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常夜の同盟、崩壊しゆく日常

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新宿御苑の芝生に、冷酷な白銀の光が容赦なく降り注ぐ。神殿の崩壊によって生じた空間の亀裂から響く重厚な甲冑の足音――それは、俺の命を刈り取りにきた天照衆の最高執行官、金剛寺烈の接近を告げていた。


「走るよ、悠人……! ここで捕まったら、本当に灰にされる!」


 満身創痍の雨宮凛が、俺のパーカーの襟元を掴んで強引に引きずり起こした。カグツチの残影を喰らったことで、俺の右足のガラス化は一時的に停止していたが、魔力は完全に底を突き、全身が鉛のように重い。右腕を覆う焦げ付いた炭化の痣が、脈打つたびに焼けるような痛みを送ってくる。俺は痛む喉を震わせ、味のしなくなった血唾を吐き捨てた。唾液は、ただの乾いた砂のようにざらついて、舌の上で不快に転がるだけだった。


「無光息(むこうそく)……を、維持しろ」


 俺は息を止め、体温と心拍を極限まで引き下げた。自身の生命という「光」を完全に消し去る隠密の呼吸。凛もまた、かすれた息を呑み込み、俺の肩を抱えて大木の影へと滑り込んだ。背後で、芝生が一瞬にして白銀の極光によって焼き払われ、炭化していく衝撃波が背中を叩く。あと一瞬遅ければ、俺たちの存在自体が消滅していただろう。


 俺たちは歌舞伎町のビル風が作り出す、網の目のように入り組んだ路地裏の影へと転がり込んだ。ネオンの明滅が、俺の『光遮るサングラス』のレンズに不気味な色彩を反射させる。這うようにして辿り着いたのは、雑居ビルの地下三階。


 鉄の扉を開けると、そこには新宿影ノ街の喧騒から隔絶された、ジャズが静かに流れる退廃的な空間が広がっていた。常夜同盟の秘密拠点であり、怪異専門の会員制バー――『シャドウ・ラウンジ』。


「おいおい、ずいぶんと派手に焼かれて帰ってきたな、簒奪者の小僧」


 カウンターの奥でクリスタルグラスを磨いていた大柄な男――マスターの影山健が、深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せて俺たちを一瞥した。この店を包み込む強力な『常夜の結界』が、俺たちの背後で静かに閉じるのを感じて、ようやく肺から熱い空気が吐き出された。


「……マスター、月光の雫を」


 凛がカウンターに倒れ込みながら掠れた声で要求する。だが、その時、ラウンジの奥のボックス席から、衣服の擦れる音が聞こえた。


「へえ、それが噂の『神殺しの泥棒猫』か。思ったよりも貧相なツラをしてるな」


 影の中から染み出すようにして立ち上がったのは、シルバーのインナーカラーが入った黒髪を不敵に揺らす青年だった。ライダースジャケットをラフに羽織り、その腰には月読の家紋が刻まれた漆黒の太刀『月蝕』が佩かれている。五大神道クランの一つ『月読衆』の反逆者、月詠刃(つくよみ じん)だった。


「誰だ、お前……」


 俺は警戒を最大に引き上げ、黒い包帯に包まれた右腕を引き絞った。刃は不敵な笑みを浮かべたまま、一歩、また一歩と俺との距離を詰めてくる。その足元から、月光を反射した影が狼の顎(あぎと)のように形を変え、俺の『影の濃度』を値踏みするように這い寄ってきた。


「挨拶代わりだ。お前が本当にカグツチを喰らったのか、その影に聞いてやるよ」


 刃の影が、牙を剥いて俺のつま先へ噛み付こうとした瞬間――俺の右腕の炭化痣から、青白い火花がパチパチと爆発的に弾けた。カグツチの残影から簒奪した『黒炎の術式』の残火。熱を持たない、しかし光さえも燃料にして燃え広がる漆黒の炎が、威嚇するように刃の影を睨みつける。


「……やめろと言っている」


 俺の言葉と同時に、一触即発の空気がラウンジを満たした。だが、その衝突が起こる前に、ボックス席の天井から、すべてを圧殺するような巨大な闇の質量が降り注いだ。


「うちの店で暴れるなと言ったはずだ、ガキども」


 マスターの健が、磨いていたグラスを静かにカウンターへ置いた。その瞬間、彼の背後から立ち上がった圧倒的な影の威圧感が、俺の黒炎の火花と刃の影の牙を、まるで消し炭にするように一瞬で押し潰した。息が詰まるほどの静寂。これが、かつて影ノ街の覇権を争った古い怪異の力か。


 刃は肩をすくめ、足元の影を元の輪郭へと戻した。


「悪かったよ、マスター。だが、こいつの『器』は本物のようだ。黒金悠人、俺はお前に取引を持ちかけにきた」

「取引……?」

「天照衆の動向だ。奴らは近々、新宿エリアのすべての下級怪異を『光の燃料』として強制的に浄化する、無差別な『大祓(おおはらえ)』を計画している。お前が探している入院中の妹――黒金沙耶の隔離病棟も、その霊的掃討ラインの真上にある」


 脳髄に、冷たい氷を突き刺されたような衝撃が走った。沙耶の命が、天照衆のシステムによって再び危機に瀕している。


「なぜ、それを俺に教える」

「俺は月読衆の腐敗した長老どもを引きずり下ろし、当主の座を奪う。お前は妹の命を救い、ツクヨミの血脈を覚醒させる。お前の『神の影を喰らう力』と、俺のクランの内部情報――手を組むには十分な理由だろ?」


 刃は不敵に笑い、カウンターに一枚の黒い御朱印を置いた。それは月読衆の極秘通信経路を示すものだった。


「……わかった。ただし、裏切ればお前の影ごと黒炎で焼き尽くす」


 俺は冷徹に答え、その御朱印をポケットに収めた。刃を信用したわけではない。だが、今の俺には、肉体のガラス化を抑える『月光の雫』の安定供給ルートと、沙耶を守るための情報が不可欠だった。これは、夜を生き延びるための冷酷な「利害の一致」だ。


 ラウンジの奥の簡易ベッドで、俺は泥のような数時間の休息を取った。だが、不眠症の呪いは、俺に深い眠りを与えることはない。時計のゼンマイが「チク、タク」と刻む不気味な音が、俺の心拍と完全に同調し、焦燥感だけを増幅させていた。


 翌朝。俺は現実世界の「日常」を維持するため、黎明高校の制服に身を包んだ。右腕の炭化痣を黒い包帯と長袖で隠し、光に極端に弱くなった目を守るために『光遮るサングラス』を深くかけて、私立黎明高校の門をくぐった。


 だが、校舎に足を踏み入れた瞬間、異様な違和感が俺の全身の肌を粟立たせた。


 教室に入り、自分の席に座る。いつもなら、不眠症でいつも眠そうな俺をからかってくるはずの唯一の親友――瀬戸翔太が、スマートフォンをいじったまま、俺の存在に気づく様子すらない。


「翔太……」


 俺が声をかけると、翔太はビクリと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳は、まるで霧がかかったように不自然に濁っていた。彼は俺の顔を数秒間見つめ、それから酷く曖昧な、記憶の引き出しを必死に探るような表情を浮かべた。


「あ……あれ? 悠人……だっけ。ごめん、なんか、お前がそこに座ってるの、一瞬わからなかったわ。最近、学校休んでたっけ……?」

「何を言ってる。昨日も――」


 言葉が喉の奥で凍りついた。翔太の脳裏から、俺という存在の輪郭が、物理的に削り落とされようとしている。それは、影の同化が進むことによる残酷な代償――日常からの忘却。俺が神の影を喰らうほど、現実世界(昼の東京)の因果から俺の存在が消去されていくのだ。


「黒金くん、提出物があるんだけど……」


 学級委員長の桜井琴音が、プリントの束を抱えて俺のデスクの前に立った。だが、彼女の視線もまた、俺の顔を通り抜けて、背後の黒板を見つめているかのように虚ろだった。彼女の差し出す手は、俺の存在の薄さに戸惑うように微かに震えている。


「あ、ええと、ごめんなさい。何をもらおうとしてたんだっけ……」


 琴音は自分の頭を軽く抑え、混乱したように呟いた。日常が、音もなく崩壊していく。俺が命をかけて守ろうとしている日常そのものが、俺を異物として排除し、忘却の彼方へと押し流そうとしている。胸の奥が、冷たい虚無感で引き裂かれそうになった。


 放課後。俺は逃げるようにして、夕暮れの赤い光が差し込む廊下を歩いていた。サングラスの奥で、強烈な西光が俺の網膜をチリチリと焼き、頭痛を悪化させる。足早に角を曲がろうとした、その時だった。


 ザッ、と静かな足音が、俺のすぐ目の前で止まった。


 すれ違う、見知らぬ転校生の少年。端正な顔立ちに完璧な制服の着こなし、そして何よりも――一切の感情が欠落した、鏡のように冷たい瞳。御門零士だった。


 彼と肩が触れ合うほどの至近距離ですれ違った、その一瞬。


 零士の身体から、天照衆の最高幹部直属の密偵にふさわしい、皮膚を刺すようなまばゆい光の残香が漂った。彼は歩みを止めることなく、俺の耳元にその唇を寄せた。


「――いい影の匂いだ、簒奪者(さんだつしゃ)」


 低く、しかし明確に響いた囁き。零士は不敵に微笑み、そのまま赤い夕光の中に溶け込むようにして、廊下の奥へと歩み去っていった。


 俺の右腕の影が、その言葉に反応して、包帯の奥で狂暴にのたうち回り始めた。日常という名の薄い氷は、すでに完全に踏み抜かれていたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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