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第4話:左腕の暴走、激痛のバイパス

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叩きつける豪雨の音が、スラムの地下貯水槽を改造した診療所の天井を鈍く叩いていた。


 シンは、泥と雨水にまみれた灰色のコートを乱暴に脱ぎ捨て、作業台に手をついた。呼吸が荒い。過度な「魔導動脈視(アナトミカル・アイ)」の使用による代償は、彼の身体を容赦なく蝕んでいた。視界は未だに色彩を失ったままだ。白と黒、灰色の濃淡だけで構成された世界が、不気味に輪郭を歪ませている。さらに、左腕の包帯の下にある黒い魔導傷跡が、まるで火を押し当てられたかのように激しく疼き、壊死組織が脈打つたびに鋭い激痛が脳髄を突き刺していた。


「先生! 戻られたのですね!」


 奥の調剤室から、ボロボロの白衣の袖をまくった黒髪の少年――ユーリが駆け寄ってきた。その細い顔は、焦燥と寝不足で青白くやつれている。しかし、シンの右手にあるエメラルドグリーンに発光するガラス瓶を見た瞬間、ユーリの瞳が大きく見開かれた。


「それは……まさか、本当に『雷鳴の脈』を?」


「ああ。マルコの案内で、落雷の丘から剥離してきた」


 シンの声は、自らの激痛を押し殺すように低く、平坦だった。彼は保存液に満たされたガラス瓶を作業台の真鍮製スタンドに固定した。瓶の中で、螺旋状にねじれた二重の魔導回路が、死してなお残留電気を帯びて蠢いている。活性維持の限界まで、あと二時間もない。


「ユーリ、すぐに手術の準備をしろ。台の上の埃を払い、石炭酸で完全に滅菌しろ。それから、手動式魔導血吸引ポンプを中央に固定するんだ」


「準備はできています。でも……患者はどこに? ルークが新しいレシピエントを連れてくるのですか?」


 ユーリの問いに、シンは白黒の視界のまま、自身の左腕の包帯を一本ずつ解き始めた。


「患者なら、ここにいる。私の左腕に、この『雷鳴の脈』を移植する」


「なっ……!?」


 ユーリの息が止まった。少年の顔から、血の気が一瞬にして引き去っていく。


「正気ですか、先生! それは下級貴族の『二重回路』です! 魔力を持たない平民(無能者)の肉体に、そんな高出力の回路を移植するなんて自殺行為だ! 拒絶反応で血管が沸騰して、心臓が破裂します!」


「分かっている」


 解かれた包帯の隙間から、シンの左腕の皮膚が露わになった。肘から先が、焼け焦げた炭のように黒く壊死しかけている。その皮膚の奥で、幾何学的な魔導回路の紋様――父ベックが死の間際に遺した、不完全な「神血プロトタイプ」の傷跡が、どす黒く脈打っていた。移植した他者の簡易回路が拒絶反応を起こし、限界を迎えているのだ。


「リィンの生命維持カプセルの安息香は底を突いた。あと一ヶ月で、彼女の心臓は完全にガラス化して停止する。彼女を救うには、私の理論が正しいことを証明し、適合率を高める技術を確立するしかない。そのためには、まず私の身体で『二重回路』の生着を成功させる必要がある」


 シンの冷徹な双眸が、ユーリを射抜いた。


「私は医師だ。自分の命すら実験台にできない者に、他人の命を救う資格はない。……準備をしろ、ユーリ」


 少年の喉が小さく鳴った。無謀だ、狂っている。そう叫びたがっているユーリの身体を動かしたのは、シンに対する絶対的な畏怖と、リィンを救いたいという執念だった。ユーリは唇を噛み締め、涙を堪えながら、真鍮製の手動式魔導血吸引ポンプの大型ハンドルを掴んだ。


「……分かりました。僕が、あなたの助手(右腕)になります」


「よし。手術を開始する。麻酔は使用しない」


「え……?」


「神経と回路の電気的結合を、私の脳で直接感知しながら縫合しなければならない。痛覚を遮断すれば、ミリ単位の電気的ラグを見落とす」


 シンは作業台の上の『銀化のメス』を右手に握り、大きく息を吐き出した。白黒の世界の中で、メスの刃先だけが、魔力を通さない鈍い銀色の光を放っている。


 シンは自身の左前腕の内側、橈骨動脈が走るラインにメスを当てた。躊躇はなかった。冷たい刃が皮膚を引き裂き、赤い鮮血が勢いよく噴き出す。白黒の視界が一瞬、極彩色の激痛に塗りつぶされた。歯が砕け散るほどの力で奥歯を噛み締め、シンはメスを進めた。


「ぐっ……!」


「先生!」


「ポンプを回せ! 血を吸い上げろ!」


 シンの怒声に、ユーリが悲鳴のような声を上げて手動ポンプのハンドルを全力で回し始めた。ゴトリ、ゴトリと、真鍮のギアが重い音を立てて回転し、シンの左腕から溢れ出た血液がガラスの導管を通じて吸引され、体外へと循環していく。術野が血で塞がれるのを防ぐための、無血の執刀空間。シンは自らの左腕の筋肉を割き、橈骨動脈と、その周囲に複雑に絡み合う既存の壊死した一重回路を露出させた。


「壊死した一重回路を……切除する」


 シンは自身の肉を切り裂き、光を失った古い繊維をメスで一本ずつ切り離した。激痛が波のように押し寄せ、シンの右手が微細に震えかける。だが、彼は自身の心拍数を極限まで下げる瞑想呼吸を使い、その震えを力ずくで押さえ込んだ。色彩を失った視界の隅で、冷たい汗が床に滴り落ちる。


 次に、真鍮のスタンドから『雷鳴の脈』を取り出した。保存液から引き出された二重回路は、大気中の湿気に触れた瞬間、青白い微細なスパークを放ちながら狂ったように蠢き始めた。


「縫合を……開始する」


 シンは右手に『精密微細縫合針』を構えた。針穴には、月光草の極細繊維が通されている。白黒の視界の中で、シンは手の感覚記憶だけを頼りに、自身の橈骨動脈の断端と、エメラルドグリーンに明滅する『雷鳴の脈』の端を重ね合わせた。


 一針、一針、肉と動脈の壁を貫通させ、銀化された月光草の糸で縫い合わせていく。針が通るたびに、回路に残留していた電撃がシンの指先へと逆流し、全身の神経が感電したように激しく跳ねた。視界の白黒のノイズが激しく明滅する。脳が「死」を警告していた。


(橈骨神経との結合……完了。尺骨動脈へのバイパス……接続。よし、血流を……再開しろ、ユーリ)


 シンが短く指示を出すと、ユーリは手動ポンプのバルブを切り替えた。シンの心臓から送り出された血液が、新たに縫合された『雷鳴の脈』へと一気に流れ込む。


 その瞬間、世界が爆発した。


「があああああああっっ!!!」


 シンは天を仰ぎ、獣のような絶叫を上げた。移植された二重回路が、シンの平民としての脆弱な血管と同調することを拒絶し、暴走を始めたのだ。高圧の雷魔力が、血流に乗ってシンの心臓へと逆流していく。血管が内側から沸騰し、皮膚の表面が青白く発光しながら裂け始めた。移植限界境界――「拒絶臨界点」の突破だった。


「先生! バイタルが停止しかけています! 心停止が始まります!」


 ユーリが涙を流しながら叫んだ。魔力波形分析器の真鍮の針が、死を示すフラットなラインへと急速に傾いていく。シンの心臓は、高電圧のショックによって完全に細動を起こし、拍動を停止していた。


「中和剤を! 拒絶反応中和剤を静脈から注入します!」


 ユーリが点滴の針をシンの右腕の静脈に突き刺そうとした。しかし、極度のショック状態によりシンの全身の血管が急激に収縮しており、針が滑って皮膚を貫通しない。薬液が虚しく床にこぼれ落ちる。


「だめだ……針が入らない! 先生、目を開けてください!」


 シンの意識は、急速に暗黒の底へと沈みかけていた。視界は白黒から、完全な闇へと変わりつつある。心臓が動かない。脳への酸素供給が途絶え、死の冷気が全身を支配していく。


(ここで……終わるわけにはいかない。リィンを置いて、私が死ぬわけには……)


 薄れゆく意識の淵で、シンは自身の左腕の最深部を見つめた。そこには、父ベックが遺した、あの黒い傷跡――「神血プロトタイプ」の不格好な回路が、静かに蠢いていた。


(あの傷跡は……父が遺した『マスターキー』。他者の魔力を吸収し、制御するための……バイパスだ!)


 シンは最後の力を振り絞り、右手に握っていたカテーテルを、自身の首筋の頸椎へと突き立てた。


(「痛覚神経遮断術式(ペインコントロール)」――執行!)


 首筋に走る痛覚神経を電気的に強制遮断した瞬間、脳を支配していた激痛のショックが一瞬だけ消え去り、シンの脳に冷徹な思考が戻ってきた。彼は左腕の筋肉を内側から動かし、橈骨動脈から『神血プロトタイプ』の傷跡へと繋がる緊急の「動脈バイパス形成術」を、手の感覚だけで執行した。


(「血脈バイパス」――開放!)


 シンの左腕の傷跡が、牙を剥くように脈打った。その瞬間、心臓へと逆流していた暴走的な雷魔力が、急激に方向を変え、左腕の黒い傷跡(神血プロトタイプ)の深部へと吸い込まれるようにして迂回(バイパス)されていった。過負荷が逃がされ、沸騰しかけていた血管の圧力が劇的に低下していく。


「……はっ、あ……っ!」


 シンの胸が大きく跳ね上がり、停止していた心臓が、不規則ながらも力強い拍動を再開した。肺に冷たい空気が流れ込み、白黒だった彼の視界に、徐々に現実の色彩が戻ってくる。作業台の上の銀、ユーリの白衣の白、そして自身の左腕から滴り落ちる真っ赤な血液の赤が、彼の瞳に鮮烈に映し出された。


「……成功、したのか……?」


 ユーリが手動ポンプのハンドルを掴んだまま、へたり込むようにして呟いた。彼の顔は涙と汗でぐしょぐしょだった。


 シンの左腕の皮膚は、拒絶反応の雷撃によって広範囲が黒く焼け焦げ、壊死組織と化していた。しかし、その焼け焦げた皮膚の奥で、螺旋状の二本の回路が、静かに、そして確かに青白い魔光を放ちながら彼の血管と同調していた。二重回路「雷鳴の脈」の生着が、ここに完了したのだ。


「ああ。……だが、代償は安くないな」


 シンは自嘲気味に呟き、自身の胸元に手を当てた。心臓の拍動が、時折不自然に一瞬停止する。不整脈の爆弾――今回の極限の拒絶反応と一時的な心停止が、彼の生命維持システムに永久的な爪痕を残したのだ。彼の寿命は、確実に数年は削られていた。


「ユーリ、休む暇はない。……壊死した皮膚を削ぎ落とす。『壊死組織切除および再生促進術』を執行する。月光草の繊維を準備しろ」


 シンは震える右手で再び銀化のメスを握り直した。その瞳には、自身の肉体を削り取ることへの恐怖など微塵もなかった。ただ、妹リィンを救うための、狂気的なまでの鉄の意志だけが、冷たく澄んだ青い光を放っていた。


 激しい痛みの果て、シンの左腕から、青白い静電気のスパークがバチバチと音を立てて放たれる。その光は、暗いスラムの地下室を、神聖かつ悍ましく照らし出していた。

HẾT CHƯƠNG

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