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第1話:鉄錆スラムの無免許医

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大気を満たすのは、重油と泥、そして凝固しかけた血液の生臭い匂いだった。


 帝国東部の辺境都市「塩錆町(シオサビ・マチ)」。この街の空は、魔導炉から吐き出される青白い「魔力廃棄物の霧」によって、年中灰色に濁っている。煤煙と鉄錆に塗れた最下層のスラム街――通称「塩錆スラム」では、生まれつき体内に魔力を通す血管器官「魔導回路」を持たない平民、すなわち『無能者』たちが、奴隷同然の扱いで這いずり回っていた。


 彼ら平民にとって、己の血液は生きるための糧であると同時に、支配階級である貴族たちに搾取されるための「資源」に過ぎない。


「おい、動くな! 今月の魔力税がまだ足りんぞ!」


 泥濘に塗れた広場で、鉄錆色の甲冑をまとった「塩錆町治安警備隊」の衛兵たちが、一人の老いた平民を取り囲んでいた。老人の腕を掴み、大柄な体躯を揺すっているのは、悪徳税務官のヘルマンだ。彼は高いシルクハットを被り、骨張った冷酷な顔に歪んだ笑みを浮かべていた。


 ヘルマンの手には、悍ましい形状をした銃剣型の魔器――「注射剣」が握られている。その先端にある極太の吸引針が、老人の細く枯れ果てた静脈へと無慈悲に突き刺された。


「ぎ、ああああっ……!」


 老人が絶叫し、その場に崩れ落ちる。注射剣の背面にある真鍮とガラスでできたシリンダーに、老人の血液から強制抽出された青白い魔力が、赤黒い血流と共にドクドクと吸い上げられていく。それは、単なる血液の採取ではない。生命力の根源である魔導経絡を物理的に引き裂き、魔力を結晶化させるための「吸血搾取」だった。


「ま、待ってくれ……これ以上抜かれたら、儂は死んでしまう……」


「黙れ、無能者が。お前たちの汚れた血など、帝国の魔石炉を回すための燃料に過ぎん。今月のノルマに達するまで、一滴残らず搾り尽くしてやる」


 ヘルマンは冷酷に言い放ち、さらに注射剣のトリガーを引いた。老人の皮膚はみるみるうちに土気色へと変わり、指先が微かに青白く硬質化し始める。魔力汚染と急激な枯渇が引き起こす奇病、「魔硝病」の兆候だった。このままでは、心臓が停止する前に血管が内側からガラス化して破裂する。


「そこまでにしやがれ、税金泥棒の吸血鬼どもが!」


 その時、広場の影から、赤いバンダナを頭に巻いた野性的な青年が飛び出してきた。スラムの義賊を率いるリーダー、トードだ。彼は胸元の開いた革鎧をまとい、背負っていた武骨な改造大剣を引き抜くと、ヘルマンの前に立ち塞がった。


「トード……! またお前か。スラムのネズミめ、国家の徴収を妨害する気か!」


 ヘルマンが鋭く叫ぶと、周囲の衛兵十数名が一斉に槍を構え、トードを包囲した。トードは大剣を構えて牙を剥くが、相手は重甲冑をまとった訓練された兵士たちだ。力ずくでの突破は極めて困難な状況だった。一触即発の緊迫感が広場を支配する。


(……愚か者が。正面から突撃すれば、老人の命ごとすり潰されるのが分からんのか)


 広場の外縁、薄暗い路地裏の影から、その様子を冷徹に見つめる男がいた。


 黒髪を無造作に伸ばし、すり切れた灰色のコートを羽織った青年――シン。22歳。この塩錆スラムの地下水道の奥で、無免許の闇魔導外科医として活動する男だ。彼の左腕は、不自然なほど厚い包帯で固く巻かれており、その奥にある「魔導傷跡」を隠していた。


 シンは静かに呼吸を整え、両目に意識を集中させた。


(「魔導動脈視(アナトミカル・アイ)」、展開)


 シンの瞳が一時的に澄んだ青色へと変化する。彼の視界はモノクロの解剖図へと切り替わり、皮膚や衣服を透過して、ヘルマンや衛兵たちの体内を流れる「魔導回路」の輝きが完全に見えるようになった。ヘルマンの腕には、一重の不格好な回路が不規則な脈動を刻んでいる。


 そして、ヘルマンが持つ注射剣の内部で、魔力を強制吸引するための術式がどのような周波数で循環しているかも、シンには一目で理解できた。あの魔器の吸引ポンプは、生体電気の固有振動を媒介に作動している。


(その術式の配列……切り裂くのは容易い)


 シンはコートのポケットから、微細な銀の粉末が入った小瓶を取り出し、そっと手のひらに広げた。これは森の老婆アガサから仕入れた「安息香」を特殊精製した粒子だ。


 シンは指先に微弱な魔力を込め、広場に向けて静かに放出した。


(「局部麻酔結界(ローカル・アネステシア)」――展開)


 シンの足元から、肉眼ではほとんど見えない青白い霧のような粒子がドーム状に広がり、ヘルマンと注射剣を包み込んだ。それは指定した空間の魔導活動を一時的に「麻痺」させる、シン独自の戦闘医術だ。


「……ぬ? 何だ、これは」


 ヘルマンが不審な声を上げた。次の瞬間、彼の手の中で脈打っていた注射剣の真鍮製ポンプが、不自然な「キィン」という高音を立ててピタリと停止した。シリンダーへの血液の流入が完全に途絶える。


「バカな、注射剣が停止した!? 魔力流が……完全に遮断されている!」


 ヘルマンが慌ててトリガーを何度も引くが、結界内の電気的・魔術的伝達が麻痺しているため、魔器はただの鉄の塊と化していた。


「今だ、トード! やれ!」


 背後の闇から響いたシンの低い声に、トードの身体が瞬時に反応した。トードは理由を考えることなく、大剣の腹で最も近くにいた衛兵の兜を強打し、物理的にノックアウトした。そのまま地面に倒れ込んでいた老人を強引に抱え上げると、衛兵たちの包囲網の隙間を突き抜けて、シンのいる暗い路地裏へと飛び込んだ。


「追え! スラムのネズミどもを逃がすな!」


 ヘルマンの怒号が響くが、結界から外れた注射剣の再起動には数十秒の再充填時間が必要だ。その隙に、シンはトードと老人を伴い、迷宮のような地下水道の隠し入り口へと滑り込んだ。


 地下水道の奥、湿った壁に囲まれた暗がりに、老人が激しく喘ぎながら横たえられていた。老人の腕の傷口からは、どす黒い血液が噴き出し、血管が急激に収縮して崩壊しかけている。ショック死寸前だった。


「おい、シン! このじいさん、死にかけだぞ! どうにかしてくれ!」


 トードが焦燥に駆られて叫ぶ。シンは冷徹な瞳のまま、コートの内側から一振りの美しい手術用メスを取り出した。それは魔力を一切通さない特殊な銀合金で作られた「銀化のメス」だった。


「静かにしろ、トード。血管が閉塞すれば、その時点で終わりだ。ユーリ、滅菌用石炭酸とカテーテルを」


 闇から、シンの弟子である16歳の少年ユーリが、素早い動きで医療鞄を差し出した。ユーリの目には恐怖と、それを上回るシンへの絶対的な信頼が宿っている。


 シンは老人の傷口に直接手をかざした。


(「止血結界(ヘモスタシス)」)


 シンの手のひらから放たれた微弱な魔力が、噴き出していた血液を空中でピタリと静止させ、仮の防壁となって血管壁を物理的に固定した。老人の激しい出血が、奇跡のように止まる。


「これから血管のバイパスを形成する。トード、老人の腕を固定しろ。1ミリでも動かせば、針が動脈を突き破る」


 シンは「精密微細縫合針」に、髪の毛よりも細い「月光草の極細繊維」を通した。そして、もう片方の手で、スラムのジャンクパーツから作り上げた銀色の極細ワイヤー――「疑似血脈(人工回路)」を手に取る。


 シンの「魔導動脈視」が、老人の崩壊しかけた静脈の断面を捉えた。


 息を止め、心臓の鼓動の合間を縫うように、シンの手が超高速で動いた。銀化のメスで壊死しかけた血管の末端を切り落とし、そこに疑似血脈のワイヤーを一本ずつ、極細の糸で毛細血管へと縫い合わせていく。それは魔法という神秘を、ミリ単位の「生体配線の物理手術」として解体・再構築する、禁忌の魔導医術だった。


 ユーリが息を呑んで見守る中、シンは最後の結び目を締め、止血結界を解除した。


「……血流、再開」


 老人の青白い皮膚の下を、再び赤い血液が流れ始めた。疑似血脈のワイヤーが、老人の血流と同調してかすかに銀色の光を放ち、収縮していた血管を内側から物理的に押し広げて固定する。老人の荒かった呼吸が、劇的に静まり、安定した脈動へと戻っていった。


「救ったのか……あんなボロボロの血管を、その手だけで……」


 トードが呆然とシンの手元を見つめていた。シンの額からは汗が流れ落ち、左腕の包帯の下が、結界維持の代償による拒絶反応でズキズキと激しく疼いていた。しかし、シンの表情は鉄のように冷徹なままだった。


「命は繋ぎ止めた。だが、警備隊はスラムに魔法を無効化する不審な医者がいることを確信したはずだ。マークが厳しくなる。トード、老人を教会のクレアの元へ運べ。私は診療所へ戻る」


 シンは血に汚れたメスを石炭酸で拭き取り、再び暗い地下水道の奥へと歩み去っていった。その背中を見送るトードの胸には、畏怖と、そして言葉にできない熱い信頼が刻まれていた。


 翌朝、塩錆スラムの片隅で、奇妙な噂が囁かれ始めた。


 警備隊に血を吸い尽くされ、死ぬはずだった老人が生き延びた。そして、その老人の腕の皮膚の下には、まるで新たな希望の光のように、一本の「奇妙な銀色のライン」が静かに脈打っている、と――。

HẾT CHƯƠNG

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