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強欲な監獄長と偽りの特赦

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最下層『アビス・コア』を揺るがした凄まじい闘気の残響は、空中監獄塔『アニマ・クラウストラ』の黒鉄の石壁を伝い、不気味な地鳴りとなって上層へと消えていった。


 私は、見習い看守トビーの細い肩に支えられながら、ようやく『第一特別独房』へと戻っていた。恩師アロイスの銀ペンを使用した代償である右手の完全な麻痺と、全身を苛む激しい高熱は依然として私を衰弱させていたが、失明状態から回復した瞳は、薄暗い独房の輪郭をはっきりと捉えていた。


 ベッドの背もたれに身体を預けると、首元で鈍く輝く白銀の十字架――ギルバルトの心臓の鼓動と同期した『守護の銀十字』が、ドク、ドクと彼の張り詰めた精神状態を伝えるように冷たく脈打っている。私の鎖骨の上には、かつて彼が私の首を絞めた時の赤い指の痕が、未だ鮮明に浮かび上がっていた。そして、手首を縛る抑制枷は地滑りの衝撃で微かに変形し、白磁の肌に痛々しい擦り傷を作っている。


「レイラ様、お加減はいかがですか……。冷たい水を持ってきます」


 トビーが心配そうに覗き込んできた。彼の看守服の袖口は、私が針と糸で綺麗に縫い合わせた状態のままだ。彼が私に向ける瞳には、もはや教会への盲信など微塵もなく、ただ一人の少女を『真の聖女』と仰ぐ無垢な狂信だけが宿っていた。


「ありがとう、トビー。でも、休んでいる時間はないわ」


 私は麻痺した右手をシーツの下に隠し、感覚のある左手で、懐から取り出した白銀の万年筆――アロイスの銀ペンをそっと握りしめた。最下層で没落騎士レオナールを解放したことによる魔力の奔流は、確実に監獄塔の魔力センサーに感知されている。そして、その混乱に乗じて動き出す者がいるはずだ。


 その予測は、最悪の形で的中した。


 突如として、鉄扉のロックが重々しい金属音を立てて解除された。乱暴に開け放たれた扉の向こうから現れたのは、派手な勲章を胸元に飾り立てた、恰幅の良い中年男性――監獄長オルセン・ハリスだった。その額には嫌な汗が滲み、強欲な瞳は落ち着きなく泳いでいる。


 だが、真の脅威はその背後にいた。一分の隙もない仕立ての官僚服を纏い、冷徹な眼鏡の奥から蛇のような瞳を光らせる男。教皇庁直属の監獄監査官、ウルリヒである。彼の両脇には、白銀の甲冑に身を包んだ聖堂騎士たちが殺気を放ちながら控えていた。


「最高看守ギルバルト! そこにいるな!」


 オルセンが甲高い声で叫ぶと、部屋の影から音もなくギルバルトが歩み出た。その凍てつくような青い瞳は、侵入者たちを冷酷に見下ろしている。


「監獄長。私の許可なく、この特別独房に立ち入ることは、監獄塔独自の『不可侵条約(アニマ・チャーター)』に違反する行為だ」


「黙れ、ギルバルト!」


 監査官ウルリヒが一歩前へ踏み出し、冷淡な声で宣告した。


「不可侵条約など、教皇下の御名による処刑命令の前には無価値だ。最下層で異常な魔力変動が感知された。お前がこの『国家を裏切った禁忌の罪人』レイラ・ヘイワードの即時処分を不当に引き延ばし、何らかの陰謀を企てている疑いがある。教皇庁の命令に基づき、ギルバルト、お前の最高看守の職権を一時的に停止し、この女の身柄を直ちに我々に引き渡すことを要求する!」


 ウルリヒが掲げたのは、黄金の教皇印が押された『即時秘密処刑命令書』だった。聖堂騎士たちが一斉に剣の柄に手をかける。一触即発の緊迫感が、狭い独房を支配した。


 ギルバルトの手甲が、腰の黒鉄の剣へと伸びる。彼の心臓の鼓動が、同期された銀十字を通じて私の胸を激しく揺さぶった。彼は、世界を敵に回してでも私を守るために、ここで剣を引き抜く覚悟を決めていた。


(だめよ、ギルバルト。ここで武力衝突を起こせば、教皇庁への反逆が確定し、私たちの生存権は完全に失われる……)


 私はトビーに身体を支えさせながら、ベッドの上でゆっくりと上体を起こした。蒼白な顔に冷徹な微笑を浮かべ、言葉のナイフを研ぎ澄ます。


「……お手を煩わせる必要はありません、監査官殿」


 私の掠れた、しかし凛とした声に、ウルリヒの視線が向けられた。


「何だ、死に損ないの魔女め。大人しく引き渡される気になったか?」


「いいえ。私が言いたいのは、監獄長オルセン・ハリス様が、私をここから出すわけにはいかないという事実についてです」


「な、何だと!?」


 オルセンが顔を青くして叫んだ。私は彼の微表情――激しく震える瞳孔と、引きつる口元を見逃さなかった。彼は怯えている。自らの『破滅』に。


「監獄長。あなたが裏社会の闇商人ロジャーと交わした『裏帳簿』の写しを、私はすでに確保しています。教皇庁からの特別予算を横領し、囚人の配給を削って私腹を肥やしていた事実が教皇庁に知れれば……あなたはどうなるかしら?」


「お前、なぜそれを――!」


 オルセンは完全に狼狽し、言い訳をしようと口をパクパクと動かした。ウルリヒが不審そうに監獄長を睨みつける中、私はさらに決定的な一手を突きつけた。


「そして、監査官殿。あなたが言う『即時処刑』ですが……教皇下はすでに、私に対する別の『意志』を示されています」


 私は左手で、シーツの下から一枚の羊皮紙を取り出した。それこそが、私が事前に情報屋ジルを介し、上層の独房に幽閉されている伝説の偽造師ニコラスに作成させた『偽造の教皇庁特赦指令書』であった。


「これは……特赦指令書だと!?」


 ウルリヒが目を見開いた。指令書には、教皇の直筆サインと、神聖な魔力パターンが完璧に模倣されていた。ニコラスの偽造技術は神業の領域であり、私の古代文字の知識によって、教皇の署名に隠された微細な癖までが完璧に再現されていたのだ。


「馬鹿な、偽造に決まっている! 教皇庁の厳格な『署名偽造検出法』に照らし合わせ、その真贋を確かめてやる!」


 ウルリヒは懐から、真鍮製の『鑑定の鏡』を取り出した。公文書にかざすことで、署名に込められた教皇固有の魔力波長をスキャンする鑑定魔導具だ。もし偽造と判定されれば、書類から黒い霧が噴き出し、私たちはその場で大逆罪として即時処刑される。


 ウルリヒが鑑定の鏡を指令書にかざし、起動の呪文を唱え始めた。


 その瞬間、私は『真理の眼』を起動した。視界が深紅に染まり、鑑定の鏡から伸びる金色の魔力ライン(術式)が視覚化される。私は隠し持った『アロイスの銀ペン』を左手で握り、袖の影から、その構成線に向けて見えない魔力の干渉を試みた。


(書き換えなさい……。鑑定の鏡の術式をハッキングし、この偽造署名の波長を『本物』としてスキャンを通過させるのよ!)


 脳を物理的に引き裂かれるような激しい偏頭痛が私を襲った。視界が急激にブレ、目元から一筋の血が流れ落ちる。右手の麻痺に続き、全身の魔力回路が過熱し、激しい眩暈が私を襲う。


 だが、銀ペンの先端から放たれた白銀の光が、鑑定の鏡の術式ラインへと音もなく滑り込み、その魔力波長を強制的に書き換えた。


 キィン――という微かな共鳴音と共に、鑑定の鏡が眩い黄金の光を放った。


「な……本物だと……!?」


 ウルリヒが驚愕の声を上げた。鏡に浮かび上がったのは、偽造を示す黒い霧ではなく、完全なる『真正』を示す黄金の光輪だった。教皇庁の厳格な偽造検出システムが、ニコラスの偽造と私の古代文字ハッキングの前に、完璧に屈服したのだ。


「そんなはずはない……! 教皇下が、この魔女に特赦を与えるなど……!」


 ウルリヒが動揺する中、監獄長オルセンは自らの汚職が露呈する恐怖と、目の前の『真正な特赦指令書』という絶対的な権威の前に、完全に精神的な天秤を崩した。彼は、自らの保身のためにウルリヒを裏切る決断を下したのだ。


「う、ウルリヒ監査官殿! 教皇下の特赦指令書が本物である以上、我々に彼女を処刑する権限はありません! これ以上の追及は、教皇下への不敬となりますぞ!」


 オルセンは必死の形相でウルリヒの前に立ち塞がり、聖堂騎士たちに剣を引くよう命じた。ギルバルトもまた、無言で黒鉄の剣を微かに引き抜き、彼らを物理的に威圧する。ウルリヒは歯を剥き出しにして私を睨みつけたが、これ以上の公式な追及が不可能であることを悟り、忌々しげに鑑定の鏡を懐へと収めた。


「……今回は引き下がろう、監獄長。だが、これで終わったと思うな」


 ウルリヒは冷酷な眼鏡の奥から、私に向けて蛇のような視線を突き刺し、背を向けた。そして、扉を出る間際に、凍りつくような捨て台詞を残した。


「聖堂騎士団審問官長バルザック閣下の精鋭部隊が、すでにこの監獄塔の門前まで迫っている。教皇下の『真の神託』を手にした閣下の前で、その偽りの紙切れがどこまで通用するか、見物だな……」


 鉄扉が重々しい音を立てて閉まり、独房に沈黙が戻ってきた。


「はっ、う……」


 緊張の糸が切れた瞬間、私は激しい眩暈と魔力過負荷による高熱に耐えかね、ベッドの上に崩れ落ちた。アロイスの銀ペンを握っていた左手から力が抜け、ペンがシーツの上に転がる。


「レイラ!」


 ギルバルトが素早く私を抱き起こし、その強靭な腕で私の身体を支えた。彼の同期された心臓の鼓動が、私の首元の銀十字を通じて、激しい焦燥と怒りとなって脈打っている。


 処刑を一時的に回避し、オルセンを社会的に掌握することには成功した。しかし、教皇庁が放った最凶の刺客、審問官長バルザックの脅威が、すぐ目の前まで迫っていた――。

HẾT CHƯƠNG

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