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第6話:命の買占め、強欲の薬剤ギルド

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夜明け前のスラムは、いつも湿った錆と泥の匂いに包まれている。


 地下水道の奥深く、錆びた鉄扉の向こうにあるシンの闇診療所には、未だ安息香の甘く重い残り香が漂っていた。天井から吊るされた魔導ランプの微かな光が、手術台の上に散らばる銀化のメスや、ガラスの試験管を青白く照らしている。


 シンは自身の左腕をきつく縛っていた包帯をそっと解いた。昨日、猟犬使いのボルドを退けるために無理な魔力行使を行った代償は、彼の肉体に確実に刻まれていた。移植したばかりの二重回路『雷鳴の脈』が、シンの元々の経絡と激しく衝突し、血管の周囲の皮膚を黒く焼き焦がしている。心臓の奥が、時折不規則に脈打つ。寿命を削る「不整脈」の爆弾が、胸の奥でカチカチと秒読みの音を立てているかのようだった。


「……先生、リィンちゃんのカプセルの安定度が、また二パーセント下がりました」


 調剤棚の影から、十六歳の助手ユーリが悲痛な声を上げた。彼の指先は、徹夜でのバイタル監視と薬液の調整により、白く強張っている。


 診療所の最深部に安置された低温治療カプセルの中では、シンの妹リィンが静かに眠っていた。彼女の白い肌は陶器のように美しいが、髪の先端はすでに青白く硬質化し始めている。血液が徐々にガラス結晶へと変化していく奇病「魔硝病」。カプセルの上部に設置された真鍮のインジケーターは、拒絶反応を抑える唯一の特効薬――「安息香」の残量が完全にゼロであることを示していた。


「安息香の代替薬では、彼女の『神血プロトタイプ』の暴走を抑えきれない。あと一ヶ月……いや、三週間が限界か」


 シンは冷徹に状況を分析し、包帯を巻き直した。痛みなど存在しないかのように、その表情は氷のように平坦だった。


 その時、診療所の錆びた鉄扉が、壊れんばかりの勢いで激しく叩かれた。金属が擦れ合う不快な音が地下水道に響き渡る。


「シン! 開けてくれ! シン、中にいるんだろ!」


 聞き慣れた大声だった。スラム自警団のリーダー、トードだ。


 ユーリが急いで閂を外すと、扉が勢いよく開き、赤いバンダナを巻いたトードが転がり込んできた。彼の革鎧には煤と泥がこびり付き、その太い両腕には、一人の若い平民の男が抱えられていた。男の右腕は、皮膚の下で銀色のラインが不気味に蠢き、激しく青白い光を放っている。以前、シンが不法移植手術を施した「一重回路・不完全適合」の患者だった。


「こいつだけじゃねえ!」


 トードは男を手術台の上に横たえながら、息を切らして叫んだ。


「スラムのあちこちで、お前が手術した奴らが一斉に倒れ始めてるんだ! みんな体中の血管が浮き上がって、ガラスのトゲが皮膚を突き破りそうになってやがる。おい、何が起きてるんだよ!」


 シンは一歩前に踏み出し、男の右腕に手を当てた。皮膚は異常な高熱を帯び、血管がミミズのようにのたうち回っている。移植された魔導回路が、レシピエントの免疫系から激しい攻撃を受け、崩壊寸前の過負荷を起こしているのだ。


「急性拒絶反応(アナフィラキシー)だ。安息香の点滴を怠ったな」


「違うんだよ!」


 トードは悔しそうに床を拳で叩いた。


「薬が手に入らねえんだ! スラムの薬剤ギルドのクラマーの野郎が、数日前から市場にある『安息香』を根こそぎ買い占めやがった。昨日までは一瓶五十塩錆石だった薬が、今じゃ五千塩錆石だぞ! 平民の年収でも払えねえ。あいつら、俺たちを殺す気だ!」


 ユーリが息をのんだ。「五千……!? そんなの、ただの命の買い占めじゃないですか!」


 スラムを支配する違法薬物ギルド「青い毒蛇」。その頂点に君臨するクラマーは、平民の命など単なる「金のなる木」としか思っていない。シンが無償に近い形で魔導移植を行い、平民たちに力を与え始めたことが、彼らの「粗悪な魔力増強剤」の市場を脅かした。その報復として、移植患者の命綱である安息香を人質に取ったのだ。


「……クラマーの背後には、領主ガストン伯爵の影がある」


 シンは静かに言った。その声は、地下水道の流水よりも冷たかった。


「平民が魔力を持ち、自警能力を高めることを、貴族は最も嫌う。安息香の流通を断ち、移植された回路を暴走させて自滅させる。これは医学を騙った、組織的な間引き(粛清)だ」


「そんな……じゃあ、レナやみんなは、このまま死ぬのを待つしかないのかよ!?」


 トードがシンの灰色のコートの胸ぐらを掴んだ。その瞳には、理不尽な搾取に対する怒りと、仲間を救えない無力感の涙が滲んでいた。


「手を離せ、トード。私の服が汚れる」


 シンはトードの手首を、細い指先で正確に圧迫した。運動神経のノードを突かれたトードは、反射的にシンの胸ぐらから手を離し、驚愕の表情を浮かべた。シンは乱れた襟元を静かに整え、手術台の上の患者を見つめた。


「私は医師だ。私の手術台から、患者を生きて帰すのが私の唯一のルールだ。……奪われたのなら、奪い返すまでだ」


「奪い返すって……どうするんだよ?」


「クラマーの倉庫を襲撃し、安息香をすべて強奪する」


 シンの口から出た「強奪」という言葉に、トードさえも一瞬言葉を失った。闇医者でありながら、その本質は「略奪者」となる覚悟を完了している。血統という不条理な壁を切り裂くためなら、シンは喜んで悪魔にでもなるつもりだった。


「ルークから情報を得ている。クラマーは買い占めた安息香を、スラムの北端にある『魔法の温度管理倉庫』に隠匿している。そこは、帝都の闇ギルドから仕入れた最高級の防衛結界で守られている」


「よし、なら俺の『錆びたメス』のメンバーを集める! 鉄パイプと大剣で、その倉庫の門を叩き潰してやる!」


 トードが息巻いて大剣の柄に手をかけたが、シンはそれを冷たく遮った。


「愚行だな。あの倉庫の結界は、物理的な衝撃を感知した瞬間に、警備隊本部に自動通報される仕組みになっている。バルトの部隊が到着するまで、三分もかからない。お前たちは安息香を手にする前に、雷撃魔法で消し炭にされる」


「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!?」


「結界の幾何学配列をハッキングし、無音でロックを解除する。作戦会議を行う。トードの溜まり場へ移動する」


 数分後、シンとトード、そしてユーリは、廃業した鉄工所を改造した自警団の隠れ家「トードの溜まり場」にいた。周囲には、錆びた歯車や解体された鉄板が散乱し、油と火薬の匂いが立ち込めている。


 シンは作業台の上に、一枚の羊皮紙を広げた。その傍らには、父ベックが遺した黒檀の万年筆と、自作の『携帯型魔導回路分析器』が置かれている。


「これが、クラマーの倉庫を覆っている『魔法の温度管理倉庫』の結界図だ」


 シンは万年筆のインクカートリッジに自身の微弱な魔力を通した。万年筆のペン先から放たれた青い光が、羊皮紙の上に複雑な魔術幾何学の配列を描き出していく。それは、円と直線が複雑に絡み合う、三次元の立体図面だった。


「この結界は、帝都の技術で作られている。特徴は一つ――『貴族の魔力波形(固有周波数)』しか受け付けないという点だ。平民の魔力が結界に触れた瞬間、波形の不適合(ノイズ)を検知して警報が作動する」


「じゃあ、俺たちの魔力じゃ絶対に開けられないじゃねえか」


 トードが頭を抱えた。しかし、シンは不敵な笑みを浮かべ、万年筆のペン尻をトントンと机に叩いた。


「システムである以上、必ず脆弱性が存在する。この結界の検知アルゴリズムは、血液中の生体電気の周波数をスキャンしているに過ぎない。つまり、私の左腕の『雷鳴の脈』の波形を、一時的に結界の受信周波数と同調(シンクロ)させれば、結界は私を『正常な貴族の鍵』と誤認する」


「そんなことが可能なのか……?」


 ユーリが目を輝かせた。シンは頷き、携帯スキャナーの真鍮製ダイヤルを回し始めた。機械が「キーン」という高い共鳴音を放ち、シンの左腕の包帯の下で、雷の回路が微かにスパークする。


「ハッキングコードを設計する。ユーリ、私の脳の波形を監視しろ。限界値を超えたら、即座に中和剤をカテーテルから注入する準備を」


「はい、先生!」


 シンは万年筆を握り、羊皮紙の幾何学配列に直接、逆位相のバイパスコードを書き込み始めた。脳が超高速で結界の数式を演算していく。それは、目に見えない大気の血管を、メスで一本ずつ解剖し、都合の良い迂回路(バイパス)を縫い合わせるような作業だった。


 十秒、三十秒、一分――。


「ぐっ……!」


 突然、シンの脳髄に、万力で締め付けられるような激しい痛みが走った。鼻から、タラリと赤い鮮血が滴り落ち、羊皮紙の図面を汚す。視界が一時的に白黒に染まり、激しい眩暈が彼を襲った。二重回路の過負荷と、脳への直接的な魔力逆流。心臓がドクン、と大きく跳ね、冷や汗が全身から噴き出す。


「先生! 血圧が限界です! 中止してください!」


「黙れ、ユーリ。……手を止めるな。あと、三本の配列を書き換えれば……完了する」


 シンは奥歯が噛み砕けるほどの力で痛みに耐え、万年筆を動かし続けた。彼の執念が、帝都の最高峰の魔導幾何学を、ミリ単位で凌駕していく。


 カチリ。


 携帯スキャナーの針が、特定の周波数でピタリと静止した。羊皮紙の術式図が、美しい青緑色の光を放ち、安定した脈動を刻み始める。


「……バイパスコード、完成だ」


 シンは万年筆を置き、荒い呼吸を整えながら、袖で鼻の血を拭った。その瞳には、一切の衰えを見せない、冷徹な支配者の光が宿っていた。


「トード、出発する。深夜二時、倉庫の地下搬入口だ。警備の衛兵の巡回ルートは、ルークから買い取ったこの図面通り。一秒の遅れも許されないぞ」


「おうよ! 死神の先生に、最高の舞台を用意してやるさ!」


 深夜二時。スラムの北端は、冷たい霧に包まれていた。


 クラマーの「魔法の温度管理倉庫」は、周囲のバラックから隔絶された、黒い石造りの強固な要塞だった。その周囲には、目に見えない黄金色の魔力障壁が、大気を微かに歪めながら張り巡らされている。障壁に触れた霧の水分が、パチパチと音を立てて蒸発していた。


 シンとトードは、倉庫の地下搬入口へと繋がる錆びた鉄扉の前に、音もなく滑り込んだ。周囲は静まり返り、時折、遠くで巡回する衛兵の金属鎧が擦れ合う音が聞こえるだけだった。


「ここが地下搬入口だ。結界の最も薄いノードが、この鉄扉の鍵穴に集中している」


 シンは静かに左腕の包帯を緩め、携帯スキャナーを鍵穴の魔導ロックに接続した。彼の左腕の皮膚の下で、移植された『雷鳴の脈』が青白く明滅し始める。壊死組織の痛みが彼を苛むが、その指先は一ミリの狂いもなく静止していた。


「トード、私の背後を警戒しろ。結界の周波数を同調させる。時間は……三十秒」


 トードは無言で頷き、背負っていた改造大剣を静かに引き抜いた。彼の全身から、微弱な火属性の魔力が立ち上り、いつでも飛び出せる姿勢を取る。


 シンは目を閉じ、自身の血流を意識した。心臓の鼓動を遅くし、左腕の回路に流れる生体電気の周波数を、スキャナーが示す結界の固有振動数へと、極限まで近づけていく。


(同調率、八十パーセント……九十パーセント……)


 シンの左腕の血管が、結界と同じ黄金色の光を放ち始める。生体電気の波形が、完全に結界のロックシステムと重なり合った。


 カチリ、と、静かな金属音が闇に響いた。


 倉庫を覆っていた障壁の一部が、シンの周囲だけ静かに霧散し、巨大な鉄扉の魔導ロックが解除された。警報は鳴らない。結界は、シンを「正当な貴族の管理者」として認識したのだ。


「……成功だ。入るぞ」


 シンが鉄扉を押し開け、二人は暗い倉庫の内部へと足を踏み入れた。ひんやりとした冷気が、彼らの肌を刺す。そこには、何千本もの「安息香」の薬瓶が、木箱に詰められて山積みにされていた。


 しかし、彼らが最初の一歩を踏み出した瞬間、倉庫の奥の暗闇から、カチ、カチ、と、複数の硬い靴音が響き渡った。


 同時に、周囲の気温が急激に低下し、大気がオゾンと硫黄の匂いで満たされる。


「――ネズミが迷い込んできたと思えば、まさか不法移植の闇医者本人とはな」


 暗闇から姿を現したのは、派手な刺繍の入ったローブをまとった、クラマーお抱えの魔導師たちだった。彼らの両手には、すでに火と氷の属性魔術を構築するための、禍々しい幾何学の魔法陣が赤々と光り輝いていた。その冷酷な眼光が、シンとトードを完全に捉えていた。

HẾT CHƯƠNG

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