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深淵の隠し書庫と覚醒の銀ペン

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覗き窓の奥から向けられたゲルハルトの鉄のような視線が外れるまで、独房の中には息の詰まるような静寂が満ちていた。私はベッドの上で微かに息を乱しながら、シーツの下に滑り込ませた真鍮の『秘密通信の暗号筒』の冷たい感触を指先で確かめる。トビーが私に託した無垢な忠誠と、彼に宿る旧王家の血脈。それは教皇庁という巨大な虚飾の壁に穿つ、最初の小さな楔だった。


「トビー、もう行きなさい。これ以上ここにいれば、あの男に不審を抱かれるわ」


 私の掠れた囁きに、トビーは涙の痕が残る顔を強張らせて深く頷いた。彼は音を立てないよう、自身の風属性の微弱な魔力を足元に纏わせ、影のように音もなく独房の鉄扉へと向かう。覗き窓の向こうの気配が完全に消え去った瞬間を狙い、トビーは巧みに扉のロックをすり抜けて廊下へと脱出した。


 私は一人、深く息を吐き出してシーツに身を沈める。ユリウスの薬湯のおかげで高熱は幾分和らいだが、真理の眼を酷使した反動による偏頭痛は、今もこめかみの奥で鋭い針のように疼いていた。ギルバルトとユリウスは、監獄長オルセンの執務室へと向かっている。監査官ウルリヒの目を欺くための時間稼ぎは、そう長くは持たないはずだ。一刻も早く、この監獄塔の「真の機能」を暴き、生き残るための決定的な切り札を手にしなければならない。


 その時だった。


 ゴゴゴゴ、と鼓膜を震わせる不気味な地鳴りが、空中監獄塔「アニマ・クラウストラ」の巨体を激しく揺らした。


「……っ!?」


 ベッドが大きく傾ぎ、私はシーツを掴んで辛うじて身体を支える。石造りの壁がきしみ、天井から細かな塵が容赦なく降り注ぐ。ただの嵐による揺れではない。監獄塔が接する絶壁のどこかで、大規模な地滑りが発生したのだ。浮遊機関のエーテル・エンジンが悲鳴のような駆動音を上げ、塔全体が不自然な角度で傾斜していく。


 激しい衝撃が私の独房を襲った瞬間、メキメキと不吉な音が響いた。ベッドのすぐ脇、何百年もの間、頑強な魔導結界によって守られていたはずの石畳の床が、地滑りの圧力に耐えかねて大きくひび割れ、崩落したのだ。


 ガラガラと音を立てて瓦礫が崩れ落ちた暗闇の奥から、冷たい風が吹き上げてくる。それは監獄の湿った空気とは異なる、古びた紙の匂いと、微かな魔力の残滓を孕んだ風だった。


「これは……」


 私は痛む身体を引きずるようにして、崩落した床の縁へと這い寄る。割れた石畳の隙間から下を覗き込むと、そこには暗黒の奈落ではなく、下層へと続く螺旋状の石段が、不気味に、しかし誘うように口を開けていた。石段の壁面には、肉眼では見えないはずの、極めて微細な金色の光の紋様が走っている。


 間違いない。恩師アロイスが、教皇庁の目を盗んで監獄塔の地滑り構造の裏に隠蔽した、失われた真理の領域。


(『アロイスの隠し地下書庫』……本当に、ここにあったのね)


 ギルバルトたちが戻ってくるまでの時間は残り僅か。ゲルハルトが地滑りの混乱で避難誘導に追われている今こそ、千載一遇の好機だった。私は手首を縛る抑制枷の重さに耐えながら、意を決して暗い石段へと身体を滑り込ませた。


 冷たい石の感触が、病弱な私の肉体から体温を奪っていく。一歩、また一歩と暗闇の奥深くへと降りていくにつれ、頭上の地鳴りは遠ざかり、代わりに静寂が周囲を満たしていく。どれほど降りただろうか。やがて視界が開け、私は息を呑んだ。


 そこは、天井の届かない巨大な地下空間だった。壁一面を埋め尽くす巨大な書架には、教皇庁が「禁書」として歴史から抹殺したはずの古文書が、埃を被ったまま静かに眠っている。中央では、真鍮製の巨大な歯車が音もなく噛み合い、水晶の球体が淡い燐光を放ちながらゆっくりと回転していた。


 しかし、その神秘的な光景に浸る猶予は与えられなかった。


「侵入者を確認。アロイスの隠し書庫への不法立ち入りを検知した」


 冷徹で金属質な声が、静寂を切り裂いた。書庫の中央、水晶の光の陰から、古びた真鍮と水晶で造られた一体の人形が音もなく滑り出てくる。執事の姿を模した美しい思念体――「ガリウス」。アロイスが遺した、この書庫の絶対的な守護霊だった。


 ガリウスの水晶の瞳が不気味な青い光を放ち、私の身体を凝視する。その瞬間、足元の石畳に幾何学的な光の魔法陣が浮かび上がり、私の周囲を囲む頑強な防衛結界が起動した。――『隠し書庫の試練規則』。


「資格なき者よ。これより、最初の創造主が交わした契約の真名を問う。誤答すれば、汝の脳は知識の奔流によって灼き尽くされ、精神は永久に崩壊するだろう」


 脳内に直接響くガリウスの警告は、単なる脅しではなかった。私の『真理の眼』が、彼の体内から伸びる無数の赤い魔力線が、私の脳(精神防壁)へと直接牙を剥くように接続されているのを捉えていた。答える猶予は、水晶球が一周するまでの短い時間。


「さあ、答えよ。神が人類に与えた、最初の光の契約書の真名を」


 ガリウスの問いに対し、私はかつて聖堂書記院で学んだ最高峰の神学知識を脳裏に巡らせる。教会の公式な経典に記された、最初の契約の名は――『ルクス・エテルナの誓約』。


「その真名は……『ルクス・エテルナの誓約』よ」


 私が答えた瞬間、ガリウスの瞳の青い光が、不吉な赤色へと変調した。


「――誤答。それは偽りの神官が書き換えた偽名なり」


 ドクン、と脳裏に凄まじい衝撃波が叩き込まれた。目の前が真っ白になり、私は激しい激痛に絶叫を上げてその場に膝を突く。抑制枷が冷たい石床に当たり、甲高い音を立てた。耳の奥からキィィンという金属音が鳴り響き、鼻腔から生温かい血が滴り落ちる。


(強い……! 真正面から教会の知識で答えようとすれば、本当に脳を焼き切られる……!)


 ガリウスの体内の赤い線が、さらに太く、鋭く変色し、私の精神を完全に破壊するための第二の波導を充填し始める。病弱な私の肉体は、すでにこの一度の衝撃だけで崩壊寸前だった。視界がかすみ、呼吸が冷たく掠れる。


 だが、私は諦めない。私は震える指先で冷たい石床を掴み、奥歯を噛み締めて顔を上げた。――『真理の眼(エピステメー・アイ)』!


 私の瞳が深紅に輝き、世界の物理法則が赤と黒の線の束へと解体される。私は、ガリウスの真鍮の身体の奥、彼の核となる魔導回路の「流れ」を凝視した。


(……おかしいわ。アロイス先生が、こんな冷酷なだけの防衛システムを遺すはずがない。私のような、魔力を封じられた弟子がここへ辿り着くことを、先生は予期していたはず……)


 真理の眼が、ガリウスの核に刻まれた古代文字の術式をスキャニングしていく。その時、私は術式の最深部、エネルギーが循環するノードの端に、奇妙な「歪み」を発見した。それは、一見すると構築ミスのように見える、微細な術式のバグ。


 いや、バグではない。それは、アロイス先生が好んで用いていた、古代文字の「二重記述」の個人的な癖(シグネチャー)だった。先生は、正当な弟子だけがこのシステムを無傷で突破できるよう、裏口(バックドア)を仕込んでいたのだ。


 そのバックドアを起動するための条件は――言葉による解答ではない。アロイスの血脈、あるいは彼の知識を完全に継承した者の「適合する血の署名」。


「第二の問いを課す。資格なき者よ、脳を灼かれる覚悟はあるか」


 ガリウスが冷酷に手を掲げ、精神を破壊する赤き光が極限まで高まる。私はその威圧に耐えながら、抑制枷に縛られた右手の指先を、口元へと運んだ。そして、鋭い犬歯で、躊躇なく自らの指先を深く噛み破る。


「はあ、はあ……」


 白磁の肌から、鮮やかな赤い血が滲み出す。私はその傷ついた指を伸ばし、目の前に展開されているガリウスの防衛結界の、まさに「二重記述のバグ」が蠢く赤い光の線へと、直接押し付けた。


「適合を開始せよ。――アロイス・フォン・シュタインの正当なる継承者、レイラ・ヘイワードの名において、この術式の契約を上書き(ハック)する!」


 私の血が結界の魔力線に触れた瞬間、ジュウ、と肉の焦げるような音と共に、眩い白銀の光が弾けた。


 ガリウスの身体が激しく痙攣し、彼の瞳の赤い光が一瞬にして消失する。体内を流れていた精神破壊の術式が、私の血の因子を感知したことで「正当なマスターキー」として認識され、強制的に沈黙したのだ。足元の魔法陣が静かに光を失い、防衛結界が霧散していく。


「……適合を確認。魔力波長、および血脈因子の合致率、九十八パーセント。汝を、アロイス・フォン・シュタインの正当なる継承者と認定します」


 ガリウスの金属質な声から冷酷さが消え、代わりに深い敬意を帯びた執事のような響きが戻ってきた。彼は私の前に深く頭を垂れ、その真鍮の身体を折り曲げて跪く。


「ようこそ、我が主。アロイス様の遺産は、何百年もの間、この深淵にて汝の到来を待っておりました」


 ガリウスが指先を鳴らすと、中央の水晶球が二つに割れ、その内部から一条の白銀の光が立ち上った。光の中に浮かび上がったのは、一冊の重厚な黒い魔導書『クロノスの書記官の書録』、そして――白銀の繊細な彫刻が施された、一振りの美しい万年筆型の魔導具だった。


「アロイスの銀ペン……」


 私は震える手で、その白銀のペンを手に取る。ペン先には、空間に古代文字を固定化するための特殊な『アロイスの暗号インク』が、すでに満たされていた。アロイス先生が、命を賭して教会から守り抜いた、世界の理を書き換えるための究極の筆記具。


 そのペン軸を指先で握りしめた、まさにその瞬間だった。


 ドクン、と私の心臓が、かつてないほどの激しさで跳ね上がった。


「あ……、ああっ……!?」


 銀ペンを通じて、私の体内に莫大な古代の魔力が逆流してくる。私の『真理の眼』が、私の意志を完全に無視して暴走を始めた。私の視界は真っ赤に染まり、空中監獄塔全体、いや、世界そのものを構成する無数の「赤い術式の線」が、脳裏へと強制的に流れ込んでくる。


 教皇が仕掛けた魂の搾取システム、監獄の壁に埋め込まれた禁忌の黒鉄の循環、そして――この書庫の起動によって揺らいだ、監獄塔全体の魔力バランス。膨大すぎる情報の奔流が、病弱な私の脳と肉体を内側から焼き焦がしていく。


「はあ、はあ……っ、うああっ!」


 銀ペンを握る右手の感覚が、急速に麻痺していく。指先から凍りつくような冷気が広がり、偏頭痛は脳を物理的に引き裂くような激痛へと変わる。視界が激しく歪み、世界が真っ暗な闇へと沈み込んでいく。強大すぎる魔力の代償が、私の脆弱な肉体を無慈悲に蝕み始めていた。


 その時、頭上の崩落した床の隙間から、凍てつくような冷気と共に、聞き慣れた重い足音が響いてきた。


(……ギルバルトが、戻ってきた……!)


 不審な魔力反応を察知した最高看守が、私の独房へと急行してくる。私は感覚を失いつつある右手で銀ペンを必死に抱きしめ、暗闇の中で激しい呼吸の乱れを堪えながら、冷たい石床の上に崩れ落ちた。

HẾT CHƯƠNG

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