第3話:雷鳴の脈、闇の解剖
叩きつけるような豪雨が、黒砂荒野の境界にそびえる「雷鳴の丘」を容赦なく打ち据えていた。
泥濘と化した急斜面を、二つの影が這うようにして登っていく。先頭を行くのは、泥だらけのシャベルを杖代わりにし、死人のように青白い顔を歪めている男――墓荒らしのマルコだ。その後ろを、濡れた灰色のコートを羽織ったシンが、冷徹な足取りで追っていた。
「おい、シン……本当にこの嵐の中をやるのかよ! 雷鳴の丘はただでさえ落雷が絶えねえ禁域だ。一歩間違えりゃ、俺たちもあの貴族の若造みたいに消し炭だぞ!」
マルコが嵐の咆哮に負けじと怒鳴る。だが、シンは歩みを止めない。彼の右手の指先は、コートのポケットの中で、冷たい金属の感触を確かめていた。ロルフが鍛造した一振りの手術用メス――「銀化のメス」。魔力を一切通さないこのメスだけが、魔導回路を傷つけることなく切り裂くことができる唯一の道具だった。
「残された時間はあと二十分もない」
シンの声は、嵐の冷気よりも冷たかった。
「下級貴族ヴァルター一族の死体から『雷鳴の脈』が自己崩壊する前に摘出しなければ、リィンの命はない。お前は金が欲しいのだろう、マルコ。なら、黙って案内しろ」
リィンの生命維持カプセルの「安息香」は完全に底を突いている。彼女の心臓のガラス化を止めるには、この落雷で即死した貴族の体内に眠る、強力な二重回路「雷鳴の脈」を手に入れ、移植の実験台とするしかなかった。これは、シンが自らの左腕を削ってでも遂行すべき「雷鳴の脈・奪還作戦」だった。
「ちっ、これだからスラムの死神は御免なんだ……!」
マルコが毒づきながら、岩陰の窪地を指し示した。そこには、落雷によってへし折れた巨木の根元に、無惨に焼け焦げた馬車の残骸が転がっていた。そしてその傍らに、一人の若者が倒れている。
豪奢な一族の紋章が刻まれた甲冑は、超高電圧の雷撃によって黒く融解し、皮膚に焼き付いていた。下級貴族ヴァルターの弟。その顔面は炭化し、生気は完全に失われている。
シンは即座に遺体の傍らに膝をつき、包帯に巻かれた自身の左腕の疼きを無視して、両目に意識を集中させた。
(「魔導動脈視(アナトミカル・アイ)」――展開)
シンの瞳が、静かに澄んだ青色へと変色する。彼の視界から物理的な色彩が消え去り、透過された遺体の内部構造がモノクロの解剖図として浮かび上がった。
炭化した皮膚の下、主要な動脈に沿って、螺旋状にねじれた二本の光る繊維が脈打っているのが見えた。激しい青白いスパークを放ちながら、死してなお残留電気を帯びて蠢く器官。それこそが、神経伝達速度を十倍に跳ね上げる属性回路「雷鳴の脈」だった。
「死後硬直はまだ始まっていない。だが、細胞の壊死が始まれば回路の伝導率は急激に落ちる。今すぐ剥離する」
シンは銀化のメスを引き抜き、遺体の胸部へと刃先を向けた。
「おい、シン! マズいぞ!」
周囲を警戒していたマルコが、突然悲鳴のような声を上げた。嵐の音の向こうから、不気味な遠吠えが響いてきたのだ。それは大気中の静電気を感知して獲物を追う、雷属性の魔血犬の鳴き声だった。
「ヴァルターの兄貴……あの狂犬騎士ヴァルターが、弟の死体を取り戻しに猟犬を放ちやがった! こっちに向かってやがる!」
「マルコ、騒ぐな。私の手がブレる」
シンは一切の動揺を見せず、メスを遺体の鎖骨下へと突き立てた。皮下組織を切り裂く感触が、メスを通じて伝わってくる。
ここからが「クラウス式魔導回路剥離術」の極限の執刀だった。雷鳴の脈は、周囲の運動神経や主要動脈と複雑に癒着している。もしメスが1ミリでも回路の繊維を傷つければ、内部に残留している高圧の雷魔力が一気に大爆発を起こし、シン自身の右腕ごと遺体を吹き飛ばすだろう。
雨水がシンの前髪を伝って滴り、視界を遮る。だが、彼の「魔導動脈視」は、青白く光る回路の結合経絡を冷徹に捉え続けていた。
(橈骨神経との結合点……切断。鎖骨下動脈のバイパス……分離)
シンは自身の心拍数を極限まで下げ、嵐の強風によるメスの微細なブレを肉体的に完全に相殺した。一呼吸ごとに、光る繊維が筋肉から剥がされていく。凄惨な解剖の光景が、雨と泥の中で静かに進行していた。
「おい、もうそこまで来てる! 犬の目が光って見えるぞ!」
マルコがシャベルを構え、ガタガタと震えながら崖の上を指し示す。暗闇の中、青白い電撃をまとった猟犬たちの目が、獲物を求めてギラギラと輝いていた。その後ろには、一族の誇りを汚された怒りに燃える若き貴族戦士、ヴァルターの影が迫っている。
「弟の遺体を汚す不浄のネズミどもめ……! 生かしてはおかん!」
ヴァルターの怒号が、雷鳴と共に轟いた。
(あと、三箇所……)
シンの額から、冷たい汗が雨水と混ざって流れ落ちる。過度な「魔導動脈視」の使用により、彼の脳と視神経には致命的な負荷がかかっていた。視界の端から徐々に光が失われ、モノクロの解剖図が不気味に歪み始める。一時的な視野狭窄、そして色盲状態の予兆だった。
だが、シンの手元は微塵も揺るがない。
(深層の結合組織……切断。最後の動脈ノード……分離!)
パチ、と微細な火花が散ると同時に、シンは遺体の胸部から、脈打つ二本の青い回路を完全に無傷で引き出すことに成功した。すかさず左手でカテーテルを構え、ルークから仕入れた緑色の特殊保存液を回路の動脈口へと注入する。これが「死体魔導回路鮮度保持法」だった。保存液が行き渡ると、回路の暴走的なスパークが静まり、美しいエメラルドグリーンの光を放ちながら不活性状態へと移行した。
「確保した。撤退する」
「助かった!」
マルコが叫ぶと同時に、懐から「簡易魔導麻痺煙幕弾」を取り出し、足元のアース(放電地帯)へと叩きつけた。爆発と共に、高濃度の安息香を含んだ青い霧が周囲に立ち込め、追撃してきた魔血犬たちの嗅覚と雷感知能力を一瞬でマヒさせる。
「何だと!? 煙幕か!」
ヴァルターの雷光の長剣が空を切り裂いた瞬間、シンとマルコは崖の亀裂へと迷わず飛び降りた。激しい泥流に身を任せ、追跡者の手が届かない地下水道の暗黒へと滑り落ちていく。
シンの視界は、過負荷により完全に色彩を失い、白と黒の世界へと変わっていた。だが、彼の右手の中には、冷たく、そして確かに脈打つ「雷鳴の脈」が握られていた。リィンを救うための、最初の不条理な略奪が、今ここに完了したのだ。
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