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ツクヨミの血脈、深淵が映す真実

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「ごふっ……!」


首を絞め上げる冷たい影の指先。締められたのは、肉体の喉だけではなかった。魂の深淵、俺という存在の根源そのものが、氷点下の闇に直接浸されるような悍ましい感覚が全身を駆け巡る。


明治神宮・鏡の池。


その青白く光っていた水面は、今やドロドロとした漆黒の泥へと変色していた。そこから這い上がってきたのは、俺自身の顔を模した怪物。だが、その輪郭は人間のそれを遥かに超えていた。


背後から蠢く無数の黒い触手。そして、その顔面の中央に、すべてを見透かすような巨大な「単眼」が、ぬらぬらと濡れた闇を湛えて開いていた。池の底から現れたその怪物は、まさに混沌そのものの姿をしていた。


「……お前、は……」


声が出ない。口を開けても、喉の奥から溢れ出るのは、乾いた砂を噛み潰したような不快なザラつきだけだ。神皇カグツチの影を簒奪して以来、俺の味覚は完全に死に絶えている。唾液さえもが、冷たい砂となって喉を塞ぐ。左腕は「魂魂等価交換則」の代償により、肘から先が完全にガラス化し、半透明に透過していた。物理的な感覚は一切なく、ただ凍りつくような麻痺が左半身を支配している。


抵抗すら許されない。俺自身の顔をした怪物の単眼が、じっと俺を見つめた。


『――不眠の器よ。己が病を、未だ呪いと呼ぶか』


脳裏に直接、響く声。それは、俺の影の深淵に眠る古代の封印された夜の神――「月読の神祖」の意思だった。


『お前が夜な夜な眠れず、暗闇の中で狂気に悶えていたのは、病ゆえではない。その魂に宿るツクヨミの血脈が、現世を支配する偽りの光を拒絶していたのだ。アマテラスがもたらす過剰な太陽の光。世界を均一に焼き尽くす同調圧力。お前の魂は、それに抗うために、目を開き続けていたのだ』


(……俺の不眠症が……覚醒の、過渡期……?)


頭痛が割れるように激しくなる。懐の中の『月光の懐中時計』が、「チク、タク、チク、タク」と、俺の狂暴な心拍と同調して耳障りな音を立てていた。浸食度の黒い針が、確実に進んでいる。


怪物の単眼が、俺の網膜に真実のビジョンを焼き付ける。かつて世界は完全な夜だった。静寂と安息に満ちた、美しき暗闇。それを、外からやってきた光の神々が暴力的に奪い、夜の住人たちを「光の燃料」として搾取し始めた。俺の父、黒金征二がこの池で突き止めた真実。そして、沙耶にかけられた奇病の正体――それらすべてが、一本の黒い因果の糸で繋がっていく。


『己の異形を受け入れよ。光を奪う簒奪者となれ。さすれば、妹を救う道は開かれん』


「……あ……あぁ……っ!」


俺は、右腕を覆う黒い包帯を強く握りしめた。神皇の影を喰らい、炭化した俺の右腕。ガラス化して動かない左腕。俺はもう、普通の人間には戻れない。日常を失い、化け物になろうとも、沙耶の命を繋ぐためなら構わない。


「だったら……俺は、簒奪者になってやる。沙耶を救うためなら、神の影だろうと、すべてを喰らい尽くしてやる……!」


俺がその覚悟を口にした瞬間、喉を絞めていた闇の手が、スッと霧のように溶けて俺の影へと吸い込まれていった。池の底から湧き出た青い霊力と巨大な単眼が、俺の背後の影と同化し、爆発的な闇の魔力が霊脈へと流れ込んでいく。ツクヨミの血脈の、完全な覚醒。全身のガラス化が一瞬だけ和らぎ、圧倒的な闇の力が俺を満たした。


だが、そのカタルシスを味わう時間は、一瞬たりとも与えられなかった。


キィィィィン――!


神宮の森全体を揺るがす、耳を劈くような高周波の結界音が響き渡る。


鏡の池の周囲、うっそうとした巨木たちの隙間から、まばゆい黄金の光の障壁が立ち上がり、空を覆い尽くしていった。天照衆の感知結界が、俺の覚醒を完全に捉えたのだ。


「――不浄なる簒奪者よ。これ以上の神域の汚染は許さん」


重厚な、しかし一切の迷いがない冷酷な声が、頭上から降り注いだ。見上げれば、黄金の光の粒子を撒き散らしながら、一人の男が神宮の虚空から静かに舞い降りてくる。


白と黄金の重厚な鎧を纏い、背中にはまばゆい光の輪――常陽の紋章を背負った壮年の神官。天照衆の最高執行官、金剛寺烈(こんごうじ れつ)。その手には、高天原の太陽の炉から直接神威をチャージした、まばゆく輝く「光輝の長槍・天罰」が握られていた。彼の存在そのものが、夜の住人を灰にする絶対的な光の塊だった。


「神皇の影を盗み、禁足地を穢した泥のネズミめ。その魂ごと、塵に帰してくれよう」


烈が右腕を引き絞り、光輝の長槍を池に向けて投擲した。


「黒炎……っ!」


俺は本能的に、右腕に宿るカグツチの影から「黒炎の術式」を引き出し、烈の長槍を焼き切ろうとした。だが、烈が放った光の純度はあまりにも高すぎた。漆黒の黒炎は、長槍が放つ圧倒的な光の圧力に押し潰され、接触する前に空気中で強制的に消火されてしまった。格が違いすぎる。


「がはっ……!」


次の瞬間、長槍が鏡の池へと突き刺さった。爆発的な黄金の光が炸裂する。


――ドゴォォォォンッ!


神聖な爆発が神宮の森を吹き飛ばした。鏡の池の水が一瞬にして蒸発し、周囲の百年を経た巨木たちが、跡形もなく光の塵となって消滅していく。凄絶な衝撃波が、俺の身体を物理的に引き裂こうと迫る。


「影霊の衣(えいれいのころも)……ッ!」


俺は覚醒したばかりのツクヨミの魔力を限界まで絞り出し、自身の影を衣服のように全身に纏わせる絶対防御の鎧を展開した。動かないガラスの左腕を庇いながら、右腕一本で魔力を制御する。


ゴォォォォッ!


光の衝撃波が影の衣に激突し、衣の端がジリジリと融解していく。熱が、俺の皮膚を内側から焼き焦がす。骨が軋み、肺から空気が搾り出されるが、俺は左手首の赤いミサンガを握りしめ、沙耶の顔を思い浮かべて耐え続けた。


「ほう、神の影を纏って耐えるか。だが、その泥の防壁がいつまで持つかな」


烈が冷酷に宣告し、一歩前へ踏み出した。彼の背後の黄金の光輪が、太陽のようにまばゆく明滅する。


「『無光光の領域(むこうこうのりょういき)』――展開」


瞬間、神宮の焼け野原となった空間から、すべての「影」が消失した。烈が放つ特殊なスペクトル光が、地面の凹凸、倒れた大木の隙間、そして俺の足元に至るまで、すべての闇を物理的に「消去」したのだ。影を失ったことで、俺の纏っていた「影霊の衣」が、まるで砂の城のようにサラサラと崩れ落ちていく。


「う、あ……っ!」


生身の肉体を、強烈な光に晒される。皮膚がジリジリと焼け焦げ、左腕のガラス化が急速に胸元へと這い上がってくる。光の中に引きずり出された影の住人は、ただ干からびて死ぬしかない。烈が再び、光の長槍をその手に具現化させた。


(正面から戦えば、一秒で灰にされる……奴の光を遮る影を作るには、奴の精神を揺るがすしかない)


俺は、右手の指先から滴るツクヨミの血を睨み、最後の賭けに出た。


「不眠の共鳴(インソムニア・エコー)――ッ!」


俺は、十六年間、一秒の眠りも得られずに暗闇を見つめ続けてきた底知れぬ疲労感、脳を引き裂くような偏頭痛の幻覚、そして焦燥の地獄――そのすべてを、影の粒子に乗せて、烈の脳内へと直接同期させた。


狂信的な絶対正義を信奉する烈の精神は、まばゆい光で満たされている。それゆえに、俺の放った「底知れぬ暗闇の苦痛」は、彼の脳に致命的なバグを引き起こした。精神の隙を突いた、渾身のカウンターだ。


「ぐ、あ、あぁぁぁっ……!? 何だ、この不浄な泥は……脳が、割れる……っ!」


烈が黄金の長槍を落とし、頭を抱えて激しくよろめいた。彼の背後の光輪に、微かな亀裂が入る。無影光の結界が揺らぎ、周囲にわずかな日陰が戻り始める。


「はぁ、はぁ……今だ……っ!」


俺は脳の血管が数本破裂するような激痛に襲われ、両目から生暖かい血を流しながらも、右手を天に向けて突き出した。


「極夜の先触れ(ハルビンジャー・オブ・ノクターン)……ッ!」


暴走するツクヨミの神威が、俺の影から爆発的に噴出した。一瞬にして、明治神宮全体が、光を一切通さない「完全な暗闇」へと包み込まれた。烈の放つ無影光の領域が、俺の強制的な夜の帳によって力ずくで塗り潰される。


「おのれ、簒奪者ぁぁぁッ!」


暗闇の中で、烈が狂乱したように光の熱線を四方に乱射する。だが、完全な闇の中では、俺の「影潜み」は無敵の機動力を発揮する。俺は闇に溶け込み、烈の攻撃の隙間をすり抜け、神宮の外周へと向けて疾走した。


しかし、限界だった。脳の許容量を超えた魔力の暴走は、俺の精神を内側から破壊しつつあった。


「がはっ……!」


肺から大量の血が溢れ出し、膝の力が完全に抜ける。精神の限界値である「影の拒絶限界(不眠の極限)」に達し、視界が完全に真っ黒に染まっていく。バタリ、と冷たい地面に倒れ込んだ。


薄れゆく意識の端で、誰かが俺の身体を強く抱き起こすのを感じた。


「悠人! しっかりして、悠人……っ!」


雨宮凛の声だった。彼女は、ボロボロになった俺の身体を抱え、天照衆の結界の隙間から、新宿の夜の中へと決死の逃亡を開始していた。


暗闇に沈む俺の脳裏に、烈の激怒に満ちた声が、遠くで響いていた。


――簒奪者め、逃がすと思うな。お前が通う「私立黎明高校」を、次の処刑場に指定してやる……。


俺の意識は、そこで完全に途切れた。

HẾT CHƯƠNG

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