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第5話:猟犬の嗅覚、スラムの防壁

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「――ハサミを寄こせ、ユーリ」


 鉄錆と消毒液の匂いが充満する地下診療所。蝋燭の微かな光の下で、シンの冷徹な声が響いた。


 シンは自身の左腕を睨みつけていた。数時間前に移植したばかりの二重回路『雷鳴の脈』は、彼の血管と同調こそしているものの、その強烈な魔力圧によって周囲の皮膚組織を激しく焼き焦がしていた。肘から先が、炭のように黒く変色している。


 シンは麻酔を一切使わずに、銀化のメスとハサミを操り、自身の腕の壊死した肉をミリ単位で切り取っていった。肉が裂けるたびに、全身を苛むような激痛が脳髄を突き刺す。だが、シンの右手のメスは、驚くほど静かに、そして正確に動いていた。心拍数を極限まで下げる瞑想呼吸が、肉体的なショック死を強引に防いでいるのだ。


「は、はい……!」


 助手であるユーリが、青ざめた顔で銀のトレイを差し出す。トレイの上には、切り取られた黒い壊死組織が、不気味に燻りながら溜まっていく。ユーリは、自身の師であるこの男の、自己の肉体すら単なる実験台として扱う狂気的な執念に、ただ圧倒されていた。


 パチ、とシンの左腕から青白いスパークが散る。壊死組織の切除が終わり、月光草の極細繊維で傷口を縫合し終えた瞬間、診療所の重い鉄扉が静かに開いた。現れたのは、煤けた拡大鏡を額にのせた偏屈な老人――スラムの錬金術師、オットーだった。


「おい、シン。頼まれていた『簡易魔導麻痺煙幕弾』が完成したぞ。お前の設計図通り、スズランの抽出毒と、最高純度の安息香をジャンクの金属球に詰め込んでやった」


 オットーは、煙草の煙を燻らせながら、手のひらサイズの金属球を数個、作業台の上に転がした。その指先は黄色く染まり、長年の調合で鍛えられた精密な動きを見せている。


「助かる、オットー。これで奴らの鼻を潰せる」


 シンは壊死組織を削ぎ落としたばかりの左腕に、手際よく新しい包帯を巻き直しながら言った。包帯を巻くシンの表情には、激痛の余韻など微塵も残っていない。


「だが、本当にやる気か? 警備隊のボルドが、魔血犬を連れてスラムの地下水道を嗅ぎ回っている。あの化け物犬どもは、貴族の魔力血の匂いを数キロ先からでも検知する。お前がその腕に移植した『雷鳴の脈』から漏れる血の匂いは、奴らにとって極上のエサだぞ」


 オットーの警告は正しかった。魔血犬――帝国の宮廷医師会が開発した、剥き出しの筋肉のような皮膚を持つ悍ましい猟犬。その嗅覚は、生体魔法が稼働した際に血管から発せられる微細な魔力振動と血液の匂いを、正確に追跡する特化型バイオ兵器だった。シンが左腕に行ったセルフ手術の血の匂いは、どれだけ石炭酸で消毒しようとも、地下水道の湿気を通じて外へと漏れ出していたのだ。


「診療所の位置が露見すれば、奥で眠るリィンもろとも抹殺される。ボルドがこの地下水道の入り口に達する前に、ここで処理する」


 シンは冷徹に言い放ち、作業台の上の金属球をコートのポケットに収めた。そして、暗闇の中でも光を捉える『精密微細針』を数本、指の隙間に挟み込む。


「ユーリ、お前はここでリィンのカプセルの監視を続けろ。トードの自警団が地上で騒ぎを起こし、警備隊の注意を引きつけてくれている間に、私は地下で猟犬の鼻を解剖する」


「先生、お気をつけて……。左腕は、まだ完全に生着していません。無理な放電は、心臓の不整脈を誘発します!」


「分かっている」


 シンはそれだけ言い残すと、診療所の錆びた鉄扉を抜け、暗黒の地下水道「迷宮」へと音もなく消えていった。


 地下水道は、冷たく湿った空気と、スラムの廃棄物が放つ悪臭に満ちていた。レンガ造りの湾曲した壁には、汚染された魔力水が滴り、不気味な青い光を放っている。


 シンは水路の影に身を潜め、五感を研ぎ澄ませた。


 ピチャ、ピチャ、という、不規則な水の音が暗闇の奥から聞こえてくる。それは人間の足音ではない。複数の、濡れた肉球が泥水を踏みしめる音。そして、獣の荒い呼吸音と、鎖が擦れ合う金属音だった。


(来たか……)


 シンの瞳が、暗闇の中で静かに青く輝く。視神経に魔力を集中させ、皮膚を透過して体内の構造を視認する能力――『魔導動脈視(アナトミカル・アイ)』を展開した。シンの視界から色彩が失われ、モノクロの解剖図のような世界が広がる。


 角を曲がって現れたのは、三頭の巨大な魔血犬だった。その皮膚の下には、魔力を追跡するために人工的に強化された、異常に太い嗅覚神経と血管が赤く光り輝いている。犬たちの鎖を握っているのは、厚い革の防具をまとった無骨な衛兵――猟犬使いのボルドだった。


「探せ。この先に、あの不法移植の闇医者が流した、貴族の血の匂いがあるはずだ」


 ボルドの低い声が響く。魔血犬どもは、診療所へと繋がる錆びた鉄扉の前でピタリと足を止め、牙を剥き出しにして激しく吠え始めた。その赤く光る眼光が、鉄扉の隙間から漏れる微かな魔力反応を完全に捉えていた。


(これ以上は進ませない)


 シンは物陰から、オットーが調合した『簡易魔導麻痺煙幕弾』を、犬たちの足元に向けて正確に投擲した。


 カラン、と金属球がレンガの床に転がった瞬間、安全ピンが外れ、内部の混合粉末が爆発的に気化した。シュウウウッ! という音と共に、高濃度の安息香とスズランの毒を含んだ、美しい青白い煙幕が地下水道全体に広がっていく。


「な、なんだ!? 煙幕だと!」


 ボルドが咄嗟に腕で顔を覆う。だが、その背後で魔血犬たちが一斉に悲鳴のような声を上げた。


 安息香の粒子が犬たちの鼻腔に侵入し、魔力感知を司る嗅覚神経を一時的に完全麻痺(フリーズ)させたのだ。赤く光っていた犬たちの嗅覚回路が、一瞬にして光を失い、灰色へと変色していく。犬たちは方向感覚を失い、水路の壁に頭をぶつけながら混乱し、狂ったように吠え荒れた。


「チッ! 犬どもの感覚が狂わされたか! だが、小細工など無駄だ!」


 ボルドは犬の鎖を放り投げ、腰の剣を引き抜いた。彼は一重の無属性回路を持つ衛兵だが、長年の実戦で培われた『風の探知』の魔法を起動しようとした。大気の微細な流れを読み取り、煙の向こうに潜むシンの位置を特定しようとしたのだ。


 ボルドの肺の周囲にある魔導回路が、急激に魔力を帯びて明滅し始める。


(風の魔法の構築……その始動、遅すぎる)


 シンはすでに、ボルドの魔法構築の『予兆(血流の乱れ)』を魔導動脈視で完全に捉えていた。シンは左腕の包帯の奥で、『雷鳴の脈』を極微細に脈動させ、周囲の空間を特定の周波数で振動させた。


(「局部麻酔結界(ローカル・アネステシア)」――展開)


 シンの周囲数メートルに、神経伝達を一時的に麻痺させる微細な魔力粒子が散布される。ボルドが風の魔法を放とうとした瞬間、彼の指先の感覚が急激に消失し、大気の制御が乱れて魔法が霧散した。


「なに……!? 魔法が発動しないだと!?」


 ボルドの瞳に、初めて恐怖のの色が浮かんだ。煙の向こうから、音もなくシンの灰色のコートが翻る。


 シンはボルドの正面に躍り出ると、指の隙間に挟んでいた数本の『精密微細針』を、彼の首筋に向けて正確に投擲した。シュッ、という風切り音と共に、極細の針がボルドの頸椎付近にある、主要な魔導経絡(ツボ)へと深く突き刺さる。


(「電針穿刺(電気針治療)」――執行)


 シンは自身の左腕の『雷鳴の脈』から、針を媒介にして、ボルドの運動神経網へ直接、微弱なパルス電流を流し込んだ。


「ガッ、あ……っ!」


 ボルドの全身の筋肉が一瞬にして硬直した。彼の体内の生体電気信号が、シンの流し込んだ雷の電流によって完全にロックされたのだ。ボルドは剣を握ったまま、糸の切れた人形のように、その場に直立不動の状態で完全に静止した。指一本、声一つ出すことすらできない。


 シンは静かにボルドに近づき、彼の首筋の針の深さを微調整した。これで彼は、意識を保ったまま数時間は一歩も動くことができない。


「私は無駄な殺生を好まない。お前はここで、ただの石像として嵐が去るのを待て」


 シンの声には、一切の感情が籠もっていなかった。彼は立ち上がり、戦闘によって周囲に飛散した自身の魔力血の匂いを消去するため、あらかじめ用意していた石炭酸の中和剤をスプレーで散布した。『魔力汚染廃棄物処理規則』に従い、痕跡を完全にゼロにするための冷徹な滅菌処理だ。


 これでボルドの追跡は完全に阻止した。だが、シンはボルドの腰に装着されていた帝国警備隊の通信魔石が、不気味に赤く明滅しているのを見逃さなかった。


 ボルドの身体が硬直する直前、彼の魔力信号の途絶を検知した通信魔石が、警備隊本部へ『地下水道での異常な魔力遮断』のデータを自動送信していたのだ。


 塩錆町の警備隊詰所。バルト隊長は、通信盤に表示された地下水道の異常なエラー波形を睨みつけていた。平民のスラムにおいて、これほど精密に魔法構築をキャンセルし、衛兵の信号を遮断できる技術を持つ者は、ただ一人しか存在しない。


「……やはり、あのスラムの地下に、本物の『不法移植医』が潜んでいるな」


 バルトは残虐な笑みを浮かべ、机の上の呼び出しベルを激しく鳴らした。彼の猜疑心は、確信へと変わっていた。辺境の警備隊だけでは手に負えない「禁忌」の存在を感じ取ったバルトは、帝都の最高権力である『帝国血脈査察使団』の派遣を要請する決意を固めていた。

HẾT CHƯƠNG

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