霧深き森の薬師と、血に染まった小さな牙
辺境の最果て、帝国の監視すら届かない地図から消し去られた聖域――「霧深き魔薬の森」。
一年中立ち込める濃い霧は、招かれざる人間の五感を惑わし、その侵入を拒み続けている。
その森の奥深くにひっそりと佇む、温かみのある二階建ての木造コテージ。天井からは無数のハーブの乾燥束が吊るされ、暖炉では常に薬粥やハーブティーが優しく煮える音が響いていた。
「よし……これで『月光沈香草』の希釈液は完璧ね。温度も、祖父のノート通り……」
男装の青年薬師「ルト」を名乗る十六歳の少女、ルティ・アインハルトは、そっと額の汗を拭った。ぶかぶかな茶色の薬師ローブに身を包み、亜麻色の短髪を揺らしながら、彼女は祖父の遺品である「真鍮製蒸留器」を見つめていた。
ルティの指先はいつもハーブの緑色に染まっており、微弱な魔力しか持たない彼女は、帝国からは「魔力測定不能」のしがない野良薬師として扱われている。しかし、彼女には祖父アルベルトから受け継いだ天才的な調薬の知識と、もう一つの秘められた力があった。
「ルト兄ちゃん! 薬草の乾燥が終わったよ!」
コテージの入り口から、茶髪の少年トトが元気よく声をかけてくる。彼は森の境界で飢えていたところをルティに救われ、今は薬師見習いとして雑用を手伝っている。ルティが男装していることを知らず、純粋な憧れを向けてくれる可愛い弟弟子だ。
「ありがとう、トト。じゃあ、私は少し森の境界まで薬草の様子を見てくるね。留守番をお願いできる?」
「うん! 任せて!」
ルティは腰に無数の薬瓶を下げ、ハーブの香りが染みついたマントを羽織って外へ出た。霧の中を進むルティの肩には、野生のシマリスであるナッツがちょこんと乗り、賢い瞳で周囲を警戒している。
静寂に包まれた森を進んでいたその時、ナッツが突然「キィッ!」と鋭い警戒の声を上げ、ルティの髪の奥へと隠れた。
「どうしたの、ナッツ……?」
ルティが足を止めると、微風に乗って、鉄錆のような生臭い匂いが漂ってきた。血の匂いだ。それも、ただの野生動物のものではない。大気中の魔力を激しく乱す、異常なまでの苦痛の波動。
「きゅう……っ、う、ぅ……!」
かすかな、しかし胸を締め付けるような叫び声が聞こえた。ルティの耳に宿る『獣の言語理解』の才能が、その鳴き声を明確な言葉として脳裏に翻訳する。
(痛い……熱い……! 人間……汚い人間ども、絶対に許さない……引き裂いてやる……!)
「そんな……!」
ルティは泥を這うようにして、湿った魔力芝の茂みをかき分けた。そこにいたのは、手のひらサイズの、金色の絹糸のようなもふもふの毛並みを持つ小さな小動物だった。しかし、その愛らしい体は自身の血で真っ赤に染まり、後ろ脚は肉が裂けて骨が見えるほどの重傷を負っていた。
「大丈夫、怪我を見せて。私は薬師よ」
ルティが優しく声をかけ、そっと手を伸ばした瞬間、その金色の小獅子――退化形態となった五大獣王の長、レオンが琥珀色の瞳を血走らせて牙を剥いた。
「しゃああっ!!」
レオンの小さな体から、暴走した黄金の焔の魔力が弾けた。激しい火花がルティの手のひらを直撃し、ジュッと皮膚の焦げる嫌な音が響く。
「痛っ……!」
ルティは思わず手を引いた。手のひらには痛々しい火傷が刻まれている。レオンは瀕死でありながらも、人間への凄まじい憎悪だけで体を震わせ、再び焔を灯そうとしていた。このまま魔力を暴走させれば、彼の細い魔力回路は内側から破裂し、確実に死に至る。
ルティは一度、薬箱から布とピンセットを取り出し、物理的に傷を縛ろうとした。しかし、レオンが激しく暴れて焔のスパークを放ったため、器具は熱で弾き飛ばされ、地面に転がってしまった。
「威嚇しちゃダメ! 魔力を使い果たしたら死んじゃうわ!」
(うるさい……! 触るな、人間め! お前たちも俺を切り刻んで、あの冷たい檻に入れるつもりだろう……!)
レオンの魂の絶叫が、ルティの胸に直接突き刺さる。彼の傷口からは、普通の怪我ではない、不気味な黒い澱みが滲み出ていた。それは帝国の禁忌たる生体実験で刻まれた「魔力壊死の呪い」の術式だった。
「……アインハルトの血の戒律。救いを求める傷ついた獣を、私は絶対に拒まない」
ルティの瞳に、揺るぎない覚悟が宿った。彼女は焦げた手のひらの痛みを無視し、両腕を大きく広げた。
「『痛みの同調(簡易版)』――発動!」
ルティは暴れるレオンの小さな体を、自身の胸元へと強く抱きしめた。その瞬間、ルティの全身に、レオンが抱えていた「肉体が引き裂かれるような激痛」と「呪いによる内臓の焦げ」が津波のように逆流した。
「うっ……あ、あぐっ……!」
あまりの激痛に、ルティの視界が真っ白に染まり、目から涙がこぼれ落ちた。全身の神経が焼き切れるような痛みに、彼女の華奢な体がガタガタと震える。しかし、ルティは腕の力を決して緩めず、むしろ愛おしそうに、レオンの血まみれの頭を自身の首元に引き寄せた。
「大丈夫よ……痛いのは、私が半分引き受けるから。だから、もう怖がらないで……」
レオンは目を見開いた。自分を捕らえ、実験台にし、玩具のように扱った人間たち。その同類であるはずの目の前の少女が、なぜ自分を庇い、その痛みを自らの体で引き受けて泣いているのか。
ルティの体から放たれる、無属性の澄んだ温かい魔力が、レオンの荒れ狂う焔を優しく包み込んで溶かしていく。レオンは焔を消し、驚愕に震えながらルティの亜麻色のローブに小さな爪を立てた。
「今よ……」
小獅子が力を抜いた一瞬の隙。ルティは腰の瓶から、真鍮製蒸留器で精製したばかりの、蜂蜜のように甘く光る特殊な回復霊薬を口に含んだ。
そして、ためらうことなく、血に染まったレオンの小さな口元に自身の唇を重ねた――『甘露の口づけ』。
「ん……っ……」
エロティックで、しかしどこまでも神聖な口写し。甘く温かい薬液がレオンの喉へと流れ込んでいく。ルティの聖血の因子が含まれたその霊薬が体内に入った瞬間、レオンの額にかすかなエメラルドグリーンの光の紋様が浮かび上がった。
「きゅぅ……」
レオンの後ろ脚の深い傷口が、エメラルド色の優しい光に包まれ、急速に肉が盛り上がって塞がっていく。彼を蝕んでいた高熱が引き、荒い呼吸が次第に穏やかな寝息へと変わっていった。
「よかった……」
ルティは膝をつき、安堵の息を漏らした。手の火傷と同調による胸の痛みが未だにズキズキと疼いているが、彼女の膝の上では、すっかり傷の塞がったレオンが、ルティのローブの裾を小さな前足でぎゅっと握りしめたまま、気持ちよさそうに眠っていた。そのもふもふとした温もりが、ルティの疲れを優しく癒やしていく。
しかし、ルティがレオンの完全に塞がった脚の毛並みをそっと撫でた時、彼女の指先が、レオンの皮膚の奥深くで不気味に蠢く、微小な紫色の術式の残滓に触れた。
「これは……普通の怪我じゃない。『魔力壊死の呪い』……帝国軍の、特務研究室が使う禁忌の生体実験の刻印……?」
ルティの背筋に、冷たい戦慄が走った。この小さな金色の獣は、帝国の暗部から逃れてきた「伝説の神獣」の片割れに違いない。そして、帝国は彼を「生きた魔導素材」として、今も執拗に追い続けているはずだ。
静まり返った森の奥から、冷たい風が吹き抜け、木々がざわざわと不穏に揺れた。帝国の影が、この静かな隠れ家にまで迫りつつあることを、ルティは本能的に察知していた。
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