深淵の剣士と黒鉄の鎖
世界を覆っていた漆黒の夜が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。
恩師アロイスの遺産――『アロイスの銀ペン』を使用した代償による一時的な失明から、私の視界はようやく回復しつつあった。白磁の肌に映える漆黒の髪を指先で払いながら、私は第一特別独房のベッドの上で静かに瞳を開く。まだ視界の端々に細かな光のノイズが走るものの、石造りの冷たい壁や、ギルバルトが運び込ませた贅沢な高級シーツの質感は、はっきりとその輪郭を取り戻していた。
首元に触れると、鈍く輝く白銀の十字架――ギルバルトの心臓の鼓動と同期した『守護の銀十字』が、ドク、ドクと彼の冷徹な魔力を伴って一定の拍動を刻んでいる。彼が私を他の男から、そして教皇庁の魔手から隔離し、この腕の中に閉じ込めておきたいという狂気的な「幽閉欲求」は、この数日間の過保護な介護(スプーンで食事を運ばれるという、倒錯的なお世話)によってさらに深まっていた。
だが、私は籠の中の鳥で終わるつもりはない。急進派の異端審問官候補生マクシミリアンが、監獄長オルセンを買収して私の独房を強制捜索しようと廊下の奥で蠢いている。この包囲網を突破し、生存権を確保するためには、ギルバルトやユリウスといった看守たちの知略による支配だけでは足りない。私個人に絶対の忠誠を誓い、いかなる神聖魔術をも物理的に切り裂く「最初の盾(剣)」が必要だった。
そのための駒は、すでに私の脳内データベースに存在する。監獄塔の最下層、一切の光が届かない絶対零度の暗黒空間――深淵の底「アビス・コア」に永久封印されている没落騎士、レオナール・ド・ブランシュ。
私はギルバルトが執務室から戻った際、彼の「微表情分析」と「真理の眼」を並行して起動し、静かに交渉を持ちかけた。
「ギルバルト様。先日の地滑りにより、この監獄塔の最下層を流れる魔力ラインに致命的な歪みが生じています。もし放置すれば、空中結界のバランスが崩れ、塔全体が雲海へと落下しかねません。目が見えるようになった私に、その歪みを『点検』させてはいただけないでしょうか」
ギルバルトは、私の目を他の男(特にユリウス)に見せたくないという独占欲と、私の病弱な身体をこれ以上危険に晒したくないという保護欲の間で激しく葛藤した。しかし、彼の心臓の鼓動を同期した銀十字が、私の生存への強い意志を伝えた瞬間、彼は重い溜息を吐き、私の「点検」を黙認した。ただし、最も信頼できる見習い看守トビーを護衛として同行させるという条件付きで。
「レイラ様、本当に大丈夫ですか……?」
サイズの合わない大きめの看守服を着たトビーが、ランタンを手に私の斜め後ろを歩く。彼の袖口は、私が針と糸で綺麗に縫い合わせた状態のままだ。彼が私に向ける瞳には、もはや教会への盲信はなく、ただ一人の少女を「真の聖女」と仰ぐ無垢な狂信だけが宿っていた。
「ええ、大丈夫よ、トビー。案内してちょうだい。この塔の、最も深い闇へ」
螺旋階段を降りるにつれ、気温は急激に低下し、大気そのものが凍りついていく。地下百メートル――そこは、囚人たちの怨念が結晶化した「禁忌の黒鉄」の匂いと、呼吸すら困難なほどの魔力吸引圧が支配する深淵の底「アビス・コア」だった。常人が立ち入れば数分で魔力を吸い尽くされて即死する結界領域だが、私の『真理の眼(エピステメー・アイ)』は、青く光る安全な魔力循環のバイパス(死角)を正確に描き出し、私たちの肉体を保護していた。
最奥の氷の牢獄。その中心に、彼はいた。
壁から伸びる無数の極太い黒鉄の鎖――『聖なる拒絶の鎖』に四肢を縛り付けられ、半裸の頑強な肉体を晒した銀髪の男。右目には黒い眼帯が嵌められ、露出した肌には無数の戦闘傷と、教皇庁による過酷な拷問の痕が痛々しく刻まれている。彼こそが、冤罪によってすべてを奪われ、廃人と化していた元聖堂騎士団副団長、レオナール・ド・ブランシュだった。
私たちの足音が静寂を破った瞬間、レオナールの唯一の左目が、眼帯の奥から獰猛な野獣のように見開かれた。
「ガ、ラァッ……!」
重い黒鉄の鎖が激しく金属音を立てて鳴り響く。魔力を完全に封じられているはずの彼の肉体から、皮膚を物理的に切り裂くほどの凄まじい、野生的な「殺気」が解き放たれた。トビーが悲鳴を上げてランタンを掲げ、私の前に立ち塞がろうとする。
「下がれ、教皇の犬ども……! 俺からこれ以上、何を奪うつもりだ……!」
彼の声は、長年の沈黙によって掠れ、まるで氷の破片を擦り合わせたように冷たく、死に絶えていた。彼は私を、自分を陥れた教会本部の新たな審問官、あるいは嘲笑いに来た使者だと誤解しているのだ。
私はトビーの肩を優しく押し、一歩前へと踏み出した。私の『真理の眼』が、レオナールの身体を包む赤い魔力線を捉える。彼の強靭な魔力回路は、手首と足首を縛る『聖なる拒絶の鎖』によって完全に窒息させられ、心臓の奥には、裏切りと不条理に対する漆黒の絶望(トラウマ)が、硬い結び目となって蠢いていた。
さらに『微表情分析』が、彼の唇の微かな震えと、視線の奥に隠された「正義を信じて裏切られた者の、引き裂かれるような悲哀」を暴き出す。
「私は教皇の犬ではありません、 Sir レオナール。あなたと同じ、不条理な神威によって死罪を宣告された、ただの囚人です」
私の静かな、しかし凛とした声が、絶対零度の暗黒に響く。レオナールは微かに息を呑み、隻眼の瞳に戸惑いの光を浮かべた。
「嘘を言うな……。そんな白磁の肌をした脆い小娘が、なぜこのアビス・コアに立てる……」
「あなたが信じた正義は、本物でした。あなたはただ、彼らの『偽りの光』を暴きそうになったから、この暗闇の底に遺棄されたのです。あなたの高潔な剣は、決して間違っていなかった」
「……黙れ……! その言葉が、どれほど俺の耳を汚すか分かっているのか……!」
レオナールは激しく鎖を震わせ、さらに狂暴な殺気を放った。だが、彼の赤い魔力線の結び目が、私の「正義の肯定」によって激しく揺らぎ、崩壊し始めているのを私は見逃さなかった。彼の心は、自らの正義を誰かに認めてほしくて、血を流しながら泣いていたのだ。
「証明して見せます。あなたの鎖を、私が今ここで解き放つことで」
私は彼の目の前まで歩み寄り、冷たい黒鉄の鎖に直接、両手を伸ばした。
「レイラ様、危険です! その鎖は魔力を吸い尽くします!」
トビーの静止の声が響くのと同時に、私の指先が『聖なる拒絶の鎖』のコアに触れた。瞬間、心臓を直接冷たい手で握られたような激しい衝撃が走り、私の体内の微弱な魔力が一瞬にして根こそぎ吸い取られた。頭の芯が激しく揺れ、視界が急激に暗転する。
「うっ……!」
私は平衡感覚を失い、前方へと崩れ落ちた。私の身体を受け止めたのは、冷たい石床ではなく、レオナールの強靭で、無数の傷跡に覆われた温かい胸板だった。彼の肌から漂う、野生の鉄の匂いと、古い血の匂いが私の鼻腔を満たす。レオナールは、突然自らの胸に飛び込んできた儚く、熱い少女の身体に、驚愕して身体を強張らせた。
「お前……、何を……」
「……まだ、終わっていません」
私は彼の胸に額を預けたまま、感覚を失いつつある右手で、シーツの下から持ち出していた『アロイスの銀ペン』をしっかりと握りしめた。脳を焼き焦がすような激しい偏頭痛に耐えながら、私は深紅の瞳を大きく見開く。
真理の眼が、鎖の魔力吸収術式の最も脆弱な「接続点(バグ)」を赤く輝く線として捉えた。私は左手でレオナールの冷たい鎖を固定し、感覚のない右手の銀ペンを、その接続点に向けて空中に滑らせた。
白銀のインクが、暗闇の中に鮮烈な軌跡を描く。私が描いたのは、アロイス先生の遺志から受け継いだ、古代の真理文字――『解放と反転(スクリプト・リバース)』。
「世界よ、契約を書き換えなさい。この鎖が吸い取る魔力を、彼の魔力回路へと強制的に『還流』させよ」
私が古代文字を書き終えた瞬間、銀ペンの先端から放たれた白銀の光が、黒鉄の鎖に刻まれていた教皇の呪印へと物理的に衝突した。キィィィンという、鼓膜を物理的に引き裂くような高周波の金属音がアビス・コア全体に鳴り響く。
次の瞬間、鎖の魔力吸収機能が完全に「反転」した。周囲の怨念のエーテルが、鎖を通じてレオナールの肉体へと爆発的に逆流し始める。彼の体内で滞り、萎縮していた『聖堂騎士・特務看守級』の圧倒的な闘気が、一気に活性化して全身の血管を黒く浮かび上がらせた。
「おおお、おおおおおああっ!!」
レオナールが咆哮した。彼の筋肉が爆発的に膨張し、闘気の暴風が吹き荒れる。バキ、バキバキィン! と、監獄塔が誇る最強の拘束具『聖なる拒絶の鎖』が、内側からの圧倒的なエネルギーに耐えかねて、ガラスのように物理的に砕け散った。
吹き飛んだ黒鉄の破片が氷の床に転がり、重い静寂が戻ってくる。自由を得たレオナールは、自らの両手を見つめ、信じられないというように隻眼の瞳を震わせた。彼の魔力回路は完全に再生し、かつての一騎当千の騎士としての力が、その強靭な肉体に満ち満ちている。
彼はゆっくりと私を見下ろした。その隻眼には、驚愕と、畏怖、そして暗闇から自分を救い出してくれた「光」に対する、狂信的なまでの敬意が宿っていた。
レオナールは、私の足元に静かに膝を突き、その大きな頭(こうべ)を垂れた。
「……我が主(マスター)。このレオナール・ド・ブランシュ、今この瞬間より、あなたを我が唯一の光と仰ぐ。俺の命も、俺の剣も、すべてあなたの敵を滅ぼすために捧げよう」
彼が私の細い指先を取り、誓いの口づけを交わそうとしたその時、アビス・コアの最深部、底なしの亀裂の奥から、不気味な魔力の共鳴音が響き渡った。
ゴ、ゴゴゴゴゴ……!
大気が激しく振動し、氷の床が大きく波打つ。レオナールは隻眼を鋭く光らせ、亀裂の底へと視線を向けた。そこには、魔力を一切帯びず、逆に周囲の光を吸い込むように佇む、不気味で重厚な超巨大剣が突き刺さっていた。――『深淵の黒鉄剣』。
レオナールは立ち上がり、私を一瞥すると、その巨大な柄へと迷わず手を伸ばした。彼の手が柄を握りしめ、一気に引き抜いた瞬間、アビス・コアの全域に、天を衝くほどの圧倒的な漆黒の闘気が吹き荒れ、監獄塔全体の石壁が、悲鳴を上げるように激しく揺れ動き始めた――。
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