錬金術師のサディスティックな歓愉
「オルセンとウルリヒが来る。……レイラ、俺の背後に隠れていろ」
ギルバルトの低く掠れた声が、私の鼓膜を震わせた。彼の強靭な腕が、私の病弱な身体を羽毛のように軽く抱き上げ、重厚な執務机の陰へと隠す。私の首元では、彼から授けられた『守護の銀十字』が、彼の激しく波立つ心臓の鼓動と同期して、どきんどきんと熱く脈打っていた。
その直後、執務室の扉が耳障りな音を立てて乱暴に押し開けられた。
「ギルバルト! 処刑はまだ行われていないのか!?」
部屋に踏み込んできたのは、肥満体をきらびやかな勲章で飾った監獄長オルセン・ハリスと、その背後に控える教皇庁の特別監査官ウルリヒだった。ウルリヒは冷徹な眼光を眼鏡の奥に光らせ、手にした「絶対監査権限の書類」を苛立たしげに振っている。
「神勅が下ってからすでに一日が経過している。大逆罪人レイラ・ヘイワードの即時処分を確認せねば、教皇庁への報告に支障が出るのだぞ!」
ウルリヒの高圧的な声が室内に響き渡る。だが、ギルバルトは微動だにせず、鉄壁の如き体躯で彼らの視線を遮った。彼の全身から放たれる氷結の魔力が、部屋の空気を一瞬にして氷点下へと引き下げる。
「監査官殿、処刑の執行は一時保留とせざるを得ない。囚人の魔力抑制枷が異常な暴走を起こし、今無理に命を絶てば、この監獄塔を維持する『エーテル・エンジン』に魔力の逆流が起きる。塔全体の崩壊を望むのであれば、今すぐここで彼女の首を撥ねてみせよう」
「な、何だと……!?」
オルセンが青ざめて後ずさりする。ギルバルトの言葉は冷酷な脅迫だったが、アニマ・チャーター(監獄塔独自の不可侵条約)を盾にした完璧な論理でもあった。ウルリヒは忌々しげに歯噛みし、机の上の未署名の執行書を睨みつける。
「言い訳は不要だ! ならば、その魔力の暴走とやらを今すぐ鎮めよ! 我々は長居するつもりはないのだ!」
膠着する沈黙を破ったのは、部屋の隅から聞こえた、低く冷ややかな含み笑いだった。
「おやおや、相変わらずせっかちな方々だ。そんなに急いで極上の実験体を壊してしまっては、もったいないでしょう?」
影から滑り出るように現れたのは、白い研究衣をだらしなく羽織った男――錬金術師ユリウス・フォン・アインハルトだった。彼の切れ長の瞳が、前髪の隙間から怪しげな光を放っている。彼は最高看守の背後に隠された私へと視線を向け、薄い唇を愉悦に歪めた。
「監獄長、そして監査官殿。彼女の治療と『調整』は、私にお任せいただきましょう。地下の調薬室で私の特殊な錬金薬を投与すれば、魔力の暴走は数時間で鎮まります。その後で、じっくりと尋問するなり処分するなりすれば良い」
ユリウスの言葉に、ウルリヒは疑わしげな目を向けたが、オルセンは自らの保身のために飛びついた。「おお、ユリウス! お前の錬金術なら確実だな。よし、その囚人を地下へ連れて行け!」
ギルバルトの身体が微かに強張る。彼の心臓が激しく脈打つのが、私の首元の銀十字を通じて伝わってきた。彼は私をユリウスに渡したくないのだ。だが、この政治的窮地を脱するには、これ以上の選択肢はなかった。私はギルバルトの鎧の隙間から、彼の指先にそっと触れ、静かに首を振った。
「……分かりました。地下へ行きましょう」
私の掠れた声が、密室に響く。ユリウスは満足げに目を細め、私の元へと歩み寄ると、私の細い身体を容赦なく抱き上げた。ギルバルトの氷の瞳が、ユリウスを殺気立って睨みつける。だが、ユリウスはそれを冷笑で受け流し、私を抱いたまま、仄暗い地下へと続く階段を降りて行った。
*
地下百メートル。常に不気味な薬品の匂いと、錬金炉の熱気が立ち込める「錬金術師ユリウスの地下調薬室」。
石造りの壁には無数の怪しげな薬瓶や鋭利な注射器、解剖用器具が並び、中央には頑丈な黒鉄の拘束椅子が鎮座していた。ユリウスは私をその椅子へと乱暴に放り込み、両手首の魔力抑制枷を壁の鎖に繋ぎ止めた。
「さて……ようやく二人きりになれたね、ヘイワード侯爵家の令嬢。いや、大逆の元聖書記官殿と言うべきかな?」
ユリウスは白い研究衣を翻し、薬品が青く燃える錬金炉の前に立った。彼の細い指先が、実験用のガラス瓶を弄んでいる。その瞳に宿る光は、学術的な好奇心を超えた、極めてサディスティックな歓愉に満ちていた。
「ギルバルトが随分とお前を気に入っているようだが、私を欺けると思わないことだ。お前のその白磁の肌の下を流れる血――『真の聖女』の直系たる禁忌の血が、どれほどの錬金術的価値を持つか、私はずっと興味があった」
彼は棚から一本の美しい硝子瓶を取り出した。中に入っているのは、教皇庁から配給された神聖な聖水。だが、その液体を見た瞬間、私の胸元に刻まれた呪印が、警告を告げるように激しく熱を帯び始めた。魔力抑制状態にあるはずの私の身体が、本能的な恐怖に震える。
私はそっと『真理の眼(エピステメー・アイ)』を起動した。私の黒い瞳が、深紅の光を湛えて輝き出す。
視界が赤と黒の魔力線へと解体され、ユリウスが手にする聖水の瓶がクローズアップされた。その透き通った液体の奥に、極微量の、しかし極めて悪質な黒い粒子が蠢いているのを私の瞳は捉えた。
「……『魂を蝕む黒砂』ですね」
私の冷徹な言葉に、ユリウスの硝子瓶を振る手がピタリと止まった。彼の薄い眉が微かに跳ね上がる。
「ほう? ただの聖水ではないと気づいたか」
「教皇庁が配給した聖水に、肉体を傷つけずに魂の魔力回路だけを内側から物理的に破壊する錬金毒を仕込むとは、随分と手の込んだ暗殺法です。ユリウス、あなたはその毒を私に投与し、私の魔力回路が崩壊していく様を観察するつもりでしょう?」
ユリウスは驚愕を隠すように、低く笑い始めた。彼の笑い声は、狂気的な知性を孕んで調薬室に響く。
「素晴らしい! まさか一瞥しただけで、私が極秘裏に開発した『黒砂』の成分を見抜くとは! お前のその瞳……やはり、世界のシステムそのものを視認しているな? ますます私の実験体として解剖したくなってきたよ」
彼は狂喜の笑みを浮かべ、毒水の入った注射器を手に私の元へと歩み寄ってきた。鋭い針先が、私の細い首筋へと押し当てられる。金属の冷たさが、ギルバルトの指痕が残る赤紫色の皮膚に触れ、私の身体に緊張が走る。
「お前の血を全て抜き取り、その瞳の構造を解き明かせば、私の錬金術は神の領域に達する。さあ、まずはその美しい血脈が、この毒にどう抗うか見せてくれ――」
「……私を壊す前に、ご自分の心配をされてはいかがですか、ユリウス?」
私の静かな、しかし確信に満ちた言葉に、ユリウスの動きが再び止まった。私は拘束されたまま、彼の右手をじっと見つめる。彼は常に薄い革手袋を嵌めているが、私の『真理の眼』は、その奥にある「真実」を完璧に透視していた。
「何を言っている?」
「あなたのその右手、手袋の奥で、すでに皮膚が青く結晶化し始めている。……違いますか?」
ユリウスの顔から、一瞬にして笑みが消えた。彼の切れ長の瞳が、凍りつくような殺気へと変貌する。
「……お前、どこまで見えている」
「すべて、見えています。あなたの一族が代々背負わされた、肉体が徐々に結晶化して崩壊する『魔力暴走の呪い』。あなたは教皇庁の猟犬として毒薬を作り続ける代わりに、その呪いの治療法を必死に探している。ですが、あなたの錬金術では、呪いの進行を一時的に遅らせることしかできない」
私は冷徹な微笑を浮かべ、彼のプライドを言葉のナイフで正確に切り裂いていく。
「私を実験体として殺せば、あなたの唯一の希望は永遠に失われます。……なぜなら、あなたのその不治の呪いを完全に沈静化させられるのは、世界で唯一、私の血だけだからです」
「出鱈目を言うな! お前のような脆弱な囚人の血が、この呪いを――」
「出鱈目かどうか、今すぐ証明して差し上げましょう」
私は拘束された手を伸ばし、ユリウスが手にしていた毒水の瓶を強引に奪い取った。そして、彼が制止する間もなく、その毒水を自らの唇へと流し込んだ。
「レイラ……!? 狂ったか!」
ユリウスが目を見開いて叫ぶ。魂を蝕む黒砂が、私の喉を通り、胃の中へと流れ込む。次の瞬間、私の体内で、爆発的な激痛が吹き荒れた。
「がはっ……! あ、う……!」
内臓が内側から焼け焦げ、魔力回路が物理的に引き裂かれるような凄惨な苦痛。私の鎖骨に刻まれた「禁忌の書記官の呪印」が、毒の刺激によって暴走を起こし、青く不気味に発光し始める。呼吸が完全に停止し、心臓が悲鳴を上げる。魔力回路暴走閾値への到達。私の白磁の肌から、青い血が微かに滲み出し、全身から白い魔力の蒸気が立ち上る。
「やはり死ぬか……! 愚かな女め!」
ユリウスが私を抱き起こそうと手を伸ばした。その瞬間、私は残されたすべての精神力を集中させ、自らの血脈に眠る究極の自己防衛術を起動した。
――『呪詛の反転治癒術(ブラッド・リバーサル)』。
私の瞳が、これまでにないほど眩い深紅の光を放つ。私の体内に流れる「真の聖女」の因子が、侵入した黒砂の毒素(呪詛)を触媒として、瞬時に無害な、いや、極めて高純度な神聖魔力へと反転・吸収し始めた。
「な……魔力回路が、再生している……? 毒を、喰らったというのに……!」
ユリウスは目の前で起きている錬金術的な「奇跡」に、言葉を失って凝視していた。暴走していた呪印の光が、徐々に穏やかな純白の輝きへと変化していく。引き裂かれたはずの私の魔力回路は、毒を吸収することで、むしろ以前よりも強固に再結合していた。
私は荒い息を吐きながら、自らの唇を噛み破り、溢れ出た温かい血を指先ですくい取った。そして、驚愕に立ち尽くすユリウスの右手を掴み、その革手袋を強引に引き剥がす。
現れたのは、手首から先が不気味な青い水晶のように結晶化し、崩壊しかけている彼の剥き出しの手だった。その結晶の表面に、私は自らの血に染まった指先を、強く押し当てた。
「あ……っ、が……あ……!」
ユリウスの口から、掠れた悲鳴が漏れた。しかし、それは苦痛によるものではなかった。彼の結晶化した皮膚に私の血が触れた瞬間、まばゆい純白の光の波紋が広がり、彼を苛んでいた激痛が一瞬にして消え去ったのだ。
ミシミシと音を立てて、彼の右手を覆っていた青い結晶が融解していく。硬直していた彼の指先が、温かい人間の肌の質感を取り戻し、滑らかに動き始めた。彼の一族を数百年縛り続けてきた不治の呪いが、私の血の一滴によって、完全に沈静化させられたのだ。
「嘘だ……。私の、右手が……呪いが、消えていく……?」
ユリウスは自らの右手を見つめ、全身を激しい戦慄に震わせた。彼の瞳に宿っていた冷笑的なサディズムは完全に消え去り、代わりに、言葉にできないほどの圧倒的な「歓愉」と、狂気的なまでの「知的好奇心」がその瞳を満たしていく。
「ああ……なんて、なんて美しく、甘美な血だ……! 私の呪いを、これほど容易く支配するとは……!」
ユリウスは恍惚とした表情を浮かべ、私の足元へと崩れ落ちるように跪いた。彼は私の血に濡れた指先を、貪るように自らの唇へと引き寄せ、その温もりを確かめるように狂信的な眼差しで見つめる。
「レイラ……お前は、お前だけが、私の唯一の救いだ。この血を、この奇跡を、他の誰にも渡したくない……。お前をこの地下室に閉じ込め、私だけのものにしてしまいたい……!」
彼の低い、倒倒的な執愛に満ちた囁きが、調薬室の冷たい空気を支配する。だが、その瞬間、毒の反転治癒による魔力の過負荷が、私の病弱な肉体の限界を完全に突破した。
「あ……」
視界が急速に暗転し、私の身体から完全に力が抜ける。私はユリウスの狂気的な腕の中へと、静かに崩れ落ち、意識を失った。私の首元で、ギルバルトの銀十字が、主の激しい怒りと焦燥を伝えるように、冷たく脈打ち続けていた。
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