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日没の狂気、影を盗んだ少年

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眠れない。もう何百時間、脳が沸騰するような熱を抱えたまま、この歪んだ世界を見つめ続けているのだろう。


 私立黎明高校の放課後、夕焼けが差し込む教室で、黒金悠人は机に突っ伏したまま、じっと自分の手のひらを見つめていた。皮膚の薄い手の甲には、慢性的な不眠症のせいか、青い静脈が不気味なほど浮き上がっている。目の下には、消えることのない漆黒のクマが刻まれていた。


「おい悠人、また一睡もしてねえのか? お前、本当にいつか死ぬぞ」


 声をかけてきたのは、クラスで唯一、悠人を気にかけてくれる親友の瀬戸翔太だった。翔太は心配そうに悠人の顔を覗き込み、自身のパーカーのフードをいじる。


「……大丈夫だ。ただ、少し頭が重いだけだよ」


 悠人は掠れた声で答え、ゆっくりと立ち上がった。嘘だ。脳の奥が、まるで何本もの針で絶え間なく突き刺されているように痛む。だが、悠人にはここで倒れているわけにはいかない絶対の理由があった。


 学校を出た悠人が向かったのは、夕闇に沈みつつある東新宿の街並みだった。排気ガスと人混みをすり抜け、彼が足を踏み入れたのは、都立東新宿総合病院の静まり返った敷地内である。その最上階にある「特別病棟」の一室。表向きは重度の無菌室とされているが、そこには悠人の最愛の妹、黒金沙耶が横たわっていた。


「お兄ちゃん……?」


 白いパジャマを纏った沙耶が、ベッドの上で細い身を震わせながら微笑んだ。彼女の瞳は兄譲りの深い黒だが、その奥には微かに光を失った、淀んだ気配が漂っている。彼女の奇病――いや、父の遺品に記されていた言葉を借りるなら「神の呪い」は、確実に彼女の生命力を蝕んでいた。沙耶の左手首には、病床で彼女が手作りしてくれた、色褪せた赤い糸のミサンガが巻かれている。悠人の左手首にも、それとお揃いのものがしっかりと結ばれていた。これだけが、悠人の崩壊しかけた正気を繋ぎ止める唯一の錨だった。


「沙耶、体調はどうだ?」


「うん、お兄ちゃんの顔を見たら、少し良くなった気がする。お兄ちゃん、ちゃんと眠れてる?」


「ああ、心配ない。沙耶の病気が治るまで、俺はいくらでも元気だからな」


 優しい嘘を吐きながら、悠人は沙耶の冷たい手を握りしめた。彼女の命を繋ぎ止めるには、現代医学では不可能な「何か」が必要だった。父の遺した研究手帳には、この東京の夜の底に、あらゆる呪いを解く奇跡が眠っていると書かれていた。悠人は沙耶に短い別れを告げ、病院を後にした。


 病院を出た時、世界はちょうど「日没」を迎えていた。太陽がビルの群れの向こう側に完全に沈み、東京の空が紫から漆黒へと塗り潰されていく。悠人は近道をするため、新宿歌舞伎町の路地裏へと足を踏み入れた。その瞬間だった。


 ――キィィィィン、と。


 耳を劈くような高周波の耳鳴りが、悠人の脳を直撃した。不眠症の幻覚ではない。周囲の空気が、まるで氷水を浴びせられたかのように急速に冷え込んでいく。きらびやかだった歌舞伎町のネオン看板の光が不自然に歪み、緑や赤の光がアスファルトの上で生き物のようにのたうち回り始めた。


 音が消えた。通行人たちの話し声も、車のクラクションも、すべてがガラスの向こう側の出来事のように遠ざかる。代わりに、ビルの壁面や電柱の影が、物理的な厚みを持ってドロリと蠢き出したのだ。そこは、日没後の東京にのみ浮上する、八百万の神々と怪異の闇市――「新宿影ノ街」の境界だった。


「……なんだ、これは」


 悠人が息を呑んだ瞬間、ネオンの歪んだ影から、ドロドロとした不定形の塊が這い出てきた。それは、人間の負の感情とネオンの残像が混ざり合った下級の怪異だった。化け物たちは、悠人の極限の疲労感と、不眠によって削り取られた「生気」の匂いを嗅ぎつけ、赤い目を光らせて一斉に襲いかかってきた。


 ――喰わせろ。その美味な眠りを、よこせ。


 脳内に直接響く悍ましい声。悠人は本能的な恐怖に駆られ、無我夢中で路地裏を走り出した。しかし、走るたびに、自身の足元から伸びる影が異常に引き伸ばされ、地面に強く張り付くような感覚に襲われる。影が意志を持ち、悠人の肉体から体力を激しく吸い上げているのだ。肺が破れそうなほど激しく呼吸し、角を曲がったその時、悠人はその光景を目撃した。


 路地の突き当たり、ゴミ捨て場の影。そこに、まばゆい、しかしどこか血の匂いのする黄金の光を放つ存在が倒れ込んでいた。それは全身から青白い炎を放ち、苦痛に悶える巨大な影の化物――「日輪神皇・火之迦具土(カグツチ)の残影」だった。神皇は、表の秩序を守る「天照衆」の追跡によって致命傷を負い、その核(カグツチの火種)を暴走させていたのだ。


「不浄の……人間が……ッ!」


 瀕死の神皇の残影が、悠人の存在に気づき、黄金の眼を血走らせた。神皇は生き延びるため、悠人の無力な肉体を乗っ取ろうと、その足元から触手のような光輝く影を伸ばし、悠人の足首を絡め取った。その瞬間、悠人の魂を直接焼き尽くすような、凄絶な熱量が全身を駆け巡った。


「あ、が、あああああああッ!」


 あまりの激痛に、悠人は絶叫した。血管を溶岩が流れているかのような熱。意識が白い光の中に溶けて消えそうになる。だが、その極限の苦痛の中で、悠人の血脈の奥底に眠る「何か」が、牙を剥いて目覚めた。


 不眠症という名の「光への拒絶反応」。それは、古代に封印された夜の神・ツクヨミの血統が、現世の過剰な光に抗うための覚醒の予兆だったのだ。悠人の漆黒の影が、主の危機に反応して爆発的に膨れ上がった。悠人の右腕から這い出た影の手が、神皇の黄金の影をガッチリと掴み、逆に自らの影の中へと力ずくで引きずり込み始めた。


 それは、失われた禁忌の術式――「影喰らいの儀(シャドウ・イーター)」の本能的な発動だった。


「馬鹿な……人間の分際で、我が影を、喰らうというのか……ッ!?」


 神皇の残影が驚愕と絶望に満ちた声を上げる。悠人の影は、神皇の光り輝く神威を「闇」へと反転させ、物理的に自身の右腕の影へと縫い付け、貪り喰らっていく。簒奪。神殺しの泥棒。世界のシステムを揺るがす大罪が、今、この薄暗い路地裏で静かに完了しようとしていた。


 しかし、神の影を喰らう代償は、生身の高校生にとってあまりにも苛烈だった。神皇の残滓が最後の力を振り絞って放った、暴走する青い炎の熱風が、悠人の右腕を内側から焼き焦がしたのだ。


「が、はっ……!」


 悠人の右腕の皮膚が、ジュウジュウと音を立てて炭化していく。それは生涯消えることのない、漆黒の煤のような不気味な痣となって右腕全体を覆い尽くしていった。さらに、肺が焼き切れるような熱風が周囲を包み、カグツチの青炎が路地裏を地獄の火の海へと変えていく。暴走する炎が、悠人を跡形もなく灰にしようと迫り来る。


 意識が遠のく。熱量に耐えきれず、悠人が地面に膝をついたその瞬間だった。


 背後の、ネオンの光すら届かない深い路地裏の暗闇から、漆黒の包帯を巻いた不気味な男の長い腕が音もなく伸びてきた。その手が、悠人の炭化しつつある右腕を、冷酷なほど強い力で鷲掴みにした。

HẾT CHƯƠNG

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