」
空気の温度が、急激に下がっていくのを感じた。足元の魔力芝が、かすかに白い霜で覆われ始めている。
そして、霧の向こうから、激しい血の匂いと、凍てつくような低い威嚇の鳴き声が聞こえてきた。
「ガルルルル……ッ!」
ルティの『獣の言語理解』が、その声を脳裏に翻訳する。
(来るな……! 汚い人間め、これ以上近づいたら、お前ごとこの空間を凍らせて引き裂いてやる……!)
「怪我をしているの……?」
ルティが霧をかき分けて進むと、そこにいたのは、月光を浴びて白銀に輝くような、美しい毛並みを持った一匹の仔狼――フェンリルだった。しかし、その美しい後ろ脚は、人間が設置した凶悪な鉄製の密猟罠(トラップ)に深く挟まれ、血が赤黒く流れ落ちていた。傷口からは、周囲の草木を凍らせるほどの、氷属性の暴走マナが冷気となって噴き出している。
「大丈夫、敵じゃないわ。私は薬師のルト。その脚、今すぐ外してあげるから動かないで」
ルティがそっと一歩を踏み出すと、フェンリルは氷のように冷徹なブルーの瞳を限界まで見開き、牙を剥いた。
「シャーーッ!」
鋭い氷の礫がルティに向けて放たれる。ルティは避けることなく、持っていた綺麗な布で傷口を縛ろうと手を伸ばした。しかし、フェンリルは激しい人間不信から、その布を鋭い牙で一瞬にして引き裂いた。さらに、彼の放った冷気の波動がルティの指先をかすめ、キィンと凍りつくような痛みが走る。ルティの指先は、軽い凍傷で赤く染まってしまった。
「うっ……つめた……」
(言ったはずだ、人間に触れられるくらいなら、ここで干からびて死んだ方がマシだ……!)
フェンリルの瞳には、深い絶望と、裏切られた者特有の激しい憎悪が宿っていた。このまま無理に罠を外そうとすれば、彼の後ろ脚の骨は完全に砕け、さらに冷気の暴走で自滅してしまう。
「物理的に抑え込むのは無理ね……なら、おじいちゃんの言っていた通りに……」
ルティはふっと息を整えると、懐から「温感ハーブオイル(カモミールとショウガの調合油)」を取り出し、自身の凍傷で赤くなった指先にたっぷりと塗った。そして、手のひらをフェンリルの鼻先に、ゆっくりと近づけた。
「これを嗅いでみて。温かくて、少し眠くなるハーブだよ」
フェンリルは、近づいてくる人間の手に噛みつこうと顎を動かした。しかし、その鼻腔を貫いたのは、血と鉄の匂いを一瞬で消し去るような、甘く、それでいてスパイスの効いた不思議な温かい香りだった。
「くしゅんっ……!」
フェンリルは思わず小さくくしゃみをした。その瞬間、彼の凍てつくような殺気が、香りの刺激によって一瞬だけ弛緩する。
「ここよ……」
ルティはその隙を見逃さなかった。彼女は解剖学の理論に基づき、フェンリルの首元、自律神経を司る魔力の滞り(経絡のツボ)を、温かい指先で的確に、そして優しく押し揉んだ。アインハルト秘伝の『もふもふマッサージ術』である。
「ふにゃ……!?」
フェンリルのブルーの瞳が、驚愕で丸くなった。ルティの指先から伝わるショウガとカモミールの温熱効果が、彼の冷え切った魔力回路を内側から優しく溶かしていく。ツボを刺激された心地よさに、フェンリルの全身の力が急速に抜けていく。
(な、何だこれ……体が、熱くて、頭がふわふわする……。気持ち、いい……?)
「ふにゃあ……」
白銀の仔狼は、完全に骨抜きになり、ルティの膝の上に「くたっ」と倒れ込んだ。耳はへにゃりと垂れ下がり、冷気の暴走も完全に沈静化している。
「よし、今のうちに!」
ルティは迅速に腰の工具を取り出し、フェンリルの後ろ脚を締め付けていた頑丈な鉄製罠のロックを解除した。カチャリと音がして罠が外れると、ルティは手際よくハーブの防腐軟膏を彼の傷口に塗り、包帯で優しく固定した。
「よく頑張ったね。さあ、おうちに帰ろう」
ルティは、すっかり眠ってしまった白銀の仔狼を両腕でそっと抱き上げ、コテージへと引き返した。
コテージに戻ると、ルティはフェンリルを居間の大きなテーブルの上に寝かせた。彼の鋭い爪が、暴れた際に自分や周囲を傷つけないよう、ルティは銀のやすりを取り出し、彼の爪を丁寧に整え始めた。
シャリ、シャリ……と、静かな部屋にやすりの音が響く。その際、フェンリルの爪の先端から、月光を浴びたようにキラキラと輝く微細な銀の粉末が、下に敷いた白紙の上に落ちていった。
「これが『銀狼の爪の削り粉』……風と氷の、凄く綺麗な魔力が宿っているわ」
ルティはそれを丁寧に集め、小さな紙包みに保管した。これは将来、風属性の血流促進薬や解毒薬を調合する際、薬効を全身に神速で循環させるための、極めて貴重な添加剤(アクティベーター)になるはずだ。
「ふにゃあ……」
やすりの振動が心地よかったのか、フェンリルはルティの膝の上に頭を乗せ、甘えるように鼻を鳴らした。ルティがその背中を優しく撫でていると――突然、寝室から凄まじい殺気と、パチパチという火花の音が響いてきた。
「ガルルルル……ッ!!」
階段を駆け下りてきたのは、目を覚ました金獅子のレオンだった。レオンは、ルティの膝の上に見知らぬ白銀の仔狼が乗っているのを目撃した瞬間、琥珀色の瞳を激怒に染め上げた。
(おい! そこの泥棒狼! そこは俺の特等席だ! 今すぐルティから離れろ、焼き尽くすぞ!)
レオンの小さな体から黄金の焔が吹き出し、コテージの床がパチパチと焦げ始める。その殺気を感じ取り、フェンリルもハッと目を覚ました。冷徹なブルーの瞳がレオンを射抜き、彼の周囲の空気が一瞬で氷結する。
(うるさいトカゲもどきめ。先にこの温もりを見つけたのはお前かもしれないが、今のこの場所は私のものだ。凍りつきたいのか?)
「にゃおーーんっ!」
「ガルルルルっ!」
ルティの膝を巡り、黄金の火花と白銀の冷気が狭い居間で激しく衝突し始めた。レオンはルティの右脚にしがみつき、フェンリルは左脚を死守するように顎を乗せる。互いに「俺の主だ」と主張するように、ルティのローブを引っ張り合うもふもふたちの縄張り争い。
「こら、二人とも喧嘩はダメ! コテージが焦げちゃうし、凍っちゃう!」
ルティが慌てて二人を両腕で抱きしめ、体温で彼らの魔力を宥めようとした、まさにその時。
バタバタと、窓から血相を変えたホーキンスが飛び込んできた。そのモノクルの奥の瞳は、かつてないほどの緊迫感に満ちていた。
「ルト! もふもふどもとじゃれ合っている場合ではない! 大変なことが起きた!」
ホーキンスはルティの肩に飛び乗り、鋭い声で告げた。
「森の境界線付近で、密猟者たちの仕掛けた罠が急激に増えている! それだけではない……あの罠の鉄には、帝国の軍事紋章が刻まれていた。奴ら、本格的にこの森の神獣たちを狩るつもりじゃ!」
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