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神殺しの黒炎、奪われた五感の代償

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動かない。俺の右脚は、膝から下までが完全に漆黒の硝子へと変貌していた。

 新宿御苑を埋め尽くす青い炎が、その硝子の表面に冷酷な反射光を描いている。物理的な感覚は完全に消失し、まるで地面から直接生えた黒い結晶の塊に肉体を縫い止められたかのようだった。


「オ、オオオオオオ……!」


 神殿の最深部、天を衝く青い火柱の前に立つ『カグツチの残影』が、歪んだ黄金の仮面の奥から地鳴りのような咆哮を上げた。神の残滓が放つ凄絶な熱波が、周囲の酸素を急速に奪い去っていく。呼吸が、できない。

 俺の心臓は、限界を超えた速度でドクドクと警鐘を鳴らし、ポケットの奥にある『月光の懐中時計』がそれに同期するように「チチチチチ」と狂ったような超高速の金属音を奏でていた。脳髄を内側から焼き焦がすような不眠症の偏頭痛が、視界をチカチカと赤く染め上げる。


「悠人! これ以上は私の影絵も保たない! あの化け物、残ったすべての影を焼き尽くして、自分と同化させようとしてる!」


 俺の隣で、雨宮凛が悲痛な声を上げた。彼女の手元で点灯している唯一の光源――懐中電灯を握る手が、激しく震えている。彼女の繊細な指先が操るガラス板は、すでに限界以上の魔力の過負荷によって、ピシリと細い亀裂を走らせていた。彼女が展開している『影絵・遮熱幕』の防壁は、カグツチの青炎に曝され、ドロドロとした黒い液体となって地面に溶け落ちつつある。


 ――この熱源の核、『カグツチの火種』を直接喰らって同化しなければ、俺たちは数分以内に灰になる。逃げ場はない。


「凛……俺を、奴の足元まで滑らせてくれ」

 俺は『無光息』の呼吸を辛うじて維持し、喉の奥から絞り出すように言った。

「正気!? あんたのその脚じゃ、影に飛び込んだ瞬間に座標が狂って、今度こそ魂ごと消滅するよ!」

「これしか、生き残る方法はない。俺を信じろ」


 俺の瞳の奥に宿る、冷酷なまでの簒奪の執念――その闇の光を見た凛は、一瞬だけ息を呑み、そして覚悟を決めたように歯を食いしばった。

「……わかった。その代わり、しくじったらあんたの影、私が全部絵の具にしてやるから!」


 カグツチの残影が、胸元の『日輪の核』を太陽のように輝かせ、周囲の影を強制的に蒸発させる『日輪の咆哮』を放とうとした。空間全体の温度が爆発的に上昇し、空気が陽炎となって揺らめく。


 その瞬間、凛が動いた。

「私の光、すべてを闇に捧げる――!」


 凛は手元に残された数枚の『影絵スライドガラス』を、その手の中で物理的に握り潰した。パキン、パキンと、甲高いガラスの破砕音が響く。彼女の全魔力と引き換えに放たれた、最大出力の『幻影の闇』。懐中電灯の光がガラスの破片によって不規則に乱反射し、一瞬だけ、カグツチの周囲に完全な光の死角――「絶対的な暗闇」が展開された。


「グ、オ……ッ!?」

 視覚を完全に奪われた神の残滓が、虚空に向けて青炎の腕を狂暴に振り回す。その熱風が俺の皮膚を焼き焦がすが、俺はもう痛みすら感じていなかった。


「行け、悠人――!」


 凛の叫びと同時に、俺は息を完全に止めた。無光息の極限。自身の生命力を完全にゼロに抑え込み、動かない硝子の右脚を強引に引きずるようにして、凛が作り出した一瞬の闇――カグツチの足元に生じた漆黒の影へと飛び込んだ。


『影潜み』。


 重力のねじれが俺の五臓六腑を押し潰そうとする。だが、今回は凛の幻影の闇が、狂暴な青炎の干渉を完璧に遮断していた。摩擦ゼロの暗黒空間を、滑るように滑空する。カグツチの巨大な影の底を潜り抜け、俺は奴の胸元の影から、音もなく浮上した。


「不浄の、羽虫が……!」

 カグツチの黄金の仮面が、驚愕と怒りに歪む。奴が青炎を俺の顔面に向けて放射しようとした、その刹那。


「――お前の影、俺が喰らう」


 俺は右腕に巻かれた黒い包帯を引きちぎり、炭化した煤の痣で覆われた右手を、カグツチの胸元に露出した『カグツチの火種』へと直接突き入れた。神聖な黄金の光が、俺の指先をジュクジュクと焼き焦がす。だが、俺の影はそれ以上に飢えていた。


『影喰らいの儀(シャドウ・イーター)』――起動。


 俺の右腕の痣から、無数の黒い鎖のような影が蠢き出し、神の核へと物理的に縫い付けられた。カグツチの体表を流れる青い業火が、その鎖を伝って俺の影の中へと逆流し始める。


「ア、ガ、アアアアアアアアアアアアアアッッ!!」


 カグツチの残影が、天を仰いで絶叫した。神の膨大な記憶と、数千年の怒りの残滓が、俺の脳髄へと直接なだれ込んでくる。脳が沸騰し、眼球が裏返りそうになるほどの激痛。だが、俺の魂の底に眠るツクヨミの闇は、その神聖な光を拒絶し、属性を強制的に反転させていった。


 黄金の光が、漆黒へと染まっていく。

 青い炎が、光さえも燃料として燃え広がる、熱を持たない青白い『黒炎』へと書き換えられていく。神の火種が、俺の右手の影の深淵へと完全に吸い込まれ、縫い合わされた。


 カグツチの巨大な躯体が、光の塵となって霧散していく。同時に、新宿御苑を包んでいた『黒炎の神殿』が、ガラスが割れるような音を立てて崩壊し始めた。青い火柱が消え、静寂が、夜の帳が、ゆっくりと御苑に戻ってくる。


 ドサリ、と俺は湿った芝生の上に倒れ込んだ。

 右足のガラス化の進行は停止し、物理的な感覚が微かに戻りつつある。しかし、全身を襲う疲労感は、今までに経験したことのないほど重く、冷たかった。


「はぁ、はぁ……、やった、の……?」

 凛が膝をつき、壊れた懐中電灯を放り出して俺に駆け寄ろうとした。だが、彼女も魔力を使い果たし、その場にへたり込んでしまう。


「……あぁ。喰った。カグツチの影を、完全に……」

 俺はかすれた声で答え、激しい渇きを覚えた。喉の奥がカラカラに干からびている。俺は這うようにして、上着のポケットから持参していたスポーツ飲料のボトルを取り出し、キャップを開けて口に含んだ。


 その瞬間――俺の全身に、冷たい戦慄が走った。


「……っ、げほっ、ごほっ!」

 俺は激しくむせ返り、口に含んだ液体を地面に吐き出した。

 おかしい。何の味もしない。

 甘みも、酸味も、スポーツ飲料特有の化学的な風味さえも、すべてが消え失せていた。口の中に残されたのは、ただ『冷たく湿った砂』を噛まされているかのような、不気味で無機質な不快感だけだった。


「悠人……? どうしたの?」

 凛が不審そうに俺を見つめる。俺は震える手で、自分の唇に付いた血を舌で舐めてみた。だが、いつもなら感じるはずの、鉄の錆びたような味すら、全く感知できない。


 ――味覚が、完全に消えている。


 白妙の警告が、脳裏をよぎった。『神の影を同化するたびに、お前は人間としての代償を支払うことになる』。

 これが、最初の等価交換。神を殺し、その力を手に入れた代償として、俺の身体から「味覚」という五感の一つが物理的に削り落とされたのだ。これから先、俺が口にするすべての食べ物は、ただの冷たい砂へと変わる。


 じわじわと這い上がる絶望感に、俺が息を詰まらせた、その時だった。


 パリ、と。

 崩壊していく神殿の残響の向こうから、空間の境界線が物理的に切り裂かれるような、甲高い音が響いた。


 御苑の夜空に、亀裂が入る。その亀裂から、カグツチの青炎とは全く異なる、冷酷で、一切の不浄を許さないまばゆい『本物の光』が、一直線に地上へと降り注いだ。


 ザッ、ザッ、ザッ――。


 静まり返った芝生を、重厚な金属の甲冑が踏みしめる足音が、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ向けて近づいてくる。その光の威圧感だけで、俺の右腕の影が怯えるように激しくのたうち回り始めた。


「……執行官、か」

 俺は、味のしない唾液を地面に吐き出し、新生した『黒炎』の残火が揺らめく右手を強く握りしめた。

HẾT CHƯƠNG

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