頭上の猟犬、影監視の八咫烏
私立黎明高校の放課後、夕焼けが血のように赤い光を廊下に投げかけていた。転校生・御門零士の「いい影の匂いだ、簒奪者」という不気味な囁きが、悠人の耳の奥でいつまでも不快にリフレインしている。日常という薄い氷が、足元できしみながら割れていくような、強烈な戦慄と焦燥感。学校の門を出た悠人は、右腕に巻かれた黒い包帯を無意識に強く締め直した。
上着のポケットの中で、冷たい金属の塊が小さく震えていた。白妙から授かった銀色の古い『月光の懐中時計』だ。
「チク、タク、チク、タク……」
ゼンマイが刻む重く規則正しい金属音が、悠人の激しく脈打つ心拍と不気味なほど完璧に同調している。悠人の焦燥感が高まるにつれ、時計の刻むテンポもまた、狂ったように速度を上げていく。不眠症のひどいクマが刻まれた目をサングラスの奥で細め、悠人は夕闇が支配し始めた東京の街を、日陰だけを縫うようにして走り出した。目指すは、妹の沙耶が入院している都立東新宿総合病院だ。刃から聞かされた天照衆の「大祓」計画が真実なら、沙耶のいる病室はすでに彼らの掃討ライン上に乗っている。
夜の帳が完全に降りた頃、悠人は病院の裏手に到着した。病院の窓から漏れる蛍光灯の白い光が、アスファルトの上に無数の格子状の影を描き出している。消毒液の鼻を刺す匂いと、空調設備の低く重いハミングが周囲に満ちていた。一般社会の領域――ここで能力を使用することは「世界の禁忌」に触れる危険を伴う。だが、沙耶の安否を確かめないわけにはいかない。
「無光息(むこうそく)」
悠人は深く息を吐き、心臓の鼓動を極限まで遅くした。自身の生命力という「光」を体内に閉じ込め、霊的な気配を完全にゼロにする呼吸法。体温が急速に低下し、肺が酸素を求めて悲鳴を上げ始めるが、悠人はその苦痛を精神力でねじ伏せた。彼はビルの壁面や非常階段が作り出す深い闇と同化し、影から影へと滑るようにして、特別病棟の最上階へと音もなく侵入した。
502号室。重い防音扉の隙間から滑り込んだ悠人の目に、白いベッドの上で静かに眠る妹・沙耶の姿が映った。白いパジャマに包まれた彼女の身体は痛々しいほど痩せ細り、肌は微かに光を失っている。呼吸器の規則正しい機械音が、静まり返った病室に響いていた。
「沙耶……」
悠人はサングラスを外し、ベッドの傍らに膝をついた。彼女の命を繋ぎ止めているのは、現代医学の点滴ではない。悠人が神皇の影から奪い、彼女に分け与え続けている生命力だけだ。悠人は左手首に巻かれた、沙耶手作りの色褪せた赤いミサンガを見つめ、そっと彼女の冷たい手を握った。そして、体内の影の力を指先へと集中させる。
「魂魂等価交換則(ソウル・トレード)」
自身の影の奥底から、カグツチの残影から奪った生命の波動を引き出し、沙耶の衰弱した魂へと直接注ぎ込んでいく。瞬間、悠人の左手の指先が急速に感覚を失い、黒いガラスのように透過し始める「霊体ガラス化現象」の激痛が走った。骨の髄まで凍りつくような冷気と痛みが腕を這い上がってくるが、悠人は歯を食いしばって耐えた。沙耶の頬に、微かに赤みが戻るのを見届けるまで、彼は自身の肉体を削り続けた。
ふと、悠人の足元に潜んでいた黒猫の式神「ノワール」が、喉を低く鳴らして窓の外を睨みつけた。毛を逆立て、戦闘態勢に入っている。
(……何か、来る)
悠人は「無光息」を維持したまま、ベッドの影に身を潜め、窓の外の闇を見つめた。病院の最上階、地上数十メートルの窓外。そこに、音もなく舞い降りた影があった。
それは、三本の脚を持ち、目が黄金にまばゆく光る、影のように黒い巨大なカラスだった。天照衆の高等式神――『影監視の八咫烏(やたがらす)』。その首からは、黄金の小さな八咫鏡が吊り下げられており、その鏡面が青白い光を放ちながら病室の内部、正確には沙耶の胸元を走査し始めていた。八咫烏は、沙耶の体内に眠る「光の呪い」の波動を測定し、悠人の覚醒度を測るための罠として、天照衆が配置した「空中の目」だったのだ。
(あの黄金の鏡……本部へのリアルタイム通信装置だ。走査が完了するか、奴が警報を鳴らした瞬間、沙耶の病室は天照衆の光の槍で貫かれる)
悠人の脳裏に、最悪の結末が描き出された。しかし、ここで『黒炎の術式』を使って焼き払えば、炎の光と熱量が病院の火災スプリンクラーを作動させ、一般社会に大パニックを引き起こす。それは天理の歪みによる「即時消滅」を意味する世界の禁忌だ。黒炎は使えない。
(騒音を一切立てず、一撃で核を破壊するしかない)
悠人は冷静に戦術を組み立てた。彼は「無光息」で完全に自身の魔力気配を消したまま、影の中からノワールを静かに窓の外へと送り出した。ノワールは現実世界の黒猫の姿を模しながら、窓枠のわずかな日陰を伝い、八咫烏の背後へと回り込んでいく。八咫烏の黄金の眼は、病室内の沙耶の霊的走査に集中しており、気配を消したノワールの接近に気づいていない。
だが、ノワールが爪を突き立てようとした瞬間、八咫烏の首の鏡が不自然に明滅した。侵入者を感知したのだ。八咫烏が鋭い嘴を開き、位置情報を本部に送信する警報「光波の咆哮」を放とうとする。
(逃がすか……!)
悠人は病室の中から、自身の慢性的な不眠症の苦痛を同期させる精神同期術を放った。
「不眠の共鳴(インソムニア・エコー)!」
悠人が十六年間、一秒の安息すら得られずに暗闇を見つめ続けてきた底知れぬ疲労感、脳を引き裂くような偏頭痛の幻覚、そして焦燥の地獄――そのすべてが、影の波動となって八咫烏の脳内へと直接叩き込まれた。高等式神といえど、精神を持つ霊体だ。あまりの激痛と精神的負荷に、八咫烏の黄金の眼が激しく濁り、開いた嘴から声が出る前に、その全身が硬直して麻痺した。
一瞬の沈黙。その隙を逃さず、悠人の影から伸ばした漆黒の手が窓外へと飛び出し、八咫烏の巨躯を強引に病室の暗闇の中へと引きずり込んだ。同時に、背後に肉薄していたノワールの「影爪」が、青白い光を帯びて一閃した。
パリィィィン! と、耳障りな金属音が静かな病室に響き、八咫烏の首にかけられていた黄金の鏡――通信核が一瞬にして粉々に両断された。八咫烏の巨躯は、光の塵となって床に霧散していく。
隠密暗殺は成功した。悠人は荒い息を吐きながら、ガラス化した左腕の激痛に耐え、立ち上がろうとした。
しかし、その瞬間、床に散らばった黄金の鏡の破片が一斉にまばゆい光を放ち始めた。破片から立ち上る光の粒子が、空中で複雑な魔術幾何学を描き、立体的なホログラムを投影しだしたのだ。
光の中に現れたのは、黄金の重厚な鎧を纏い、背中から神聖な光の輪を背負った、眼光の鋭い頑強な男の姿だった。天照衆の最高執行官――金剛寺烈(こんごうじ れつ)。
投影された烈のホログラムは、ゆっくりと顔を上げ、サングラスをかけた悠人の顔を正確に凝視した。その瞳には、一切の慈悲を排した、狂信的な絶対正義の光が宿っている。
「――見つけたぞ、簒奪者(さんだつしゃ)」
烈の声は、物理的な音波ではなく、悠人の霊脈を直接震わせる圧倒的な威圧感を持って病室に響き渡った。
「お前がどこに隠れ、何を護ろうとしているか、すべては我らの光の前に暴かれた。黒金悠人、お前の日常はすでに我が結界の檻の中だ。日の出を待たずして、その不浄な影ごと焼き尽くしてくれよう」
ホログラムは冷酷な宣告を残し、黄金の光の粒子となって静かに消滅した。後に残されたのは、心電図の規則正しい電子音と、悠人のポケットの奥で「チク、タク、チク、タク」と同調速度を上げて響き続ける懐中時計の焦燥の音だけだった。
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