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禁足地の鏡、神宮の池に潜め

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深夜二時。東京の喧騒が嘘のように静まり返った明治神宮の森は、まるで現世から切り離された異界の深淵のようだった。


原宿の鳥居をくぐった瞬間から、空気の密度が明らかに変わる。頭上を覆う鬱蒼とした巨木たちが月光を完全に遮り、人工的な光が一切届かない絶対的な暗闇を作り出していた。


「……くっ……」


俺は口の中に広がる不快な感触に、思わず顔をしかめた。唾液がまるで乾いた砂の塊のようで、喉を通るたびにざらついた痛みを残す。カグツチの影をその身に宿して以来、俺の味覚は完全に死に絶えていた。普通の食べ物も、水さえも、今の俺にとってはただの乾いた砂と変わらない。


さらに、左腕が鉛のように重く冷え切っている。


「魂魂等価交換則(ソウル・トレード)」――病床の沙耶の命を繋ぎ止めるため、俺は自らの影の生命力を分け与え続けた。その代償として、俺の左手から手首にかけては、今や黒いガラスのように硬質化し、不気味に半透明へと透過していた。指先一つ動かすのにも、凍えるような激痛と麻痺が走る。


「チク、タク、チク、タク……」


制服の上着のポケットから、重い金属音が響く。白妙から授かった銀色の『月光の懐中時計』だ。ゼンマイの音が、狂いそうなほど激しい俺の心拍と同調し、日の出までの残り時間と、影の浸食度を非情に刻み続けている。


(急がなければ、俺の身体が先に霧散する……)


今回の潜入は、凛が外側で囮を引き受けてくれたからこそ成立している。彼女は今、原宿側の鳥居付近で「影絵術」のデコイを展開し、天照衆の巡回兵たちの目を引きつけてくれているはずだ。他者に触れられない孤独を抱えながらも、俺を戦友と呼んでくれた彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。俺は黒い包帯に包まれた右腕を庇いながら、参道の玉砂利を音もなく踏みしめ、森の奥深くへと進んだ。


その時、俺の網膜を保護している「光遮るサングラス」のレンズが、微かに黄金色の光の糸を捉えた。


神宮の参道全体を網の目のように覆う「光輝の感知結界」。天照衆が仕掛けた、霊的な波長を検知する目に見えないセンサーだ。一歩でも踏み外せば、俺の宿すツクヨミの影が反応し、神宮全体に警報が鳴り響くだろう。


俺は立ち止まり、懐から「認識阻害の符砂」を取り出した。微細な黒い砂粒を指先でつまみ、静かに宙へと撒く。


サラサラと零れ落ちた符砂は、空間の感知結界の黄金の光を吸い込むようにして、黒い霧となって広がった。俺は「無光息」の呼吸を維持し、自身の影の波長を、周囲の原生林が作り出す自然の影と同調させた。黄金の光の糸が俺の身体をかすめたが、アラートは鳴らない。結界の目を欺くことに成功した。俺は息を殺したまま、さらに奥へと潜り込む。


木々の隙間から、ひっそりと佇む水面が見えた。明治神宮の最深部に封印された禁足地――「鏡の池」だ。


周囲の風は完全に止み、木々の一葉すら動かない。池の水面は、雲間から漏れる月光を反射して、不気味なほどに青白く光っている。まるで、世界そのものを映し出す鏡の板が、大地の底に埋め込まれているかのようだった。


(ここが、父さんの手帳にあった場所……)


亡き父親、黒金征二は、かつてこの池でツクヨミの血統の真実を突き止めようとしていた。彼が遺した「黒革の研究手帳」の暗号が、俺をここへ導いたのだ。


俺は池を渡り、その中心にある小さな祠へと近づくため、水面に伸びる木の枝の影に向けて「影潜み」を起動しようとした。


だが、その瞬間。


バチィィィン!


強烈な光の反発が俺の全身を襲った。


「なっ……がはっ!」


影の中に溶け込もうとした俺の身体は、水面に触れた瞬間、激しく弾き出された。冷たい石畳の上に叩きつけられ、肺から空気が力ずくで押し出される。


「鏡の池」の水面は、影を反射して強制的に実体化させる特殊な性質を持っていたのだ。影の中に逃げ込む隠密術が、完全に無効化されている。


水面が大きく波立ち、そこから青白い霧が立ち上った。霧は瞬時に形を変え、人の輪郭を持った不気味な怪異へと具現化していく。鏡の池を守護する「水精の怪異」たちだ。奴らの目が黄金色に光り、水面から引き抜いた冷酷な水刃を俺に向けて放った。霊脈を直接凍らせる水刃が、空気を切り裂いて迫る。


「くっ……!」


左腕はガラス化して動かない。この狭い空間でカグツチの「黒炎」を使えば、その強烈な光と熱量によって、神宮全体の警報システムが作動し、天照衆の本隊が即座に押し寄せてくる。黒炎は絶対に使えない。物理的な戦闘を最小限に抑え、池の防衛を突破する鍵はどこにある?


俺は右手で、懐にある父の「黒革の研究手帳」を強く握りしめた。手帳の表紙に残された微かな影の残滓に、俺は自身の魔力を流し込んだ。


「影の記憶再生(サイコメトリー・シャドウ)!」


脳裏に、凄絶なノイズと共にかつての光景が流れ込んできた。それは、この鏡の池の前に立つ、眼鏡をかけた難しい顔の男――父、黒金征二の姿だった。


『鏡の池は、ツクヨミの血統の純度を試す試練の地。力でねじ伏せることはできない。池の守護獣が平伏するのは、夜の神の紋章――すなわち、その血だけだ……』


父の幻影が、静かに語りかけてくる。


だが、他人の記憶を脳内に直接再生する代償は、俺の不眠症でボロボロの脳に牙を剥いた。


「が、あぁぁぁ……っ!」


脳の血管が千切れるような激痛が走り、視界が血のように赤く染まり始める。精神の限界値である「影の拒絶限界」が牙を剥き、俺の網膜の裏で無数の黒いノイズが明滅した。懐中時計の「チクタク」という音が、鼓膜を破らんばかりの音量で響き渡る。


水刃が俺の喉元へと迫っていた。


「……俺の、血を……!」


俺は本能的に、右手の指先を自らの歯で強く噛み切った。激痛と共に、ドロリとした黒ずんだ赤い液体――ツクヨミの血が滴り落ちる。俺はその指を、迫り来る水刃の前に突き出し、血の一滴を鏡の池の水面へと落とした。


波紋が静かに広がり、血が青白い水の中に溶けていく。


その瞬間、水刃が俺の喉元数ミリのところでピタリと停止した。水精の怪異たちの黄金の眼が、俺の血の波長を感知し、その光を失っていく。奴らは静かに武器を収め、俺に対して恭しく一礼すると、そのまま溶けるようにして水底へと沈んでいった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


激しい息切れと、頭痛に耐えながら、俺は池の縁へと這い寄った。池の防衛を突破することには成功した。しかし、池の霊的反応が神宮全体の結界を激しく揺らし、遠くで警報の鐘の音が響き始めている。時間がない。俺は自身の血統の真実を、影の真の姿を暴くため、青白く光る水面を覗き込んだ。


だが、月光を反射していた鏡のような水面が、ドロリと漆黒の闇へと変色した。


「……何だ?」


次の瞬間、池の底から、無数の黒い触手と巨大な単眼を持つ、悍ましくも美しい「巨大な闇の幻影」が這い上がってきた。その幻影の顔は、他ならぬ俺自身の顔をしていた。俺自身の顔をした怪物が、漆黒の底から這い上がり、その冷たい影の手で俺の喉を容赦なく締め上げた。

HẾT CHƯƠNG

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