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闇市に潜む、はぐれ影絵師の少女

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チク、タク、チク、タク――。


 外套のポケットの奥から響くその音は、黒金悠人の心臓の鼓動と完全に同期していた。古道具屋『月読堂』の白妙が遺したという『月光の懐中時計』。そのゼンマイが刻む冷酷なテンポが、不眠症に引き裂かれそうな悠人の正気をかろうじてこの世に繋ぎ止めている。


「はぁ、はぁ……っ」


 深夜の歌舞伎町。ネオンの洪水がアスファルトを毒々しい原色に染め上げる中、悠人は壁に背を預けて荒い息を吐いた。右腕には、日輪神皇の影を喰らった代償である『右腕の炭化痣』を隠すため、きつく黒い包帯が巻かれている。だが、今それ以上に悠人を追い詰めているのは、左手の感覚だった。


 月光にかざした左の指先は、すでに半透明の黒い硝子のように硬質化し、背後のレンガ壁を不気味に透過させていた。『霊体ガラス化現象』。神の影というあまりに巨大な「闇」を凡人の身で宿した代償は、彼の肉体を確実に、そして急速に侵食しつつあった。


 ――この崩壊を止めるには、『月光の雫』が必要だ。


 蓮二の冷酷な言葉が脳裏をよぎる。あの男は悠人を鍛えはしたが、救ってはくれない。生き延びるためのリソースは、すべて自らの手で奪い取るしかないのだ。


 悠人はサングラスの位置を直すと、歌舞伎町の最奥、路地裏のゴミ捨て場へと足を進めた。昼間は何の変哲もない雑居ビルの隙間。だが、日没後の今、特定の赤い提灯が灯るその細い隙間は、裏東京の境界――『裏東京の闇市』への入り口へと変貌していた。


 壁に身体をぴったりと押し付け、横歩きで暗闇の隙間を通り抜ける。肺の中の空気を魔力へと変える呼吸法『無光息』を意識し、鼓動を極限まで下げる。ずぶ、と空間の粘度が変わる感覚と共に、目の前の景色が歪んだ。


 そこは、表世界の喧騒が嘘のように静まり返り、しかし悍ましい熱気に満ちた異空間だった。崩れかけた長屋のような露店が並び、その軒先には『低級怪異級』の魑魅魍魎たちが蠢いている。怪異の骨、乾いた神の血液、呪われた武具。それらが、人間の忘却された記憶から作られた古銭『影銭』を媒介に取引されていた。


 悠人はポケットの中のわずかな影銭の感触を確かめながら、フードを深く被り、目立たないように歩みを進めた。目指すは、肉体のガラス化を抑える聖水『月光の雫』を扱う商人だ。


 だが、その時。背後の闇から、鋭い殺気が悠人のうなじを貫いた。


「――見つけた。人間の皮を被った、ずいぶんと美味そうな化け物」


 鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい少女の声だった。


 悠人が弾かれたように振り返ると、そこにはショートカットの茶髪に機能的な黒いパーカー、そしてホットパンツを纏った少女が立っていた。雨宮凛。その手には、不自然に輝く懐中電灯と、幾何学的な紋様が刻まれたガラス板が握られている。


 彼女の瞳が、悠人の右腕に宿るカグツチの影の残り香を鋭く捉えていた。凛にとって、その匂いは新宿の闇に潜む危険な大型怪異そのものだったのだ。誤解を解く猶予はなかった。


「光に這い出る害獣は、私の絵の具になりなさい!」


 凛が懐中電灯のスイッチを入れ、その強烈な光をガラス板へと透過させた。瞬間、ガラス板の紋様が巨大な影となって背後のレンガ壁に投影される。投影された『影の狼』が、実体を持った獣となって壁から飛び出し、牙を剥いて悠人へと襲いかかった。


「チッ……!」


 悠人は瞬時に息を止め、身体の力を抜いた。基本移動技『影潜み』。彼は路地裏のダストボックスが作り出す濃い日陰へと、吸い込まれるように身を沈めた。狼の爪が、悠人が直前までいた場所のアスファルトを鋭く引き裂く。


 しかし、凛の戦闘IQは悠人の予測を超えていた。


「甘い。私の前で影に隠れられると思わないことね!」


 凛がガラス板の角度を器用に傾けると、懐中電灯の光が屈折し、ダストボックスの影の輪郭を物理的に「消去」した。影そのものを光で塗り潰された悠人は、空間から強制的に弾き出され、冷たい路面へと転がった。


「がはっ……!」


 肺に強い衝撃が走り、呼吸が乱れる。間髪入れずに、凛は懐中電灯の光軸を直接悠人の顔面へと向けた。網膜を焼き切るほどの強烈な閃光。だが、悠人は事前に鉄火宗助から購入していた『光遮るサングラス』を着用していた。レンズに施された微細な遮光結界が、最悪の失明を食い止める。


 それでも、光の奔流は悠人の『影霊の衣』の右肩部分を無慈悲に焼き切った。生身の皮膚に、じりじりと焼けるような光の火傷が広がり、激痛が走る。


 ――このままでは、影に潜む隙すら与えられずに削り殺される。奴の術式は、光源とガラス板の角度に依存している。なら、その大元を潰す!


 悠人は激痛に耐えながら、懐から『影を吸い込む黒布』を引っ張り出した。光を一切反射しない漆黒のフェルト布。悠人はそれを、凛の懐中電灯に向けて正確に投げつけた。


 バサリ、と黒布が凛の光源とガラス板を覆い隠した瞬間、路地裏を支配していたすべての光が強制的に吸い込まれ、完全な「暗転」が訪れた。


「なっ……!? 光が……!」


 凛が驚愕の声を上げたその一瞬、悠人は息を完全に止め、無光息の極限状態で『影潜み』を起動した。完全な闇の中、摩擦ゼロの空間を滑るように移動し、凛の背後の影から音もなく浮上する。


 悠人の影から伸びた漆黒の腕が、凛の両腕を背後からガッチリと拘束し、彼女の華奢な身体を壁へと押し付けた。懐中電灯が手元から滑り落ち、暗闇の中で鈍い音を立てる。


「動くな。俺は化け物じゃない。ただの、人間だ……っ」


 悠人は凛の耳元で、かすれた声で囁いた。彼の右腕の炭化痣がドクドクと脈打ち、左手のガラス化が冷たい冷気を放っている。凛は息を呑み、至近距離で悠人の顔を見つめた。サングラスの奥にある、不眠症による酷いクマと、必死に生きようとする人間の「泥臭い執念」が、彼女の瞳に映り込んでいた。


「あんた……本当に、人間なの……?」


 凛の勝ち気な瞳に、一瞬の動揺と、同じ「孤独」を抱える者への奇妙な共鳴が宿った。他者に触れられず、夜の街を彷徨う者同士の無言の視線が交錯する。


 しかし、その膠着状態を、最悪の異変が切り裂いた。


 ズズズ……と、闇市の地面全体が地鳴りのような不気味な振動を始めた。アスファルトの隙間から、青白い不気味な陽炎が立ち上り、周囲の気温が異常な速度で上昇していく。


 キィィィィン――。


 悠人の脳裏に、あの忌まわしい神皇の絶叫が木霊した。闇市の防衛結界が、外側から暴力的な熱量によって焼き破られようとしている。


「この熱……まさか、奴が……!」


 悠人の右腕のカグツチの火種が、共鳴するように激しく脈打ち始めた。簒奪された影の核を求め、狂暴化した『カグツチの残影』が、この闇市場へと迫っていたのだ。

HẾT CHƯƠNG

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