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硝子の棘と、無垢な花

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昨夜、ペントハウスのエアコン内部と植木鉢の陰から見つかった、三つの高性能盗聴器。

それらをあえて撤去せず、佐々木専務の一派に「偽の財務破綻と不仲」を聴かせるための『共同演技』を演じ終えた余熱が、まだ琴音の肌に冷たく張り付いているようだった。あの時、駿介の熱い手が彼女の右手を強く握りしめた瞬間の、言葉にできない微熱。左手薬指のスマートリングが検知した心拍数「百三十」の残響が、未だに彼女の胸の奥で不規則な鼓動を刻んでいた。


朝靄に包まれた高輪の超高級ペントハウス。全面ガラス張りの窓から差し込む朝光は、雨上がりの澄んだ空気を透過して、リビングの白い大理石の床を鋭く照らし出している。

琴音は仕立ての良いグレーのシルクシャツの袖を軽く捲り上げ、キッチンカウンターに置いた暗号化タブレット端末の画面を見つめていた。そのサファイアのように澄んだ瞳が、送られてきたばかりの極秘報告書の一行を捉えた瞬間、凍りついたように静止した。


差出人は、彼女が個人的に莫大な報酬で契約している私立探偵、田中健治。元公安刑事である彼の調査精度は絶対だった。


『氷室冴子氏(継母)が昨日午後三時、赤坂の料亭周辺にて佐々木専務の秘書・大野と接触。氷室莉子氏(実妹)の今週の講義スケジュール、および渋谷の美術大学におけるアトリエの利用時間帯、通学ルートの詳細を記したメモを渡したことを確認。冴子氏の目的は、宗一郎氏の遺産分割協議における優位性の確保、および琴音社長への精神的圧迫の材料提供と推測される』


「……お母様、あなたという人は」


琴音の薄い唇から、かすれた吐息が漏れた。胸の奥が、冷たい氷の楔を打ち込まれたように激しく痛む。

実の父親である宗一郎が急死し、孤独な戦いを強いられている自分を助けるどころか、後妻である冴子は自らの実利のために、まだ十九歳の純真な実妹・莉子を社内抗争の泥沼に売り渡したのだ。佐々木専務が莉子の身辺を狙い、自分に社長辞任を迫るための『物理的な脅迫材料』にすることは火を見るより明らかだった。


(莉子が、私のせいで危険に晒される……!)


急激な焦燥感とパニックが、琴音の全身の血を凍らせていく。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。誰も信じられない、誰も頼れないという、幼少期から植え付けられた根源的な恐怖が彼女の喉を締め付けた。

その瞬間、彼女の左手薬指にはめられたプラチナのスマートリングが、皮膚の急激な温度変化と脈拍の上昇を検知し、フレームの内側で静かに、鼓動のように赤く点滅し始めた。


ピッと、背後で低い電子音が鳴った。


「朝の挨拶にしては、ずいぶんと情熱的な心拍数だな、私の妻」


冷徹で、極めて心地よい低音の響き。振り返ると、そこには完璧に整えられた髪にダークネイビーの三ピーススーツを纏った黒崎駿介が立っていた。彼の漆黒の瞳は、手元に持った自身のアラート端末を見つめている。画面には、琴音の脈拍が『百三十五』に急上昇したことを示す赤い警告グラフが表示されていた。


駿介は音もなく大理石の床を踏み、琴音の背後に立った。彼のジャケットから漂う、微かなウッディ系の香水が、パニックに陥っていた琴音の嗅覚を静かに支配していく。


「黒崎社長……」


「人前以外では、その呼び方は不要だと言ったはずだ。何があった」


駿介は琴音の震える指先から、滑り落ちそうになっていたタブレット端末を無造作に奪い取った。画面に表示された田中の報告書を一瞥した彼の眉が、僅かにピクリと動く。それは琴音の「微表情解読能力」をもってしても、見逃してしまいそうなほど微小な、だが確実な『不快』のサインだった。


「佐々木が、莉子を狙っているわ」


琴音は自らの声を極限まで冷徹に保とうとしたが、微かな震えを隠しきれなかった。


「冴子がお母様としての権限を利用して、莉子のスケジュールをすべて奴らに渡したのよ。莉子はビジネスの泥沼とは無関係な、ただの美大生よ。彼女に何かあれば、私は……。今すぐ、高輪の別邸に彼女を連れ戻し、すべての出入りを禁止して隔離しなければ」


「却下だ」


駿介は端末をテーブルに置き、冷酷に言い放った。


「何ですって?」


琴音の瞳に、激しい怒りの火花が散った。我が身を盾にして戦う覚悟はあっても、莉子だけは彼女の絶対的な聖域なのだ。それを『却下』の一言で片付けられるわけにはいかない。


「冷静になれ、琴音。君が今、不自然に妹を隔離すれば、佐々木と大野に『盗聴器の存在に気づかれ、情報漏洩ルートを把握された』と自ら教えるようなものだ。奴らは警戒し、より陰湿で、予測不可能な地下の暴力装置を動かすことになる。それは防衛戦において最悪のシナリオだ」


「じゃあ、莉子をあの剥き出しの大学に放置しろと言うの!? 佐々木が雇った地上げ屋や半グレが、いつ彼女に接触するか分からないのよ!」


「放置しろとは言っていない」


駿介は一歩、琴音に近づいた。二人の距離は、再び昨夜のソファでの距離と同じ、互いの吐息が触れ合うほどの至近距離になる。駿介の漆黒の瞳が、琴音のサファイアの瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「君がビジネスに百パーセントの冷徹さで集中するためには、君の精神的ボトルネックである『妹の安全』を完全に保証する必要がある。それは我が黒崎グループにとっても、百億円の投資価値を守るための『必須のリスク管理』だ」


駿介は自身のスマートフォンを操作し、一枚の顔写真と経歴書を琴音の画面に転送した。

画面に映し出されたのは、ポニーテールにジーンズ姿の、一見するとどこにでもいるカジュアルな雰囲気の女子大生だった。しかし、その経歴欄には、琴音の目を疑わせる文字が並んでいた。


「彼女の名は高橋奈々。元陸上自衛隊特殊作戦群の隊員であり、現在は我が黒崎グループの特別危機管理室に所属する特級警護員だ。身の回りのあらゆる日用品を武器に変え、対テロ制圧術を極めた戦闘マシーンでもある」


「彼女を、莉子の側に……?」


「すでに手続きは完了している。高橋奈々は今朝から、莉子の通う渋谷の美術大学に『他大学からの編入生』として極秘裏に潜入している。莉子の最も近くの席を確保し、彼女の日常を装いながら、二十四時間体制でステルス警護を行うプロトコルを起動した」


琴音は息を呑み、画面に映る高橋奈々の冷徹な瞳を見つめた。駿介の、あまりにも迅速で、完璧な先回り護衛戦略。


「君の妹は、日常を奪われることなく、完璧な防壁の中でキャンバスに向かうことができる。佐々木が放った犬どもが接触した瞬間、高橋が音もなく処理する。――これで満足か、私の妻よ」


駿介の言葉は相変わらずビジネスライクで、冷たい論理に裏打ちされていた。しかし、琴音の胸の奥に、かつて感じたことのない、重く、温かい感情が満ちていくのを止められなかった。

孤独に戦うことしか知らなかった自分が、初めて「家族の安全」という最も脆い弱点を、この冷酷な共謀者に完全に預け、守られている。


「……感謝します、駿介」


琴音が初めて、彼のファーストネームを契約書以外の口調で呟いた。駿介の目元が、一瞬だけ驚きに似た微表情を見せたが、彼はすぐにそれを「絶対的ポーカーフェイス」の奥へと隠し、冷たく微笑んだ。


「礼には及ばない。これは等価交換だ。その代わり、君は明日の市場で、ヴァルキリーを完璧に叩き潰すための『アテナ』の調整に集中しろ。――いいな」


「ええ。約束するわ」


二人の視線が、朝光の中で静かに交差し、契約書を超えた微かな信頼の熱が、ペントハウスの空気を満たしていった。



     * * *



渋谷の喧騒から少し離れた、緑豊かな武蔵野美術大学のキャンパス。

午前中のアトリエには、独特の油絵の具とテレピン油の鋭い香りが充満していた。高い天井のガラス窓から差し込む柔らかな北窓光が、無数に並んだイーゼルと、キャンバスに向かう学生たちの影を静かに描き出している。


そのアトリエの最奥、最も日当たりの良い窓際で、氷室莉子は一心不乱にパレットナイフを動かしていた。

緩やかにウェーブした黒髪を後ろでラフにまとめ、パステルピンクの絵の具で汚れたエプロンを纏った彼女は、姉の琴音とは対照的に、周囲の空気を和らげるような無垢なオーラを放っている。


彼女が今、コンクールに出品するために描いている巨大なキャンバス。

そこには、深海のような深いサファイアブルーの背景の中に、無数の鋭い硝子の棘で編まれた、美しくも痛々しい『硝子の冠』が描かれていた。その冠の中心には、一人の女性の横顔が、冷たいグレーの絵の具で、しかし息をのむほどの気高さを持って浮かび上がっている。


莉子は、色彩心理を用いた感情表現の天才だった。彼女は、言葉にできない姉・琴音の「冷徹な社長としての孤独」と、その奥にある「自分への温かい愛」の本質を、この絵画にすべて写し取ろうとしていた。


「……お姉ちゃん」


莉子は小さく呟き、筆先に冷たい硝子を表現するためのグレーを混ぜ合わせた。姉が背負っている重い宿命を、自分は何も手助けできない。そのもどかしさと痛みが、キャンバスの上の硝子の棘を、より鋭く、美しく尖らせていく。


その莉子のイーゼルの、わずか二メートル後ろ。

新しい編入生として紹介された高橋奈々は、スケッチブックを膝に乗せ、鉛筆を走らせていた。ジーンズにスニーカー、ラフなパーカーを羽織った彼女は、周囲の美大生たちの中に完全に溶け込んでいる。

しかし、その澄んだ瞳の奥は、アトリエの出入り口、窓の外の駐車場、そして莉子の僅かな挙動のすべてを、ミリ秒単位で冷徹にスキャンし続けていた。

奈々のバッグの底には、いかなる暴漢も一瞬で沈黙させる特殊警棒と、緊急用の催涙・閃光スプレーが極秘裏に忍ばされている。


莉子は、自身の背後に配置された『最強の盾』の存在に気づくこともなく、ただ姉の孤独を救うための美しき『硝子の冠』に、自らのすべての感性を注ぎ込み続けていた。


その無垢なキャンバスの向こう、アトリエの窓の外の古い並木道の陰に、黒いセダンの不穏な影が、静かに停車していることにも気づかずに――。

HẾT CHƯƠNG

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