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白銀のペンと失われた視界

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視界が、漆黒の奈落へと融けていく。


 白銀のペン――恩師アロイスが遺した『アロイスの銀ペン』をその手に握りしめた瞬間、私の世界は一変した。脳髄に直接流し込まれた膨大な世界の「赤い術式の線」。空中監獄塔「アニマ・クラウストラ」の魔力供給システム、教皇庁が隠蔽してきた搾取の構造、それらすべてが一瞬にして私の矮小な脳へと逆流したのだ。


 その代償は、病弱な私の肉体にとってあまりにも苛烈だった。


「はあ、はあ……、っ……!」


 右手の感覚が完全に消失していた。指先から凍りつくような冷気が広がり、まるで鉛の塊のように重く垂れ下がっている。それだけではない。こめかみを太い針で貫かれたような激しい偏頭痛が脳を物理的に引き裂き、視神経を内側から焼き焦がしていく。目の前が激しく歪み、やがて光の粒子が一つ、また一つと消え去り――完全な、暗黒の静寂が訪れた。


 目が見えない。世界が、真っ暗に塗り潰されてしまったのだ。


 しかし、感傷に浸る時間は一秒たりとも残されていなかった。頭上の崩落した床の隙間から、冷たい風と共に、聞き慣れた重い足音が響いてくる。地鳴りのように低く、容赦のない鉄靴の響き。最高看守ギルバルトが、地下書庫の起動によって生じた不審な魔力波動を察知し、私の「第一特別独房」へと急行してきているのだ。


(隠さなければ……。このペンと、魔導書を、彼の目から……!)


 私は麻痺した右手を左手で強引に引きずり、床の上に崩れ落ちた。指先が冷たい石畳に触れる。視覚を失った私の世界では、触覚だけが唯一の道標だった。手探りで、崩落した瓦礫の陰、そしてシーツの下へと身体を這わせる。そこにはトビーから受け取った『秘密通信の暗号筒』が隠されているはずだ。


 左手でシーツの隙間を抉り、銀ペンと、衣服の裏に忍ばせていた『クロノスの書記官の書録』を、その暗号筒のすぐ隣へと押し込む。指先が血の滲むような冷たさに凍え、手首を縛る「聖なる拒絶の鎖」が不協和音を立ててきしんだ。崩落の衝撃で微かに変形した抑制枷が、私の細い手首に食い込み、鋭い痛みを走らせる。


 ガシャァン!


 鉄扉が、氷結魔導の暴力的な圧力によって内側から吹き飛ばされた。凄まじい冷気が独房内へと吹き込み、私の白磁の肌に無数の鳥肌を立たせる。冬の霜をそのまま凝縮したような、圧倒的な氷の匂い。ギルバルトだ。


「……そこにいるのは、誰だ。私の独房で、何をしている」


 私は床に突っ伏したまま、掠れた声を絞り出した。視界は依然として真っ暗なままだ。ただ、ギルバルトが放つ『審問官長・最高看守級』の圧倒的な魔力威圧が、物理的な圧力となって私の皮膚を締め上げていくのだけが分かった。


「レイラ……!」


 低い、そして怒りと焦燥に満ちた声音が、私の耳朶を打つ。重い甲冑がきしむ音と共に、ギルバルトが瓦礫を踏み越えて近づいてくる。私の首元に嵌められた『守護の銀十字』が、彼の心臓の鼓動と同調して、ドクドクと冷たく、しかし激しく脈打ち始めた。彼が今、どれほど動揺しているかが、その鼓動を通じて私の魂へと直接伝わってくる。


 私の身体が、強靭な両腕によって乱暴に抱き起こされた。冷徹な黒鉄の手甲が私の肩に食い込み、首元に残る彼の赤い指の痕を微かに擦る。


「この魔力の残滓は何だ。お前、ここで何を――」


 ギルバルトの言葉が、途中でぴたりと止まった。彼の手甲が、私の頬に触れる。私の顔は高熱で異常に火照っており、瞳は虚ろに開かれたまま、彼の青い瞳を捉えることなく泳いでいた。


「レイラ? お前、目が……」


「ギルバルト、様……?」


 私は焦点を結ばない瞳を虚空に向け、彼の冷たい胸当てに向けて、震える左手を伸ばした。指先が、彼の頑強な黒鉄の鎧の質感に触れる。鎧の隙間から漏れ出る、彼の体温と、凍てつくような氷の魔力の匂い。


「暗いのです……。何も、見えません。あなたがそこにいるのは分かりますが……、世界が、真っ暗なのです」


 私の弱々しい囁きに、ギルバルトの身体が目に見えて硬直した。彼の胸の鼓動が、同期された銀十字を介して私の心臓を激しく揺さぶる。その脈拍は、驚愕と、そして言葉にできない激しい「独占欲」と「保護欲」の混ざり合った暴風のようだった。


「失明している……? なぜだ。地滑りの衝撃か、それともお前の身体が限界を迎えたのか……!」


「分かりません……。ただ、頭が割れるように痛くて、右手の感覚もなくて……。お願いです、私を置いていかないで。暗闇の中に、一人にしないでください……」


 私は彼の胸の鎧を、左手の指先で必死に掴んだ。病弱な私の肉体が、極限の無防備さをもって彼に依存している。その事実が、ギルバルトの心に巣食う、過去の虐殺の罪悪感と、それゆえに抱く「彼女を絶対に失いたくない」という狂気的な独占欲を刺激しないはずがなかった。


「……お前を置いていくわけがないだろう」


 ギルバルトの声から、先ほどの冷徹な怒りが完全に消え去っていた。代わりに満ちていたのは、他者が付け入る隙を一切与えない、重苦しいほどの支配の響きだ。


「お前を守るのは俺だ。教皇庁の犬どもにも、あのサディストの錬金術師にも、お前の一滴の血すら触れさせはしない。お前をこの独房に、俺の腕の中に閉じ込めておく」


 彼は私の身体を軽々と抱き上げた。黒鉄の鎧の冷たさが私の熱い肌に心地よく、私は彼の胸にそっと額を預けた。視覚を奪われた私は、彼の低い声の振動を、その胸から直接、自らの骨で聴いていた。


「あなたの声だけが、今の私の光です。ギルバルト様……」


 私の囁きが、彼の精神を完全に呪縛していくのを、私は暗闇の中で確信していた。彼は自らの命と同期した銀十字を握りしめ、私をベッドへと優しく横たえた。地滑りで半壊したはずの独房は、ギルバルトの配慮によって、いつの間にか高級な毛布や敷物が運び込まれ、冷たい檻から歪んだ「聖域」へと変貌しつつあった。


 ギルバルトは私の傍らに腰掛け、不器用な手つきで、私の病弱な身体を毛布で包み込む。彼の手甲が外され、冷たくも逞しい素肌の手が、私の頬の涙を拭った。


「食事を運ばせる。お前は何も考えず、俺の言うことだけを聞いていればいい」


 彼の低い声が、暗闇の中で優しく、しかし絶対的な命令として響く。私はただ、無言で頷き、彼の過保護な世話を受け入れる姿勢を示した。手首の「聖なる拒絶の鎖」が微かに音を立てる。普段は私を縛るはずの鎖が、今や彼を私の足元に繋ぎ止めるための、精神的な絆へと反転していた。


 しばらくして、鉄扉が静かに開く音がした。入ってきたのは、トビーの軽い足音と、マルタが用意した温かいスープの匂いだ。トビーの看守服の袖口が、私の手によって綺麗に縫い合わされているのを、私は視覚ではなく、彼の微かな気配と動作の音で感じ取る。


「レイラ様! スープを持ってきました……って、最高看守閣下!?」


 トビーの怯えた声が響く。ギルバルトは冷酷な一瞥を彼にくれたのだろう、トビーが小さく息を呑む音が聞こえた。


「スープを置いて下がれ。……これからは、俺が直接あいつに食事を与える」


 ギルバルトの言葉に、私は暗闇の中で微かに唇を歪めた。スプーンが皿に触れる金属音が響き、ギルバルトが私の身体を支え起こす。冷たいスプーンが私の唇に触れ、温かいスープが口内へと運ばれる。最高看守が囚人を「お世話する」という、倒錯的で甘美な沈黙が独房を満たしていく。


 しかし、その甘美な揺り籠の外では、新たなる破滅の足音が確実に近づいていた。


 独房の外、薄暗い廊下の奥で、不穏な魔力の残滓が蠢いているのを、私の『真理の眼』の残照が微かに感知した。異端審問官候補生マクシミリアン。ギルバルトの不在を狙い、教皇の即時処刑命令を強行しようとする急進派の影が、この第一特別独房のすぐ目の前まで迫っていた――。

HẾT CHƯƠNG

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