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常夜の師、冷酷なる影の掟

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冷たい。まるで氷水を張った泥沼に、頭から無理やり叩き落とされたかのような感覚だった。


 直前まで全身を焼き焦がしていた「カグツチの残影」の青い業火は、一瞬にして消失していた。代わりに黒金悠人の身体を包み込んだのは、光を一切通さない、粘り気のある絶対的な暗闇だ。息ができない。肺が潰れるような圧迫感の中、悠人は炭化した右腕の激痛に耐えかねて悲鳴を上げようとしたが、声すらも闇に吸い込まれて消えた。


 どのくらいの時間、その暗黒の泥の中を引きずり回されたのだろうか。不意に、強烈な浮遊感と共に、悠人の身体は冷たい床の上へと放り出された。


「がはっ……! げほっ、ごほっ……!」


 激しく咳き込みながら、悠人は埃っぽい空気を貪るように吸い込んだ。視界が酷くかすむ。慢性的な不眠症による頭痛が、後頭部を金槌で殴られたかのように激しく主張していた。


 這いつくばった手のひらに触れたのは、古びたワックスの剥げかけた木の床だ。天井を見上げると、月光が汚れた高窓から細く差し込み、埃の粒子を白く照らしている。そこは、周囲に強力な結界を張られ、時の流れから取り残されたような「新宿廃校の旧体育館」の内部だった。


「……起きろ、泥棒小僧。いつまで地べたに這いつくばっている」


 低く、地鳴りのように冷徹な声が頭上から降ってきた。


 悠人は顔を上げた。そこに立っていたのは、全身を漆黒の外套で包み、顔の半分を不気味な包帯で覆った長身の男――烏丸蓮二だった。外套の隙間から覗くその瞳は、凍てつく冬の夜の底のように冷たく、一切の慈悲を拒絶している。


「あんた、は……。ここは、どこだ……?」


 悠人は右腕をかばいながら、震える声で問いかけた。神皇の影を喰らった右腕は、肘のあたりまで黒い煤のような不気味な痣に覆われ、ドクドクと熱い脈動を繰り返している。あまりの熱さに、触れていなくとも皮膚が焼け落ちていくような錯覚を覚える。


「ここは天照衆(あまてらすしゅう)の目が届かぬ、日陰の吹き溜まりだ」


 蓮二は悠人の問いには直接答えず、懐から銀色の古い懐中時計を取り出し、放り投げた。金属の鈍い音を立てて、時計は悠人の目の前の床を転がった。


「それは『月光の懐中時計』。影ノ街の古道具屋『月読堂』の店主、白妙(しろたえ)から調達したお前の生命線だ。拾え」


 悠人は戸惑いながらも、震える左手でその時計を拾い上げた。耳を澄ますと、時計の内部から「チク、タク、チク、タク」と、不気味なほど重く、規則正しいゼンマイの音が響いてくる。文字盤には、通常の時刻ではなく、「日の出までの残り時間」と、不気味に揺らめく「影の浸食度」を示す黒い針が刻まれていた。


「日の出までの残り時間は、お前が『表の世界』へ戻るための猶予だ。そして浸食度の針が百に達した時、お前の肉体は完全に影と同化し、この世から霧散して消滅する」


「消滅……? 何を言っている。俺は、ただ……病院の帰りに……」


「お前は神の影を喰らったのだ、黒金悠人」


 蓮二の言葉は、冷酷な現実となって悠人の胸を突き刺した。


「『昼の領域侵入の禁忌(デイライト・タブー)』――それがこの世界の絶対的なルールだ。お前が宿したカグツチの影は、光を拒絶する。日の光を1秒でも浴びれば、お前の肉体は内側から焼け焦げ、影となって崩壊する。お前の日常は、日没の瞬間に終わったのだ」


「そんな……じゃあ、沙耶は……! 病院にいる沙耶は、どうなるんだ!」


 悠人は叫び、立ち上がろうとした。だが、その瞬間、蓮二の身体から陽炎のような漆黒の霧が立ち上り、体育館の空気が一瞬にして凍りついた。圧倒的な霊的圧力が、悠人の肩を押し潰す。


「妹を救いたければ、まずは自分が生き延びることだ。今の不完全な『一影境・初期』の力では、天照衆の末端の兵にすら一瞬で浄化される」


 蓮二は外套の影から、実体のない漆黒の刃――「影霊刃(えいれいじん)」を静かに引き抜いた。刃の周囲の空気が、光を吸い込むように歪んでいる。


「立て。生き残りたければ、今この瞬間から、影の中で生きる術を身体に叩き込め。私の訓練は、死を以て完了する」


「待て! 俺はまだ――」


 悠人の言葉が終わる前に、蓮二の身体がブレた。


 物理的な予備動作は一切なかった。蓮二の足元から伸びた影が、床の上を摩擦ゼロで滑るように急膨張し、次の瞬間には悠人の目の前にその巨躯が現れていた。これが、影の間を跳躍する暗殺の技術――「影潜みの歩法(シャドウ・ステップ)」だった。


 ヒュッ、と空気を切り裂く音が響き、蓮二の放った影の刃が、悠人の首筋を正確に狙って振り下ろされる。


「ひっ……!」


 悠人は本能的に身を縮め、床の上を転がって刃を回避した。直後、悠人がいた場所の床板が、鋭利な刃物で切り裂かれたように深く、黒く割れた。もし避けるのが一瞬でも遅れていれば、首が飛んでいた。冷や汗が全身から噴き出す。


「避けるな。『影潜み(シャドウ・ダイブ)』を使え。足元の影に、自らの肉体を沈めろ」


 蓮二は表情一つ変えず、再び影の刃を横一文字に薙ぎ払った。悠人の避けるべき死角を塞ぐように、無数の影の棘が床から突き上がる。


 悠人は必死に頭を回転させた。影に沈む。カグツチの影を奪ったあの時、確かに自分の身体が闇に溶けるような感覚があった。悠人は意識を足元の影に集中させ、体育館のステージが作り出す太い日陰の影へと飛び込もうとした。


 しかし――。


「がはっ……!?」


 影に触れた瞬間、悠人の身体はまるで見えないコンクリートの壁に衝突したかのように、激しく弾き飛ばされた。床の上を何メートルも転がり、肋骨に鋭い激痛が走る。


「息が乱れている」


 蓮二が音もなく近づき、悠人の腹部を容赦なく踏みつけた。


「ぐっ……、あ……っ!」


「影の中は無酸素の真空だ。呼吸を乱したまま影に入れば、世界のシステムに拒絶され、肉体を物理的に弾き出される。影の中にいる間は、完全に息を止めろ。肺の中の空気を、魔力に変えて循環させるのだ」


 踏みつけられた足に体重がかけられ、悠人の肺から酸素が強制的に押し出される。頭痛が激化し、目の前がチカチカと明滅する。不眠による極限の疲労が、悠人の思考力を奪おうとしていた。


 ――死ぬ。このままでは、本当にこの男に殺される。


 悠人の左手首で、沙耶の赤いミサンガが、皮膚に食い込むように擦れた。その微かな痛みが、悠人の脳裏に妹の笑顔を呼び起こす。まだ死ねない。俺が消えれば、あの病室で沙耶は誰にも看取られずに死んでいくのだ。それだけは、絶対に許さない。


 チク、タク、チク、タク――。


 床に落ちた懐中時計のゼンマイの音が、悠人の耳の奥で、自身の激しい心拍数と同調し始めた。悠人は深く息を吐き出し、胸の痛みをねじ伏せながら、時計の刻む一定のテンポに自らの鼓動を無理やり合わせていった。


 恐怖を消せ。雑音を消せ。息を止めるのではない。体内の「光(生命力)」を外部に漏らさないよう、呼吸を極限まで細く、深くする。これこそが、蓮二がかつて極めた呼吸法――「無光息(むこうそく)」の片鱗だった。


「ほう……」


 蓮二の目が、包帯の隙間で微かに細められた。


 悠人の心拍数が劇的に低下し、体温が氷点下へと近づいていく。それと同時に、彼の身体から漏れ出ていたカグツチの青い火花が消え、全身の輪郭が周囲の暗闇と同化し始めた。


「仕掛けるぞ、簒奪者」


 蓮二が双剣を交差させ、体育館の天井にまで届く巨大な影の刃を振り下ろした。逃げ場はない。体育館の半分を破壊するほどの、圧倒的な闇の質量が悠人へ降り注ぐ。


 悠人は、自身の着ているパーカーのフードの影を見つめた。そこにある、わずか数センチメートルの、最も身近で最も濃い暗闇。悠人は完全に息を止め、自らの肉体をその小さな「日陰」へと滑り込ませるようにイメージした。


 ――ズブッ、と。


 床の摩擦が完全にゼロになり、悠人の身体が、自身の影の底へと吸い込まれていく。直後、蓮二の巨大な影の刃が、悠人がいた場所の床板を完全に粉砕し、凄絶な衝撃波が体育館を揺らした。だが、悠人はその衝撃を、影の真空の底で、完璧に回避していた。


 一秒後。蓮二の背後、崩壊した床板の影から、悠人の身体が音もなく浮上した。


「はぁっ……! はぁっ……、がはっ!」


 影から吐き出された悠人は、冷たい床に膝をつき、激しく酸素を求めて喘いだ。全身の骨がきしみ、肺が焼けるように痛む。だが、彼は確かに、蓮二の攻撃を完全に「影潜み」で回避してみせたのだ。


 蓮二はゆっくりと振り返り、影の刃を霧散させた。


「一度で掴むか。泥棒としての才能だけは、一流のようだな」


 蓮二の言葉には、微かな、しかし確かな戦士としての容認が含まれていた。悠人は荒い息を吐きながら、辛うじて立ち上がろうとした。


 だが、その瞬間――悠人は、自分の左手に奇妙な違和感を覚えた。


「……なんだ、これ」


 月光に透かした自身の左手の指先。そこが、不自然に透き通っていた。皮膚の質感が失われ、まるで黒い、濁ったガラスのように硬質化し、背後の埃っぽい床が、指先を通じてキラキラと透けて見えているのだ。物理的な感覚が、その部分だけ完全に消失していた。


「影を使いすぎたな」


 蓮二が冷酷に告げた。その瞳に、同情の光は微塵もない。


「『霊体ガラス化現象』だ。お前の肉体が、神の影の浸食に耐えきれず、実体を失いかけている兆候だ。このまま浸食が進めば、お前は明日の朝を迎える前に、完全にガラスとなって砕け散る」


 悠人は、自身のガラス化し始めた指先を凝視した。激しい恐怖が、不眠の頭痛を突き抜けて全身を駆け巡る。人間でなくなっていく。世界から、自分の輪郭が消えていく。その絶対的な絶望の予兆が、静かに、しかし確実に悠人の心臓へ向けて這い上がり始めていた。

HẾT CHƯƠNG

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