第2話:ガラスの血、禁忌の処方
石炭酸の刺激臭と、凝固しかけた血液の生臭さが、地下診療所の湿った空気に混ざり合っていた。
塩錆スラムの地下深く、廃墟となった貯水槽を改造した「シン闇診療所」。錆びた鉄扉が軋む音の合間に、一定の規則的な駆動音だけが低く響いている。それは診療所の最深部、暗い部屋の中央に安置された、真鍮と強化ガラスでできた巨大な円筒――「リィンの生命維持カプセル」が放つ音だった。
シンは灰色のコートの袖をまくり、カプセルの覗き窓に顔を近づけた。ガラスの向こうで、十四歳になる実妹のリィンが、エメラルドグリーンの治癒水に満たされて静かに眠っている。
その姿は、痛々しいほどに美しく、そして悍ましかった。
リィンの陶器のように白い肌の下、細い血管が不自然に青白く発光している。その光は、ただの魔力ではない。血管の内部で、血液中の水分が微細なガラスの結晶へと変化していく不治の奇病――「血液ガラス化臨界(魔硝病)」の末期症状だった。すでに彼女のプラチナブロンドの髪の先端は、完全に硬質化して透明なガラスの針と化し、カプセルの金属壁に触れるたびに「チリン……」と、氷の擦れ合うような冷たい音を立てていた。
(進行が、また早まっている……)
シンは冷徹な表情の裏で、奥歯を噛み締めた。魔硝病の真因は、かつて父ベックが処刑される直前、彼女の体内に帝国の最高機密である「創世の神血」のプロトタイプ回路を隠密移植したことによる、過剰適合不全だった。平民の肉体には、神の血が放つ魔力圧が強すぎるのだ。放置すれば、あと数週間で彼女の心臓は完全にガラスの塊と化し、砕け散る。
「先生、安息香(アンセイコウ)がもうありません。このボトルで最後です」
暗闇から、十六歳の助手ユーリが、青白い顔で小さなガラス瓶を差し出してきた。中に入っているのは、境界の霧林でしか採取できない稀少な薬草から抽出した、深緑色の精油――「境界の霧林の「安息香」」だった。移植された回路の魔力波形を一時的に眠らせ、レシピエントの免疫拒絶反応を抑制する、この診療所の命綱だ。しかし、ボトルの底には、もう数滴しか残っていない。
「安息香の買い占めが始まっている。薬剤ギルドのクラマーめ、平民の命を人質に暴利を貪る気だ」
シンの声は冷ややかだった。魔力を持たない平民を「無能者」と呼び、血液を搾取する帝国において、平民のための薬学など存在しない。薬草の流通すら、貴族と結託したギルドに支配されているのだ。
「……代替薬を調合する。ユーリ、スラムの闇市場で仕入れた寒冷茸の胞子と、魔性蛭の唾液腺を準備しろ」
「でも、先生! あれは不純物濃度が高すぎます。もしリィンちゃんの血管内で血栓が作られたら……!」
「やらなければ、今夜中にリィンの心臓が凍りつく。準備しろ」
シンの遮るような命令に、ユーリは唇を噛んで「はい」と頷いた。ユーリは手早く、錆びた蒸留器に薬草を投入し、手動の遠心分離機を回し始める。シンは「クラウスの解剖日誌(第1巻)」を机に広げ、師が遺した歪な魔術幾何学の配列を、自身の「魔導動脈視(アナトミカル・アイ)」で読み解きながら、調合比率をミリグラム単位で計算していった。
しかし、スラムの劣悪な設備で作られた代替薬は、あまりにも不完全だった。
カプセルの注入ポートから、完成した暗緑色の代替薬液がリィンの点滴チューブへと送り込まれる。数秒の後、カプセルの上部に設置された魔力波形分析器の真鍮の針が、狂ったように激しく振動し始めた。ピー、と、高音の警告音が狭い地下室に鳴り響く。
「拒絶反応です! リィンちゃんの血圧が急上昇しています!」
ユーリが悲鳴を上げた。
カプセルの中で、リィンの小さな身体が弓なりに跳ね上がった。彼女の首筋の血管が、青黒く沸騰したように浮き上がり、皮膚の表面にガラスのトゲが内側から突き破るようにして突き出し始める。不純物の高い薬液が、彼女の体内の「神血プロトタイプ」を刺激し、急性のアナフィラキシーショックを引き起こしたのだ。
「カテーテルを寄こせ!」
シンは叫ぶと同時に、カプセルの緊急ハッチを開け、リィンの頸椎へと手を伸ばした。彼の右手の指先には、すでに極細の銀化カテーテルが握られている。
(「痛覚神経遮断術式(ペインコントロール)」――執行)
シンは自身の微弱な魔力をカテーテルに流し込み、リィンの脊髄付近を走る「魔導神経」へと正確に穿刺した。青白い麻酔の冷気が、リィンの首筋から背骨に沿って波紋のように広がり、彼女の痛覚伝達を物理的に遮断していく。
「……う、あ……」
リィンの激しい痙攣が、劇的に静まり返った。浮き上がっていた血管の明滅が収まり、彼女は再び、深い昏睡状態へと戻っていく。だが、分析器の針が指し示したバイタルデータは、残酷な現実を告げていた。
「……心臓のガラス化の進行は止まりませんでした。安息香がなければ、もう……一ヶ月も持ちません」
ユーリが力を失って床にへたり込んだ。シンの額からも、冷たい汗が流れ落ちる。自身の左腕の包帯の下にある「魔導傷跡」が、魔力消費の代償による拒絶反応で、焼き切れるようにズキズキと激しく疼いていた。だが、シンは痛みに顔を歪めることすら自分に許さなかった。
リィンを救うには、一時しのぎの中和剤では足りない。彼女の体内で暴走している不適合な回路を物理的に「解体」し、適合率を高めるための本物の強力な魔導回路を移植するしかなかった。
その時、診療所の錆びた鉄扉が、不規則なリズムで激しくノックされた。ルークの合図だ。
ユーリが警戒しながら扉を開けると、派手な刺繍の外套を着た肥満体の男――闇商人のルークが、息を切らしながら滑り込んできた。彼の両手の指にはめられた怪しげな指輪が、診療所の薄暗いランプの光を反射して怪しく光る。
「ハァ、ハァ……シン! お前にとって最高の死体が、今さっき手に入ったぞ!」
ルークは油ぎった顔を近づけ、声を潜めて囁いた。
「死体……? 誰のだ」
「帝国の下級貴族、ヴァルター一族の若造だ。雷術の使い手でな。今夜、街の外の『雷鳴の丘』で、不運にも巨大な落雷の直撃を受けて即死した。護衛どもが混乱して、死体を回収するまでに少し時間がかかる」
ルークは懐から、かすかに青い静電気が弾ける真鍮の懐中時計を取り出した。
「落雷の直撃を受けても、その肉体の中にある二重回路『雷鳴の脈』は、まだ崩壊せずに生きている。だが、死後硬直が始まれば、回路はただの肉の繊維と化して完全に消滅する。タイムリミットは、あと三十分だ」
三十分。雷鳴の丘までは、スラムの地下水道を駆け抜けてもギリギリの時間だった。
「シン、あの『雷鳴の脈』があれば、リィンちゃんの心臓のバイパスに適合するかもしれない!」
ユーリが目を見開いてシンを見つめた。シンの脳裏に、嵐の吹き荒れる「雷鳴の丘」の光景と、そこへ向かうための解剖学的な手順が超高速で組み上がっていく。
シンは無言で、コートの内ポケットから、銀色に輝く一振りの執刀メスを取り出した。魔力を通さない、ロルフの鋳造した「銀化のメス」。
「ルーク、案内しろ。三十分以内に、その貴族の血管を切り裂き、回路を剥離する」
シンは冷徹な瞳に、静かな反逆の炎を宿しながら、嵐の夜へと歩みを進めた。
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